第20話 落とし穴

 ヴィエリに目をつけられてからひと月半。

 今日も航は青筋を立てたヴィエリ相手に終わりのないディフェンスを続けていた。


「もう勘弁してくれよ! 俺ばっか目の敵にする必要ないだろ! ハインケスはどうした? ハインケスは」

「るせえ! ハインケスの前にまずはてめーだ! どんべえッ!!」


 にべもなく怒気を含んだ声が飛んでくる。

 あの日以来、ヴィエリの潰すやつリストに名を連ねてしまった航。

 結果として連日ヴィエリから逃げ回るはめになり、コーナーリングの技術がめきめき上達していった。

 まだら模様の雲が広がる秋空の下、航たちは角馬場でダク踏んで体を温めていく。


「しゃきしゃきわかるよう脚を動かせ! 後ろがつっかえてるんだ! それともひりつぶされてえのか!?」

「だったら先にいけよ。ほらっ」


 航はうんざりしながら縦列から外れ、追い抜いてくれとヴィエリに促すが、


「ああ゛! 俺の前は走れないって言うのか!!」

「ええ……」


 横暴だと。

 言い返したくなるのをぐっと堪え、要望に沿うように走ってやる。

 何をするわけでもなく、至近距離まで近づいてきて、どういう腹づもりなのか。気味が悪いったらありゃしない。


「あいつら本当に仲がいいなあ。ここんとこ、いつもいっしょだぞ」

「気に入らないことがあるとテコでも動かない偏屈屋のヴィエリが、どんべえにだけは気を許してるんだから、わからないものだな」

「なんにせよ仲が良いってことはいいことだ。いっそのこと、どんべえと同じ組にしたらどうですと哲弥さんに進言してみるか」


 ほとほと手を焼いていた馬のパートナーが見つかったとスタッフたち。

 当事者のあずかり知らぬところで、悪夢のような話が進められている一方――

 ダクから、軽めのキャンターまで約20分かけて、しっかり体をほぐすために、右回り、左回りと周回を重ねた。



 屋内周回コースを走った後は、各々すみやかに乳酸値の測定に入る。

 今回行った調教がどの程度の運動負荷であったか。

 以前なら人の感覚だけを頼りに判断していたことも、今日では血中乳酸値という科学的な指標を用いて調教を行っている。

 同条件で測定された調教後の乳酸濃度の値を元に、哲弥は個々の馬に合ったメニュー調整をしていく。


「やっぱり、どんべえには軽かったか」


 2.2mmol/Lの数字を見て。

 血中乳酸値が4mmol/Lになり、乳酸蓄積開始点に達すると、有酸素運動から無酸素運動に切り替わる。

 つまり有酸素性エネルギー供給主体のトレーニングを行うなら、乳酸値が増加し始める2mmol/L~4mmol/Lの範囲とし、無酸素性エネルギー供給系を高めることを目的とした場合は、乳酸値4mmol/L以上の運動強度を設定する必要があるというわけだ。


