知らなかった、そんなつもりはなかった、たかがそんなことで! ―今更後悔してももう遅い―

九傷

知らなかった、そんなつもりはなかった、たかがそんなことで! ―今更後悔してももう遅い―

 


 市役所には、当然ながら市民の様々な情報が入ってくる。

 その関係もあって、勤めるとなると契約書やら誓約書といった何枚もの書類にサインをすることになるのだが、まあこれがメンドクサイ。

 私は正職員じゃなくただのパートなのだが、それにも関わらず沢山の書類にサインをさせられた。


 あの手の書類の文章は何故ああも難読なのだろうか……

 正直私は、ほとんど読みもせず無心でサインだけしていた気がする。

 ちゃんと読んだ方がいいのは理解しているのだが、読んでも理解できなさそうという意識があるせいか、どうしても拒否感が強いのだ。

 ……まあ、なんだかんだ働き始めてもう2年だし、特に問題も起こしていないので大丈夫だろう。


 市役所職員のパートは、やはり基本的には公務員の仕事ということもあり安定している。

 選挙の期間などは多忙だが、残業もないうえに有給もあり、さらに言えばボーナスまである。

 クレームや時々現れる変人などの対応にさえ目をつぶれば、破格の仕事環境と言えるだろう。


 そして私の場合、もう一つ大きなメリットがある。

 ……ご近所に住む人々の、家庭の情報だ。


 市役所に務めていると、たとえば世帯収入や家族の職業、家族構成や年齢、病歴など、本人の口からしか得られないような情報を知ることが可能なのである。

 もちろんターゲットを絞って情報を得ることは困難だし、戸籍謄本(現在の正式名称は戸籍全部事項証明書という)などの重要な書類は電子化されているため滅多に見ることはないが、それでも正規の職員と仲良くなったりすれば雑談でそれとなく内容を聞き出せることが多い。



 私の業務は主に書類整理や書類データの打ち込みになるのだが、その際に様々な情報を目にすることになる。

 パートの立場でそんな情報を参照できるワケがないと思う人も多いだろうが、少なくとも私の勤めている市役所では可能なのだ。

 恐らく、全国にはセキュリティのしっかりとした市役所も沢山あるのだろう。

 しかし、そもそも全ての市役所が同じ仕事をしているワケではないし、マニュアルや業務の割振りだって市役所ごとに異なる。


 それに、このご時世でありながら未だに市役所には書類の提出物が多い。

 その大量の書類をデータ化する作業は全て手作業となるため、実際かなりの作業量となる。

 だから、ウチの市役所のようにパートがデータ入力を任されているケースも多いのではないだろうか。

 特に職員の人数が少ない地方の市役所では、ウチと同じような状況になっていても不思議ではない。


 もちろんそういった情報を口外するのはマズイのだが、他人の秘密を握るというのは通常では得難い優越感に浸れるのだ。

 自分でも悪趣味だとは思うが、意外にも実益というか、得をするシーンも多かったりするため、今となっては私の日常に欠かせないスパイスとなっている。











(あれ? あの人って……)



 溜まった書類を回収していると、受付の前に見覚えのある女性が立っていることに気付く。

 直接話したことはないため絶対の自信はないが、彼女には非常にわかりやすい特徴があるので、恐らく私の知る女性と同一人物と思われる。



(……やっぱりあの人、流石にちょっと若すぎない?)



 彼女の特徴とは、女子高生と見紛うほどの若さである。

 幼さを感じさせる顔つきは、女性と表現するよりも女の子と表現する方がしっくりくるくらいだ。

 ……しかし、彼女はあの容姿でありながらなんと既婚者だったりする。

 若くとも既婚者に対し女の子扱いするのは失礼というか、何となく抵抗があるため、女性として見るようなるべく意識していた。



 彼女の名前は知らないが、家の表札には及川と書かれており、夫と幼い子どもと三人で暮らしていることがわかっている。

 情報源はご近所付き合いの井戸端会議だ。


 昨今はご近所付き合いなどが減少傾向にあるが、田舎――特に年齢の近い子どもがいる家庭同士では未だに主婦の集いがある。

 話題の内容は夫の愚痴か子ども絡みが多いが、それと同じくらい他所の家の話題でも盛り上がるのだ。

 大抵の場合はゴミの出し方の不満だとか、野良猫に餌をやっているだとか、雪かきをしないとかいった行動的な不満が多いが、付き合いのない家庭のゴシップネタもよく話題になりやすいのである。

