第19話 青かげ危機一発
「空港では枠入りや駐立までで、トレセンに入厩してから本格的に取り組むってのも一つの手だ」
「……」
成長分。筋肉量の差だと捨て置くのは簡単だ。
この程度で音を上げるくらいなら、最初から発馬練習を頼んだりはしない。
足りないものがたくさんあると痛感しながらも、航は下を向くことなく、続ける意思があることを伝える。
「いえ、まだやれます。やらせてください!」
「いい返事だ。それでこそしごき甲斐がある」
マルシェは航の息が戻ったのを確認すると、休憩もそこそこにゲートに向かう。
(にしても、ずいぶん長いこと続けてたな)
一瞬しか回転襲歩を使えない馬もいれば、比較的長い時間回転襲歩で走れる馬もいる。
回転襲歩の時間に対して、それほど消耗が見られないため、航は後者だと思われる。
(もし仮に、レース終盤、意図的に回転襲歩を使用できたとしたら――)
それは言うまでもなく唯一無二の切り札。
最高格付けの競走であるGⅠを勝つための決め手になるであろう。
「たとえわずかでも、盗めるものがあれば全部盗んでやる」
技術的な裏付け、積み重ねがなければ、不調に陥った際、どこをどう修正していいのかわからない。逃げ先行有利な短距離戦で活躍したマルシェが、何も考えずに本能のまま走っていたはずがないのだ。
必ず見習える部分があると信じて。
航は諦めたくなる心に鞭打って、スタート練習を再開した。
「再現性が高すぎる。こんなの反則だろ……!」
精密機械のように同じ動きを幾度も繰り出すマルシェ。
出遅れとは無縁のスタートダッシュがいかんなく披露される。
「どうした!? さっきより走りに精彩を欠いてるぞ」
「なことわかってますよ! わかっちゃいるけど……」
自分の走りと何が違うのか。
走る時の歩幅を変えたりして、色々試してはいるが、なかなかこれだというものに至らない。
走速度はピッチ×ストライドの計算式で求められる。
脚の回転数を上げて走れば、トップスピードに到達するまでの時間を短縮でき、歩幅を大きく取って走れば、長くスピードを維持することが可能になる。そのためマルシェがすぐに加速できるピッチ走法で走っていると予想はついた。
しかしそこから先――同じことを自分がやると、スピードの乗りが今一つなのだ。
(こうなりゃ、限界まで歩幅を狭めてやる!)
航は半ばヤケになり。破れかぶれの極論に走ってしまった。
「これならどうだああああ!!」
気合十分ゲートを出て。
脚の回転を最大限速くしようと、極限まで跳びを小さくする。
一完歩を短く。
それこそ走りに支障をきたしかねないくらい歩幅を狭く取って、細かく小さく脚を動かすと、
「おおお!?」
全身を使って走ろうとする航の意に反して、脚だけで走ることを余儀なくされる。
「ものには限度というものがある。覚えときな」
マルシェから手厳しい一言が。
小股でちょこちょこ非効率的な走り方をしている航を、力強い脚さばきで瞬時に突き放した。
「まだ……まだ終わりじゃねええ!」
少しでも追いすがろうと必死の形相で追いかける航。
脚力まかせのフォームはそのままに、バネを利かせて走ることなど、ごっそり頭から抜け落ちてしまっていた。
馬体をしなやかに伸縮させるのをやめたせいで、身のこなしがこぢんまりと映る。
(だがそれで正解だ)
航の歩幅が元に戻り、最適値に近づくにつれ、スピードの乗りが一段と良くなったように感じられた。
「これ。もしかして……」
「気がついたか?」
マルシェは歩を緩めて語りかける。
「短い区間で素早く前に出てポジションを取るためには、体をあますことなく使おうとするのではなく、はじめは下半身に意識を向けて走るんだ。体全体を使って走るのはそのあと。ただ歩幅を小さくすればいいなんて単純なものじゃない」
速く走る。それはつまり、距離や条件に合わせた最適ピッチ、最適ストライドを探し当てることに他ならない。
「じゃあストライドが大きくて、ピッチが速ければ最強じゃないですか」
「まあな。無駄のない理想的な走り方を追及すれば自然とそうなる」
脚の回転数を上げ、ストライドを伸ばすために体を伸ばして走る。
ディープインパクトが「飛ぶように走る」と言われたのは、低い姿勢で重心の上下動が少なく、滞空時間が短かったためだ。
「ゲートが開いたら、回転襲歩とピッチ走法を使って急加速。それができりゃあ短いところはともかく、中長距離戦で後ろからなんて事態はまず避けられる」
厳しくもわかりやすい指導を受けた結果、航はマルシェとの差を3馬身以内にとどめることに成功した。
「下級条件ならもう通用するレベルにあるのでは?」
「バカ抜かせ。まだまだだ。驕らずしっかり精進しろ」
言って、マルシェは調子に乗るなよと釘を差した。
☆ ☆
ゲートを後にし、次の施設に移動の途中。
「あれだけの実力でも、種牡馬になれないのか」
マルシェのことを浮かべながら、航はぼんやりと呟いた。
「種牡馬入りするだけが馬生じゃねえしな。サウザーホースパークで繋養されてた方が幸せな場合もある」
「潰しが利くように、人間の言うことをよく聞いとけと、アドバイスされましたよ。大勢に好かれるような馬なら、成績が悪くても引き取ってもらえるケースもあるからと」