「これは心肺機能はそうとうなものがあるな」


 血中乳酸値は疲労の度合いを測る運動指標としてだけでなく、

 乳酸値と走行速度。相関のある2つのデータから散布図を作成し、回帰直線を引くことで、有酸素運動能力が高いか低いかを評価することができる。

 有酸素運動能力のポテンシャルに、気性、操縦性の良さと。

 これだけあるのなら、中長距離に向いていると見てまず間違いないだろう。


「サウザーにもシーザリオ、ブエナビスタ、ジェンティルドンナの2018といるが、どの子も前進気勢が強すぎるみたいだ。そう考えると、つくづくおもしろい」


 サンデーサイレンスのクロスの狙いはスピード強化と早熟化であるが、気性が悪くなるデメリットを抱えている。

 サンリヨンの2018の血統を紐解けば、父系は言わずもがな、母系も『パーソロン』持ち。産まれてくる子供が総じて大変な気性難という筋金入りの血が入っている。

 マイナスとマイナスをかけて、気性◎になるとは誰も思うまい。


「――しかし、傾向はあくまで傾向だ」


 その枠にとどまらない例外は、時として、血統からは想像もつかない規格外の競走馬である可能性を秘めている。


「シャルル、ヴィエリにどんべえ。ひ弱さが解消されればキッドやエージにもチャンスはある。うちの厩舎から複数GⅠホースが出てもおかしくないぞ」


 今年はいつになく粒ぞろいなことに。

 哲弥は興奮気味に声を弾ませて自信ありの様子だった。


            ☆            ☆


 大きな怪我もなく順調そのもの。

 調教を終えた航は、目尻を下げた八肋に迎えられる。


「もの足りないって顔だな?」

「ええまあ。このペースで走るにもすっかり慣れましたし」


 育成期初期は持久力向上を主軸に置き、できるだけ長い距離を走るトレーニングが行われる。

 ハロン20秒を上限としたキャンターを2000mほど。

 追い切った後も息の入りが早く、発汗もわずかで、正直体力を持て余してる状態だった。


「今日の調教結果を翌日以降にすばやく反映させるために乳酸値測定をやってんだ。明日からはお望み通り、ペースを上げるよう指示が出るだろうよ」


 八肋は乳酸値4mmol/L以上の負荷をかけた調教が始まる可能性を示唆すると、


「より効果的に、より安全に――サウザーで行われていることにはすべて意味がある」


 気が緩みかけた航のネジを巻き直す。


「どんべえ。お前にはロードカナロア産駒でもクラシックを狙えると証明したサートゥルナーリアと同じ役割を期待されてるんだ」


 すでに坂路入りしている育成馬が少なくない中、速い時計を出すよりも周回コースでじっくり乗り込み、縦列調教で我慢して走ることを習慣化させているのは、中距離戦、長距離戦を意識してのもの。

 長距離血統でもサクラバクシンオーやサッカーボーイのように気持ちが先行してしまう馬は、ペース配分ができず距離が持たない。

 そのため、一にも二にも折り合いが重要になってくる。


「結果が出ねえからと言って、マイルやダートを試すなんて選択肢は、どんべえの場合、最初からないんだ。内心誰もがそっちの方が向いてるんじゃないかと思っていたとしてもな」

「そんな……」

「競馬の花形である中距離、クラシックディスタンス。この一番層の厚い激戦区で戦うことを約束しているからこそ、どんべえはここにいられるんだ。そのことを忘れるな」


 サウザーの恩恵を受けている以上は路線変更は許されない。

 改めて自分の置かれた立場を再認する航。

 冷や水を浴びせかけられた航の表情が一瞬にして真剣なものになった。


(クラシックが終わっても、王道路線を進むことが決定してるのかよ)


 世代戦では距離に不安があっても、ある程度誤魔化しが効くが、各距離のスペシャリストが顔を揃える古馬混合戦になると、とたんに通用しなくなる。

 圧倒的なスピードを誇ったテイエムオーシャンをもってしても、王道GⅠレースでは距離の壁を克服できなかった。


「短距離馬は活躍しても話題の中心にはならないもんなぁ」


 権威あるレースに絡めない短距離路線は軽視される傾向にある。

 モーリスの種牡馬価値を高めるために、サウザーが2000~2400での実績に拘るのも当然と言えた。


「冷静になって考えると、なかなかにひどくないです?」

「サウザーが費用全持ちでバックアップしてんだ。それくらいじゃないと釣り合いが取れねえよ」


 言いたいことはわかるが。

 それでも距離適性なり相手関係なりを見てレース選択をすれば勝ち鞍を増やせると航は言いたげだ。


「勝てそうなところを選んで使うのはクラブ馬の役目だ。お前に求められてるのはそういうのじゃない」


 八肋がピシャリと言い返した。


「――これって、生き残るためだけなら、サウザーに行かなかった方がよかったんじゃ……?」

「そらそうよ。GⅠレースを勝つ以外に屠殺場送りを免れる方法がねえんだから」

「……」


 裏開催重賞で空き巣狙いや、地方競馬でドサ回りをして賞金を稼ぐことが不可能だと教えられて。

 航の視界は真っ白に塗りつぶされた。

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