 だから及川夫妻のような明らかにワケありの家庭なんかは、恰好の的にされてしまう。


 ……ただ、及川夫妻はご近所付き合いを完全に放棄しているらしく、詳しい情報は一切入ってこなかった。

 二人は1年程前に近くの空き家に引っ越してきたのだが、挨拶の類は一切なく、荷物の搬入などもなかっため、暫くは誰にも気づかれていなかったらしい。

 いつしか表札が付けられ、荷物が届くようになったことでようやく近隣の住人が存在に気付いたのだそうだ。

 また、子どもがいることについても泣き声が聞こえるだけで、実際にその姿を見たことがある人はほとんどいない。


 それ程までに情報が少ないのは、及川夫妻が極端に外に出ないせいでもある。

 恐らく買い物の類は全て通販で行っているのだと思うが、仕事は一体どうしているのだろうか?

 年齢、職業、家庭環境など、及川夫妻については色々なことが謎に包まれているため、ご近所では様々な憶測が飛び交っていた。



(一体、何を話しているのやら……)



 私は及川さんのことを遠目に見たことがあるだけで、直接話したことは一度もない。

 だから私が近所に住む住人だとは知らないと思うが、念のため視界に入らないよう隠れながら様子を伺う。

 何やら少し揉めている様子だが、感情的になっているワケではなく、及川さんも受付の熊本さんもお互いに困っているような雰囲気だ。

 このまま見ていては仕事をサボることになるし、流石に声まで聞こえるワケではないので、あとで休憩のときにでも何を話していたか聞いてみるとしよう。









「熊本さんお疲れ様です~」


「あ、石崎さん、いつもありがとね~」



 デスクで休憩中の熊本さんにお茶出しをする。

 今時時代錯誤かもしれないが、こういったお茶出しなどの雑用もパートの仕事には含まれている。

 他のパートはみんな面倒そうにしているが、私としては職員に話しかける良いきっかけになるので率先して対応していた。



「さっき、何か揉めてる感じでしたけど、クレームですか?」


「ん? あ~、千葉さんの件ね」


「千葉さん?」



 あれ? 及川さんのことを聞くつもりだったのに、別件と勘違いされた?



「うん、さっきの若い女の子ね」


「え、あ、はい、その人です」



 私が見ていた限りでは「若い女の子」という表現に該当しそうなのは及川さんしかいない。

 なのでお互いの認識は合っていると思うが、一体どういうことだろう?


 私が困惑していると、熊本さんが空き椅子を引き寄せ座るように催促してくる。

 とりあえず誘われるままに座ると、熊本さんは少し身を寄せてから小声で話し始めた。



「ここだけの話なんだけどさ、千葉さんって多分駆け落ちしてきたみたいなんだよね」


「ええぇ!?」



 私も熊本さんに合わせて小声で驚いて見せる。

 実際少しは驚いたのだが、駆け落ち説は井戸端会議でも出たことがあるので衝撃の事実というほどでもなかったからだ。

 ……若い男女が、近所付き合いもせず人目を忍ぶように暮らしている――、駆け落ちを疑わない方が無理と言えるだろう。



「僕もここに務めてからそこそこ長いけど、あんなに若い子の駆け落ちは初めて見たなぁ~」


「その、若いって、おいくつなんですか?」


「18歳。高校は中退みたいだね」



 18……、どおりで若く見えるワケである。

 見紛うも何も、事実上の女子高生なのだからそう見えて当たり前だったようだ。

 え、でも……



「あの、彼女、お子さんいますよね? 大丈夫なんですか?」


「あれ? もしかして千葉さんと面識あった?」


「いえ、直接会ったことはないんですけど、比較的近場に越してきたみたいなので、遠目に見たことがあるんです。ただ、彼女の家の表札には及川って……」


「それは旦那さんの名字だね。婚姻届は出していないから、二人の名字は別なんだ。でも、今は18歳で成人だから千葉さんの出産に親の許可はいらなかったし、ちゃんと千葉さん本人に親権もある」


