第6話 新しき日々

 季節は秋から冬に移り変わり、仔馬だけの集団生活にもそろそろ慣れようとしていた。


「そーら、走れ走れ」


 離乳した当歳馬に対して、成馬に騎乗したスタッフが最後尾から追い立ててくる。

 基礎体力を養うための追い運動を先頭に立って群れを引っ張る航。

 後ろから煽られ走らされている仔馬達の中、一頭だけ異彩を放っていた。


「今日もどんべえが単独独走か……」


 追い運動を始めたばかりでピッチも距離もそうたいしたものではないが、手を抜くことなく懸命に走り続ける航の姿は、中期育成イヤリング部門の人間から見ても期待を抱かせるものであった。


「よしっ。もういいぞ。ここまでにしよう」


 スタッフが頃合いを見て追うのをやめる。

 すると航以外の仔馬達は横並びで脚を止め、場所などお構いなしにじゃれあい始めてしまう。


「あ~めんどくせー。いっつも遊んでるとこ邪魔しやがって」

「なあ? これから何して遊ぶよ?」

「そうだな……鬼ごっこばっかじゃつまんねえし」

「んじゃ、力比べでもやるか」


 それは名案だと、集まった仔達で押し合いへし合い。近くにいた仔にちょっかいをかけたり、のしかかったりしてコミュニケーションを取る。


「どんべえー。どんべえもこっち来て遊ぼーっ」

「おー、ギンナン。わかったー」


 仲間からの呼び出しにも、航は嫌な顔ひとつせずに群れに戻っていく。


「あれだけ飛ばしてもけろりとしてるな。このスタミナお化けめ」

「何言ってんだ。あのくらいのこと、やっちんでも平気だろ?」


 頭部で肩を軽くこづいてくる相手に、本気を出せよとそっくりそのままお返ししてやる。

 持ち上げられ気を良くしているやっちんと比べ、余力が残っていないギンナンが小さく不満を漏らす。


「どんべえがペース落としてくれたら楽できるのに」

「んーでも聞いた話だと、これから徐々にペースも距離もきつくなってくみたいだぞ」

「それまじかよ……」


 やっちんがあからさまに嫌そうな顔をする。

 遊ぶための体力は有り余っていても、まじめに走る気はないらしい。

 どうやって人の目をごまかすか深く考え込んでしまった。


「走るのが仕事だとお母さんが言っていたけど本当なんだ……」


 あまり体力に自信のないギンナンは大きく肩を落とした。


「僕、体力ないから、みんなについていけないかもしれない」


 不安と焦りから涙ぐむギンナン。


「周りがどうとか気にすんな。成長のスピードなんてそれぞれ違うんだから、自分のペースで走りゃいいんだ」

「……ば、馬鹿にされたり、何かされたりしないかな?」

「俺ら仲間じゃねーか。お前が思ってるようなことにはなりゃしねえよ。それにもし人間がギンナンに鞭打つようなことしたら、俺がしばいてやるから! な?」


 航はにかっと笑い、ギンナンを安心させてやる。

 部活で、会社でと、前世で似たような経験をしているとあって、この手の対応はお手の物といえよう。


「どんべえも甘いなぁ。ギンナンの場合、ビシバシ鍛えて体大きくしねえと、買い手が現れてもまたお流れになっちまうぞ?」

「う、うるさいっ。それを言うならやっちんだって同じだろ?」


 キズナ産駒の両頭。総帥に買われなかったことをネタに、お互い舌戦を繰り広げる。


「体が小さいとダメ出し食らったお前と違って、俺は値段交渉がまとまらなかっただけだし」

「なにおう!!」

「まあまあ、それくらいにしとこうぜ」


 と、このように面倒見の良さを発揮して、喧嘩の仲裁役までそつなくこなす航は、早くも当歳馬のリーダー的ポジションに収まりつつあった。



 夕方午後五時。馬体の手入れを終えた航が藁の上に寝転んでくつろいでいたら、


