第7話 紅茶の香り

 あれから二週間が経った。いま、僕はなぜ先輩の家の目の前にいるのだろう。これは夢なのではないか、この一週間何度寝て何度起きても思う。あの喫茶店で手書きのメモをもらい、それを頼りにざっくりとした方向を進んできたが目の前の家の表札に「篠宮」と書いてあるから先輩の家に違いないであろう。先輩の家は僕の通学路から逆方向に電車で一五分ほど行った場所にある。住宅街の中で周りの建物に比べ、異様に白い建物が目の前に見える。大きくて白い扉の前に立つと左には空いたガレージ、右手奥には中低木の椿の木が植えてある。椿の木は丁度咲き始めの時期なのかポツポツと赤い蕾と咲き始めの花が顔を出している。意を決し寒さと緊張で震える手でインターホンを押すと、はいと声がする。

「すみません。吉崎ですけど。」

少しするとはーいと扉が開き、スウェット姿の先輩が出てくる。かわいい。部屋着だろうか、先輩はゆるい恰好も似合う。

「お邪魔します。これつまらないものですが」

前に買った雑誌に載っていた、喜ばれる手土産ランキング上位のクッキーを渡す。

「わざわざいいのに。ありがと」

玄関を上がり、リビングを通る。吹き抜けのリビングは簡素で無機質。テレビとソファと透明なローテーブルしか置いておらず生活感はまるでない。

「お父さんのこだわりなの、おもしろみがないでしょ」

部屋の右手奥に見える壁一面の大きな窓からは椿の木が見える。椿の木は先ほど同様深緑の葉に赤い花が咲き、窓全体が一枚の絵画のようだ。家の作りに感心しながら。左手の階段から2階へ上がり先輩の部屋へ入る。先輩の部屋もリビング同様簡素で無機質。右手にベッドがあり中央に丸いローテーブル、左手に勉強机。それ以外は部屋を埋めるように本がずらっと並んである。唯一ほかの部屋と明らかに違うところは、ふわりと香る紅茶の香り。目の前の丸いローテーブルには白いティーポットと二つの椿柄のティーカップが置いてある。

「紅茶飲み頃なの。飲む?」

「はい。いただきます」

心臓の鼓動がはっきりと聞こえ、余計に僕を緊張させる。身体はこわばり思考は完全に止まっている。

「どうしたの、座っていいよ」

「はい」

正座で座り目の前のティーカップに紅茶を淹れてもらう。

ティーカップに注がれる琥珀色の紅茶からは甘い茶葉の香りが香る。

「いただきます」

一口飲む。口に入れると舌で感じるさわやかな酸味と鼻を抜ける軽やかな甘みが体全体を包む。

「うわぁぁ、おいしい。すごくおいしいです」

その温かく香り高い紅茶は凍えた僕の体を温め、ほっと一息吐く。

「そう、よかった。私特製のオリジナルブレンドよ。まだまだあるから遠慮せずに飲んでね」

紅茶を褒められた彼女は以外にもすごく嬉しそうで誇らしげだった。

「じゃあ、一息ついたところで始めようか。」

「はい」

紅茶ですっかりと心が落ち着き勉強に取り掛かる。

「何が苦手なの?」

「はい、数学がからっきしだめで」

前回のテストで三十点代だった数学を教えてもらう。早速問題集を広げ、先輩の隣で勉強を始める。わからないところがあればその都度質問をする。とはいえ、先輩が隣にいるのに集中できるはずもなくペースは遅い。それに、先輩とも話したいのでわざと間違えたり、わかる問題をわざわざ質問したりする。それでも先輩は優しく丁寧に教えてくれる。

「信君、字がきれいね。ステキ」

「あ、ありがとうございます」

ふいに褒められた。毎回思うのだが先輩に褒められると、なぜか心がじんわりとする。昔誰かに褒められた時の感覚がよみがえる。褒められた記憶といえば小さいころにお母さんに褒められた時ぐらいだ。だが、その時の感覚とは少しばかり違う。なんかこう存在を肯定されたような。その感覚を目の前にいる先輩の言葉にも感じる、向こうからしたら何気なく褒めただけなのだろうが僕にとっては自分の存在を肯定された気持ちになる。そんな感覚。勉強そっちのけで記憶を探っていると白くて細い指先が頭を触れる。

「うわぁっなんですか」

「フフ、おどろきすぎ。ゴミがついてたの」

「ありがとうございます」

一瞬、頭を撫でられたようにも感じたが。考えすぎのようだ。勉強が区切りの良いところで、紅茶をもう一杯。一息つく。

少し休憩を入れる。先輩と話すチャンスだと思い部屋を見渡しながら話題を探す。せっかく家まで来たのだから前回のように失敗では帰れない。あれから2週間枕に向かって何度も話す練習はしてきた。ただ、先輩を目の前にすると言葉が出てこない。緊張が思考に蓋をしているようなそんな感覚。目の前の本棚を見て返し忘れていた渡辺淳一の『阿寒に果つ』を思い出す。この本は、借りてから何回も読み返した。北海道を舞台にしたあの本は、深々と雪が降る情景が僕たちの暮らすこの街と重なっていて面白かった。たしか、その書き出しは「死に顔の最も美しい死に方はなんであろうか。」だった気がする。話題を探していた僕にとってこれは良い質問だと思った。なんせ、お互いの死生観が知れるし、お互いの関係性を深めるのに最適な質問だと思う。これは使える、勇気を出して聞いてみる。