「あ、ということは――」


「そう、事実婚ってやつだよ」



 事実婚とは、婚姻したり入籍したりはしないが、実質的には夫婦という関係のことである。

 昨今では多様性として認められつつあるが、それでもやはり珍しい関係であると言えるだろう。

 冷静に考えればそれくらいすぐに気づいたのだろうが、私の中ではやはり親子で同じ家に住んでいるのなら結婚しているのが当たり前という意識があり、可能性の一つとしてすら考えていなかった。

 日本では現状夫婦別姓は認められていないが、事実婚なのであれば可能というか、むしろそれが普通だというのに。



「表札については、実は僕がアドバイスしたんだよ。昨今は個人情報保護的な観点から表札を出さない家庭もあるけど、ここみたいなド田舎だとやっぱり表札を出すのが主流だし、出さないとかえって目立つから旦那さんの名字で付けておいたら? ってね」



 確かに、都会のマンションとかだと表札を付けないのも珍しいことではないと聞く。

 別に義務化されているワケではないし、郵便物の類も表札無しで問題無く届くのだとか。

 そもそも表札を付けること自体あまり外国ではないらしく、日本独自? の文化なのだそうだ。



「一番良いのは二人の名前を書くことなんだけど、それはそれで目立つからね。とりあえず無難に世帯主の名前で表札を出すことにしたみたいだよ」


「世帯主……、そういえば旦那さんのことは見たことがないんですけど、結構年配な方なんですか?」



 駆け落ちをする際、最大の問題となるのが金銭面だ。

 生活するのに必要な物は全て現地調達する必要があるし、住む場所、仕事など、あらゆる問題が全て金銭に結びついている。

 つまり、駆け落ちを成功させるには財力は必須と言ってもいい。


 その点、及川千葉夫妻は一軒家を借りる――もしくは購入できているので、かなり金銭的な余裕を感じさせる。

 千葉さんの年齢を考えれば到底払える値段ではないから、恐らく及川さんが年配の資産家なのだと予測していた。

 それならば、仕事にも出ずに家からほとんど出ないで生活することも可能かもしれない、と。



「いや、千葉さんと同じ18歳だよ。地元も同じみたいだし、多分同級生だったんじゃないかな?」


「ええぇぇぇぇっ!?」



 予測が完全に外れたのはともかくとして、18歳という若さは流石に驚く。

 可能な限り声を抑えたが、熊本さんも驚いて口の前で人差し指を立てていた。



「す、すいません……、でも、その若さでどうやって……?」


「それは僕にもわからないけど、お金は結構稼いでいるみたいだよ。多分だけど、印税とかを貰ってるんじゃないかな? 今ならユーチューバーとかで若くからお金を稼ぐ手段もあるしね~」


「た、確かに……」



 よく考えてみれば、今ならリモートワークなどもあるし家から出ずにお金を稼ぐ手段は沢山ある。

 駆け落ちしたあと新しく仕事を探すのは大変というイメージが強かったが、そういった手段でお金を稼いでいるのであれば、どんなに遠くに逃げても意外と問題無いのかもしれない。



「でも、それなら何でさっきはあんな難しい顔してたんですか?」


「それが実はさ、千葉さんだけまだ住民票を移してなかったらしくてね~」


「え? それって大丈夫なんですか?」


「大丈夫ってワケじゃないけど、黙ってても大事おおごとにはなりにくいね。嘘か誠か、移し忘れる人も結構いるし。それにほら、単身赴任とかの一時的な住居移転扱いならOKだったりするからさ。千葉さん達はここに来るまで結構転々とホテルを渡り歩いてたらしいから、長期旅行中とか、定住地がないアドレスホッパーみたいな扱いで罰則無しになる可能性もあるんじゃないかな」