「おう、お疲れさん」


 聞き知った声に、横たわった体を起こし、馬栓棒から顔を出すと、八肋とそれに――


「おかえりなさいませ兄さま」


 一頭の仔馬が折り目正しく挨拶してくる。

 彼女の名前は『ねね』。

 航と同い年の牝馬で、離乳してからの付き合いなわけだが……


「いや、だからねね。俺はお前の――」

「妹であり、恋人であり、そして妻。分かります! ああやはり兄さまと私の思うところは一つ。これを相思相愛と言わずになんと言うのでしょうか!!」

「……」


 離乳した後、仔馬達だけでのんびり過ごす時間がしばらくあったのだが、そこでひどく寂しがっていたねねを気にかけ、時には話を聞いてやったり、励ましたりしているうちに、異常なくらい懐かれてしまった。


(ねねだけ特別扱いしてたわけじゃないんだけどな……)


 他の仔にも同じように声をかけて回った記憶がある。なので、ここまで好かれる理由がどうにも見つからない。


「兄さま?」

「ん? ああいやなんでもない」


 いくら言っても聞く耳を持ってくれないのだから、これはもう諦めた方がよさそうだ。


「ねね。危ないから少し離れるんだ」


 そのように告げ、後ろに下がらせると、航はドアのカンヌキを器用に外し、馬房から脱走してきたねねを迎え入れた。


「ここに来るのもほどほどにな」


 あまりスタッフを困らせるなとたしなめてみるが、ねねの反応は芳しくない。


「兄さまと私の仲を引き裂こうとする人達が悪いのです。私は兄さまの走るお姿を見ていたいだけですのに……」


 当歳馬の牡馬と牝馬のグループに分けたことが、ねねはお気に召さないようで、ぷぅーとほっぺを膨らませた。


「兄さまの匂いがします」


 甘えるようにしなだれかかっくるねね。

 愛し合うことが運命づけられていると信じてやまないこの娘の行く末を思うと頭が痛くなってくる。


「師匠。黙って見てないで助けてくださいよ」

「俺りゃまだ馬に蹴られて死にたくねえからな。自分でなんとかしろ」

「そんなー」


 普段は頼りになる八肋も、この時ばかり知らんぷり。

 色恋事に首を突っ込みたくないのがありありとわかる。

 上目遣いで頬ずりしてくるねねを突き放すわけにもいかず、航は彼女の気が済むまでスキンシップを余儀なくされた。


            ☆            ☆


「明日からはハナを切らずに、中団や後方の位置で走るんだ」


 追い運動を始めてからひと月ほどたった頃、それまで見ているだけだった八肋から、控えるようにと注文が入る。


「? どうしてそんなことを?」


 競走馬としてより速く走るために訓練しているはずだ。

 それがある日いきなり一番前を走らなくていいと言われ、航の顔に困惑の色が広がる。


「競馬っていうのは速く走れる馬が順当に勝ち上がる世界じゃねえ。展開、枠順、馬場、その他もろもろの要素が複雑に絡んでくるから、固いレースでもあっと驚くような結果になったりする」


 競馬予想の難しさは、航も身をもって知っている。

 本命馬が馬券外に飛んで、絶叫したことが何度あったことか。


「レースはやってみなければわからない」

「着順に影響を及ぼすのが馬の能力だけなら下馬評通りの結果なる……が、そうじゃねえなら、それ以外のことを知っとかなきゃいけないってわけだ」


 八肋は理にかなった説明に加え、わかりやすい例をあげてみせる。


「道中、競ってる馬の息があがっていれば、相手の動きに動じることなく、余裕を持って仕掛けることができるし、前を走っている馬がフラフラしてるようなら、近づかない方がいいと判断できる」