「スタートダッシュのイロハに、引退後のセカンドキャリアと、面倒見のいいこった」
そつがない仕事ぶりに感心しきりの八肋。
気性難と名馬は紙一重。
マルシェが最後までGⅠに手が届かなかったのは、リードホース向きの気性面が災いしたのかもしれない。
「どんべえ」
八肋は改まった様子で呼び止めると、
「やっていけそうか?」
「癖のある連中ばかりですけど。まあ悪くないですよ」
「……そうか」
一言だけ。
どことなく安心したような声音でそう言った。
調教の後はウォーキングマシンでクールダウンを兼ねた運動を消化。それが終わると放牧のために牧草地へと向かう。
「自分ではそれほど疲れてないと思っていても、見えないところで体は疲れてるかもしれねえんだ。調教に慣れるまでは大人しくしとけ」
「そうしときます。体を壊したら元も子もないですし」
体を休めるのも仕事のうちだ。
集牧が始まる15時頃まで、草を食んだり、昼寝でもしてまったりしていよう。
ほどよい疲労感に包まれて、航が小さくあくびをしていたら――
「待ってたぜええ~~」
黒光りする大型馬が一頭。
航の帰りを手ぐすね引いて待っていた。
「……」
航は固まった。
ムキムキマッチョな恵まれた馬体を見て。
今にも襲いかからんばかりの充血した目を見て。
〝あのヴィエリが自分に笑いかけているではないか〟
「ぎゃああああああああああああああああああ」
大至急回れ右して。
航は今来た道を全速力で戻っていく。
「待ちやがれ!!」
すかさずヴィエリが航を追いかける。
見た目に違わぬパワータイプらしい跳びの大きいフットワークでは、マルシェ直伝のスタートダッシュで加速する航に比べて行き脚がつかない。
それでも二の脚を効かせて、力づくで航を射程圏に入れる。
「この野郎! 待たねえか! 逃げてっとしばきあげんぞコラァ!」
「に、逃げなくたって、やるつもりだったろ!?」
前言撤回。
周回コースではシャルルに一方的にからまれ、調教が終わったら終わったらでヴィエリに追いかけ回されるわで、ろくなことがない。入厩二日目にしてこれだ。本当にこんな場所でやっていけるのだろうか。
「大人気じゃねえか」
「冗談言ってないで助けてくださいよ!!」
航が余裕のない顔で訴える。
もしヴィエリに捕まりでもしたら、ひとたまりもないと。
「なら進路変更しろ。長いストレートでやつを相手にするのはやめといた方がいい」
そうと聞けば、さっそく航は別方向に舵を切った。
「ヴィエリの父Frankelはサドラーズウェルズ、ガリレオと続くノーザンダンサー直子の継承者だ。サンデー系のような溜めてキレる脚こそないも、追えば追うだけ伸びるスピードの持続力を備えている」
2000年~2001年にかけて当時2年連続でワールドチャンピオンに輝いたファンタスティックライトの最大のライバル・Galileo。
その子孫にあたる無敗の怪物フランケルの現役時代の活躍ぶりを耳にして航は戦慄する。
「ヴィエリもその能力を色濃く受け継いでると?」
「日本でも少数だがデビューしているからなフランケル産駒は。父親とまったくいっしょってわけじゃねえが、スピードの持続力が活かせるコースに向く傾向がある」
2016年デビューのソウルスターリングがフランケル初年度産駒として阪神ジュベナイルフィリーズを勝ち2歳女王になると、翌年には牝馬クラシック二冠目のオークスを圧巻の走りで優勝。2年目産駒のモズアスコットも春のマイル王決定戦・安田記念をタイレコードで制覇。どちらとも東京競馬場で行われたGⅠレースで勝利を収めている。
(トニービン産駒と似た特徴が出てるってことなら)
大箱や外回りコースが得意な馬は、得てして小回りへの対応力が低い。
空港牧場には1000mのダート屋内周回コース以外にも、人工的に作られたコースが散らばっている。
そのうち、屋内400m周回コースか屋外500m周回コースに入場してしまえば、後はこっちのもの。航は行き先を悟られないように、蛇行しながら目的の場所を目指す。
「ちょこまかちょこまかと……! おちょくってんのか!!」
すぐ背後から聞こえてくるヴィエリの怒鳴り声を無視して。
それらしい調教施設を見つけると、足早に中に入っていく。
「うおっしゃああ。イエス! イエス!」
円を描くように続くコースを見て、喜びを爆発させる。
航は慎重にヴィエリを引きつけてから再加速。流れに沿って時計回りに走り出した。
手前、歩幅、重心移動と、
これまで培ってきたことすべて駆使してスムーズにコーナーを回る航に対して、
「クソがッ! なんなんだここは!?」
完歩を縮め、右手前でうまくスピードを殺せないヴィエリは大きく減速を強いられる。
一度は迫りかけた航の背中がみるみる遠のいていく。
「ふ……ふざけんなあああああああああああ」
どうしてこんなやつに自分が……
腕っぷしの強さ、プライドの高さゆえに、この惨憺たる結果を受け入れることができないヴィエリは激怒した。
「くわばらくわばら」
別馬のように脚色が悪くなったヴィエリを置いて、航はそそくさとこの場を立ち去った。
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