 人によっては聞き馴染みないと思うが、アドレスホッパーとは定住する家を持たずに、さまざまな場所を転々としながら生活する新しい暮らし方をしている人のことを指す言葉だ。

 昨今はリモートワークオンリーの会社員も増えているため、そういった生活をする人もいるとテレビか何かで見たことがある。

 そういった人達は基本的に長期滞在をしない関係で住民票を移せないため、実家などに固定したままなのだそうだ。

 住んでいないのにそれでいいのだろうか? とも思うが、現状対応した法律がない以上仕方のない措置なのかもしれない。



「でもそれって、家族がいると結構大変じゃありません?」


「もちろん大変だよ。及川さんはちゃんと住民票を移してるし、子どもについてもちゃんと認知してるから問題は無いんだけど、千葉さんの場合は証明書の類がほぼ発行できないし、他にも色々と不都合が多い」



 証明書――特に免許の類を取得する場合は必ずと言っていいほど住民票の写しが求められる。

 顔写真付きの証明書として、昔から一番手っ取り早く取得できると言われているのが原付免許と小型特殊免許なのだが、それが利用できないのは少々面倒と言えるだろう。

 昨今は、多少時間はかかるが誰でも簡単に手に入れられるマイナンバーカードも選択肢に入るが、これを受け取るのに必要な本人確認書類に顔写真付き証明書がいるため、実はそこまで手軽ではなかったりする。

 顔写真なしの証明書2枚でも代用可能だが、駆け落ちした身で用意するのは中々大変なのではないだろうか。



「……ということは、やっぱり親に居場所がバレたくないとか、そういう?」


「そういうこと。確かに住民票を移せば、親が住民票を取得した際に千葉さんの現住所はバレてしまうし、住民票の除票を取得されてもアウトだ。だから住民票を移さないのは身を隠す手段としては有効って言えば有効なんだけど、流石に無理が出てきたみたいでね。どうにか親にバレずに住民票を移せないかって相談されたんだ」



 そういうことか……

 確かに、今はまだ平気かもしれないが、子どもが成長するにつれ段々と状況は厳しくなっていくことが容易に想像できる。

 保活に入学など、いくら旦那さんが家で仕事できるといっても、流石に全てを任せることはできないハズ。

 というか、私だったらそんな何もかもを夫に頼った生活など、精神的に絶対耐えられない。



「実際のところ、可能なんですか?」


「う~ん……、面倒な手順を踏んだりすれば発見を遅らせることくらいはできるけど、基本的に親に居場所を隠すのは厳しいね。住民票に閲覧制限をかけることもできるけど条件が厳しいし、仮にできたとしても1年とか期間限定なんだよ」


「そうなんですか……」



 市役所務めで一般人よりかはその手の事情に詳しいつもりだったが、そこまで詳しいことは流石に知らなかった。

 熊本さんはどこにでもいそうな人の良さそうなオッサンなのだが、長年正職員として勤めていることもあり流石の知識量である。



「他にも戸籍の附票を取ったり、探偵を使ったり、今ならSNSで見つかるなんてこともある。いずれにしても市役所に相談に来てしまった以上、速やかに住民票を移してくださいとしか言えないよね……」



 確かに、市役所職員が住民票は移さない方が良いとは言えないだろう。

 引っ越しで住民票を移すのは国民の義務なので、市役所職員がそれを言ってしまうのは色々とマズイ。



「だから申し訳ないけど、早めに手続きをしてくださいと伝えたんだ。今ならまだ罰金が発生しない可能性もあるしね」


「それで困った顔してたんですね~」


「うん。まあ気持ちはわからなくもないからね。ただ一応だけど、親が本気で探してたらとっくに見つかっていただろうし、そう心配しないでもいいかも? とフォローはしておいたよ」