 前にばかりいたのでは見えないものがある。

 周りの馬の様子にも注意を払うよう念押しした。


「レースセンス。勝負勘を磨くための第一歩は周りを観察することからだ」

「わかりました。とりあえず、シンガリからみんなの走りを観察してみます」


 周りを見る習慣がつけば、競馬を有利に進めることができると理解した航。一見簡単そうなことも手伝って、どんな発見があるのか明日が楽しみだった。



 そして次の日、待ちわびた追い運動の時間がやってくる。

 強制的に走らされることに、仔馬達もすっかり慣れたようで、放たれたように場内を駆けていく。


(そんじゃ、いっちょやってみますか)


 航は気を引き締めると、昨日言われた通りにスピードを緩め、後方集団につけた。

 いつもなら真っ先に先頭に躍り出る馬が今日はそうではない。

 スタッフは言うに及ばず、群れの中にも動揺が走る。


「どっ、どうしたんだよどんべえ!? まさかどこか具合悪いの?」

「いや大丈夫。そういうんじゃないから」


 自分のことのように心配するギンナンに苦笑いを浮かべながら、航はそう言葉を返す。

 そして、これから当分の間は他の仔の走りをじっくり見て勉強するために、いろんなポジションで走る旨を伝えた。


「そっかあ、どんべえはそこまで考えてるんだ……」

「ギンナンの走りを見て、何か気づいたことがあったら教えるよ」

「本当!? ありがとう!」


 ぱぁっと喜ぶギンナンを見ていると、航の方も顔がほころんでしまう。

 デビューすれば優劣を競うライバルであっても大切な仲間に変わりはない。ギンナンを空喜びさせないためにも、ますます課題をクリアする必要がでてきた。

 航はギンナンと仲良く並んで走りながら、周囲に目を配ることを心掛ける。


(やみくもにやってたんじゃ埒が明かないから、絞ってみるか)


 どこをどう注目するか、八肋は教えてはくれなかった。

 自分の目で見て、感じ取ったことを頭を使って分析させる。それも含めての課題と言えるだろう。

 すべてが手探りの状態で、まずはと、航が先頭集団に目を移したところ――、


「へっ。そういうことなら!」


 航が追ってこないとわかり、急にやる気を出すやっちん。

 馬群から飛び出し先頭に立つと、なぜか予定してない進路を取り始める。


「そっちじゃない! やっちん! そっちじゃないっ!」


 逸走に気づいたスタッフが声を張り上げるが、やっちんはこれを無視して弧を描くように駆けていく。

 後続も引っ張られるように後を走り続けるため、止めさせたくても収拾がつかない。

 結局、最後まで同じ場所をぐるぐる回るはめになってしまった。



「はいはい、ちょっとそこどいて、そこどいてねー」


 コースの三分の一ほど消化したところで、今日もやっちんが馬群を割って抜け出し、楕円形の走路を走るように周回する。


(またかよおい……)


 わざわざ航の位置を確認してから実行するあたり、これはもう確信犯である。


「やっちん、どうしてあんなことをするんだろう?」


 前日の再現だとばかりに反時計回りで走るやっちんに、ギンナンはふと疑問を漏らす。


「さあな」


 あの様子だと改心してまじめに走ってるようには見えない。

 航は内心ろくなことじゃないと思いながら、仕方なく後を追った。



 翌日も、そのまた翌日も、そのまたまた翌日も、同様のことが繰り返される。

 馬上で四苦八苦するスタッフを嘲笑うかのように、当歳馬の群れを率いるやっちん。

 これにはさすがにスタッフも業を煮やし、先導馬を用意するが結果は同じ。

 やっちんがコースから外れた途端に、他の仔馬達は毎回示し合わせたみたいに後をついていってしまうのだ。


(そういうことか……)


 航がトップを明け渡すまで走っていた直線的なコースより、曲がりながら走る周回路の方が、スピードが乗らない分、これまでよりペースが緩やかになる。運動負荷が軽いやっちんの走りが支持されるのも無理もない。

 本来ならば、やっちんの狙いがわかった時点で止めるべきなのだが、どうしても踏み切れない理由があった。

 航は訝しげに眉をひそめ、中位まで順位を上げてるギンナンに焦点を合わせる。


(なんでこんなことになってんだ!?)