「篠宮先輩は理想の死に方ってありますか?」

「え?」

「睡眠薬、ガス中毒、入水、割腹、毒死いろいろありますよね」

「どうしたの急に?」

「ぼくは長く生きたいとかはないんでコロッと死ねるのがいいですね。眠るように死ねるのが。」

「そうね…」

僕は自分が何を話すかということに夢中になり彼女の顔がうつむき、声が暗くなったことに気づかなかった。

「あ、でも美しく死ぬなら凍死がいいらしいですよ。雪に埋もれて、冷凍保存状態になれば、肌が透き通ったように白くなるんですって。」

「…」

「でも、やっぱり一番は老衰ですかね。家族に囲まれて眠るように死ぬのが一番ですかね。篠宮先輩の意見も聞きたいです」

「…しようか」

「人の死生観て面白いですよね。その人の年齢、性別、経験によって全然違う考え方がありますからね。将来介護職でアルバイトして聞いて回るってのも勉強になりそうで…」

「勉強しようか」

篠宮先輩は今まで聞いたことのない鋭い声で言った。空気が凍った。おそらく一~二秒くらいの間であったが、僕には永遠のように感じた。

「勉強しようか」

いつも通りの優しくも若干冷たさを残した声を聞き、僕はハッとし現実の世界に戻る。ざわめく心を必死に抑え、動揺を悟られないように静かにうなずく。

 今も心に突き刺さっているあのトゲは僕の心をズキズキと痛め続ける。あの瞬間以降の記憶は断片的にしか覚えていない。あの後、1時間ほど勉強して帰ったと思う。持って行ったお土産のクッキーを一緒に食べたこと赤ペンで花丸をつけてくれたことおかわりした紅茶のこと。どの瞬間も僕の笑顔は引き攣っていた。その後、お邪魔しましたと一礼して家路を急いだ気がする。だが帰り道に何度もあの瞬間かフラッシュバックし、その晩は眠れるわけもなく次の日は寝不足で学校に行った。森下は僕の顔も見て体調を心配していたが、大丈夫とただ繰り返すのが精一杯だった。昨日のことを謝ろうと、謝罪の言葉を何度も頭の中で反芻したが、篠宮先輩とはなかなか会えず月日だけが過ぎていく。

 三年生の教室を訪ねに行くしかない。近頃は心の痛みだけが僕の頭を支配している。謝らなければならないがどこをどう謝ったらいいのかも明確にはわかっていない。しかし、相手を不快にさせたことだけは確かだ。直接会って話すしかないと昼休みを狙い三年生の教室に向かう。三年生のフロアは一年生の二階上の三階にあるが、階段を上がる前から僕は緊張のピークだ。部活に入っていない僕にとって先輩とのつながりは篠宮先輩以外一切ない。森下に相談しようにもこんなに哀れな話できるはずもない。自分一人で解決しようと、生まれてから一番の勇気を振り絞り階段を上っていく。三階に到達し、周りを見渡すと当たり前だが三年生しかいない。一年生から見た三年生は、たった二歳しか違わないのにどうしてこんなにも大人に見えるのだろうか。元々小柄な身長とすくんだ身のせいか、周りの人たちの身長は僕の頭二つ分は大きい。先輩は全校集会で僕のクラスの隣だから一組だろうということはわかっている。教室の前まで行き、力を込めて教室のドアを開ける。教室中の視線がこちらを向く。

「し、篠宮先輩はいますかっ?」

向けられる視線に思わずたじろぐ。ふと思ったが、どんな関係かと聞かれた時にどう返答するかを考えていなかった。友達?幼馴染?弟子?いやいやどれも違うなと考えを巡らせていると。声が返ってきた。

「椿?今日は休みだよ」

返答してくれたのは女子生徒だった。クラスの人たちは自分に関係ないことが分かるとそれぞれ元々の会話に戻る。答えてくれた女子生徒は僕に駆け寄り質問をする。

「君、椿の友達?」

危惧していた質問が飛んできたが、曖昧にごまかす。

「まあそんなところです」

「そっか、今日も病院じゃないかな、なにか聞いてないの」

「え⁉先輩どこかご病気なんですか?」

「いやいや、あの子じゃなくてお母さん。つい先日、仕事先で倒れて入院中みたい。今危篤なんだって」

だからか。だからあの時。僕はなんてことを。どうしてあんな話を。知らなかったとしても最悪のタイミングだ。僕なんかが調子にのるから。ぼくはさいあくだ。ぼくなんていなければ。さいあくだ。あぁ。あぁ…。頭が真っ白になりその場に崩れ落ちた。

 その後、先輩とは会えずに卒業してしまった。三年生は受験を控えているため、授業はほぼなく午前中で帰ってしまう。先輩とは連絡先を交換していなかったため気軽に連絡することもできない。卒業式は三年生と保護者だけで開催され、一・二年生は休みだった。式が終わったタイミングを狙って会いに行けばよかったが、どんな顔で行けばよいかわからず結局行かなかった。

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