 こういうところは見た目通り優しい人物だが、こうして無邪気そうに個人情報を話してしまうことを考えると危険人物とも言える。

 いや、普段人畜無害そうな分タチが悪いと言えるか。

 ……まあ、それを利用している私が言えたことではないが。





 ◇





 先日は色々と収穫があった。

 噂の及川夫婦の裏事情を知れたのはかなり大きい。

 相手のステータスを自分だけ知っているというのは、日常的にも優位に立てることが多々あるのだ。


 少し前のことだが、高級なブランド品を身にまとい派手な私生活を自慢げに語る東方ひがしかたさんという――まあクソ女がいたのだが、実はそれは表向きの姿で本当は厳しい生活を送っている貧乏女だったという珍事があった。

 私はそれを知っていたうえで陰でわらっていたのだが、ある日市役所で鉢合わせたことで東方さんは全てを悟ったようだ。


 それ以降東方さんは井戸端会議にも参加しなくなり、食事会の誘いも遠慮するようになった。

 私は別に彼女の家庭の事情を吹聴したりはしていないのだが、恐らく疑心暗鬼にでも駆られたのだろう。


 まあ要するに、情報というものは利用せずとも握っているだけで強いのだ。

 それは疑似的ながらも生殺与奪の権利を握っているようなものでもあり、愉悦を覚えざるを得ない。

 我ながら本当に悪趣味だとは思うが、そんな私だからこそ市役所職員は天職のように思える。



「そういえば、今朝初めて及川さんの旦那さん見たんだけど、物凄く若くてビックリしちゃった!」


「え!? そうなの!? 絶対年配の方だと思ってたのに……」



 いつもの井戸端会議で、タイムリーなことに及川家の話題が始まった。

 二人の年齢や関係についての予想、職業や財力などの色々な憶測が飛び交い盛り上がっているが、こういうとき全てを知っていると面白さが半減するのが少し残念である。

 同時に、言ってしまいたい欲を抑えるのも大変だ。

 ……いや、年齢くらいなら言ってしまっても大丈夫か?

 そのくらいなら大した情報でもないし、そもそも及川さんも千葉さんも近所の誰とも面識がないのだから、私が何か言ったところで二人に伝わることはないだろう。



「……実は私も今朝会って少し話したんだけど、お二人とも18歳らしいわよ?」


「えぇ!? 18歳!? 流石に若過ぎでしょ!?」


「ね~! 私も聞いてビックリしちゃった!」


「え、じゃあもしかして、学生さん?」


「それは流石に聞けなかったけど、可能性は高いかも? でも通ってる様子はないから多分辞めたんじゃない?」



 実際、高校中退なのか大学生なのかはわからないけど、駆け落ちしたのなら辞めざるを得ないだろう。



「でも、お子さんは? 母子手帳とか出産とか、どうしたのかしら?」


「藤田さん藤田さん、ホラ今って18歳で成人でしょ? だから出産に親の承諾はいらないのよ」


「あ、なるほど! 嫌だわ~、未だに昔の感覚が抜けなくって~」


「ですよね~! 私も全然ついていけなくって~」


「……」



 話は自然とジェネレーションギャップ的な話題に移行し始める。

 まあ私としても、これ以上盛り上がるとボロを出す可能性があったので丁度良かった。











 ――それから数日後の夜。





 インターフォンが鳴ったのでディスプレイを覗くと、そこにはなんと千葉さんと、及川さんと思われる男性の姿があった。

 なんとなく嫌な予感がしたものの、出ないワケにもいかないので扉を開く。



「夜分遅くに申し訳ありません。私は千葉 愛華ちば あいかと申します。そしてこちらは夫の及川 流石おいかわ ながれです。ご存知・・・かもしれませんが、私達は事実婚の夫婦です」