 今日にかぎって最後列が定位置のギンナンが見違えるような走りをみせている。

 どんな魔法を使ったのかと、首を傾げるほかない。


「う~~ん」


 昨日までの姿と比べても、そう大きな違いがあるようには思えない。

 目に見えて変わった部分は、今日初めて時計回りで走っているということ。


「……」


 自分が先頭で引っ張っていた時と、それに反時計回りで走っていた時のだいたいの順番を、航はおぼろげながら思い出してみる。


(大きな順位の入れ替えはなかったと思う)


 よって、右回りでだけ起きた現象だと考えるのが一番自然だ。

 陸上競技のトラックは、なぜ反時計回りで走るのか?

 諸説あるが、人体の構造上、心臓を内側にしたほうが速く走れるからだと言われている。

 航は自分の体に視線を落とし、心臓の位置を確かめる。


(これってやっぱそうだよな)


 中央よりやや左側にある心臓。

 競走馬も左回りのほうが走りやすいと考えれば、あらゆることの説明がつく。

 右回りで得意不得意の差が著しく出ると確証を得た航は、さっそく今日にでも八肋に報告しようと決めた。


            ☆            ☆


「――という仮説が成り立つと思うんです」

「……」


 航が数日かけて導き出した答えだというのに、表情一つ変えることのない八肋。何か気に障ったのか、胃が縮み上がるような無言の迫力を感じる。


「えっと……違ってましたか?」


 沈黙が続くのが怖くて、恐る恐る尋ねてみると、八肋が静かに口を開いた。


「右回りのほうが得意、不得意が分かれるってことだが。どうしてコーナーを苦手とする馬が生まれるのか、ちゃんと言葉で説明できるか?」

「それは――――できないです……」


 器用さに欠けるからと口にしかかったが、それならギンナンが左回りでも他の仔以上に巧く回れていなければ辻褄が合わない。少なくともずっとビリなんて事態は避けられたはずだ。


「中山、阪神競馬場では無類の強さを誇ったグラスワンダー。その成績を見れば、3歳以降、左回りの府中では強烈なインパクトは残せちゃいない。GⅠレースを複数勝利する馬でもこれだ。どんべえ、決して他人事なんかじゃねえんだぜ」


 そう脅すように言って、八肋はニヤッと口角を上げる。


(俺の認識が甘かった。適性だからで済ませられる問題じゃない)


 北は北海道から南は福岡まで、全国10ヵ所の競馬場で中央競馬は開催される。

 そのうち中山、阪神、京都、福島、小倉、札幌、函館の7ヵ所が右回りコースで、残りの3ヵ所――東京(府中)、中京、新潟が左回りコースになる。

 もし仮に左回りでしか実力を発揮できないとしたら、右回りの競馬場が多い日本では、活躍の場がかなり狭まってしまう。


「中山2000mの皐月賞、東京2400mの日本ダービー、京都3000mの菊花賞。どんべえが目指してるクラシックの舞台は距離だけじゃなく、左右どちらのコースでも苦にしないことを要求されるってこった」


 はっきりとした口調で放たれた八肋の言葉が、航の肩に重くのしかかる。

 もっと巧くコーナーを回りたいと思っても、今の自分では具体的にどうすればいいのか見えてこない。なぜそうなるのか、言語化できなければ意味がないとつっこまれた理由が身に染みてわかった。


「理解したんなら、俺はもう行くぞ」

「……はい。自分なりに突き詰めてみます」


 ショックを受けたような顔つきだが、航の口から助けを求める声は出てこない。

 まだ手取り足取り教えてやる段階じゃないと判断し、八肋は早々にここを立ち去ることにした。

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