「……初めまして。石崎です」



 千葉さんの表情の険しさと雰囲気から、嫌な予感が的中してしまったことを悟る。



「早速で申し訳ありませんが、石崎さんが私達の年齢を知っていたというお話を聞きまして、一応確認に来ました」


「っ! そ、それは、実は私も人から聞いた話で――」


「誰からですか? 少なくとも私達はここに引っ越してきてから、誰にも自分達の話をしたことありませんでした」


「……えっと」


「もし、その情報をアナタの勤める市役所の職員から聞いたのだとしたら、守秘義務違反になりますよね?」


「ち、違うの! 私はちょっと小耳にはさんだだけで、直接聞いたワケじゃなくて――」


「それでも、アナタの守秘義務違反になりますよね?」


「っ!」



 い、いや、大丈夫だ。

 確かに私は二人の年齢を数人に話してしまったけど、本当にそれ以外のことは何も話していない。

 たかが年齢を漏らしたくらいで大事おおごとにはならないだろう。

 所詮私はパートでしかないし、もし罰せられるとすれば情報源である熊本さんになるハズだ。

 ……しかし、一体誰から私が話したとバレたのだろうか?

 井戸端会議では、誰も千葉さんと話したなんて言っていなかったのに……



「ちなみに、そのことを千葉さん達に伝えたのは私です」



 そう言って姿を現したのは、なんと東方さんだった。

 以前と比べて大分地味な服装だったため、一瞬気が付かなかった。



「東方さん、私達だけで平気だって言ったじゃないですか」


「でも、誰かがチクったって他の人が疑われても可哀そうでしょ? だったら最初から名乗り出た方が平和じゃない」


「……な、なんで、東方さんが?」



 東方さんは井戸端会議に参加していない。

 だから二人の年齢の話は聞いていないハズだが……



「見ての通り、私は石崎さんに色々知られてから見栄を張るのをやめたのよ。そしたら精神的にも余裕ができて、近所の噂話も耳に入るくらいには人付き合いできるようになってね」


「私達は、お隣の東方さんとだけは交流があったんです。知識の足りない私達に、生活の知恵や子どもの育て方などを教えてもらい、本当にお世話になっていました。でも、その東方さんにですら、私達の年齢については伝えてなかったんです」



 ……そういう、ことか。

 確かに、東方家と及川家は隣接している。

 交流のない家同士が隣接してるからこそ、より情報が入りにくかったのだが、まさかそんな繋がりがあったとは……



「……石崎さん、私達はアナタのことを訴えようと思います」


「っ!? ちょっと待ってください! う、訴える? 私はただ、少し口が滑っただけで――」


「それでも、守秘義務違反には違いありません。それに、これは知ってますか?」



 そう言って及川さんはスマホの画面を見せてくる。

 SNSの画面には知らないアカウントが表示されていたが、内容を読み進めるとソレが誰のアカウントなのか理解できてしまった。



「これ、石崎さんの息子さんのアカウントですよね? 守秘義務は家族にもあるって知ってますか?」



 私は、市役所で知ったことを家族には気にせず話していた。

 もちろん外で話したことはないが、なんとその情報を息子が情報通気取りでSNS上で暴露していたのである。



「守秘義務違反は、住民基本台帳法42条で2年以下の懲役又は100万円以下の罰金が課せられることになっています」


「で、でも! 私はただのパートで!」


「パートだとかバイトだとかは関係ありませんよ。守秘義務は退職して一般人になったとしても課せられるんですから」


「そ、そんな……」



 力が抜け、石畳に強く膝を打ち付けたが、その痛みすら感じないほど混乱し、頭がクラクラしている。

 私はそんなこと知らなかったし、そんなつもりもなかった。

 だというのに、私は罰せられるの……?





 ◇




 数日後、私はパートをクビになった。

 熊本さんも服務義務違反で数か月の停職になったようだ。


 今後は守秘義務違反の罰則や、その他の契約違反について色々と考えなければいけない。

 そしてこの事件は、小さいながらもニュースになった。

 当然ではあるが、もうここに住むことはできなくなるだろう。

 息子のSNSも炎上し、学校にも行けないような状態になっている。

 夫も仕事を休んでおり、私は何度も怒鳴りつけられた。

 このまま関係が悪化すれば、最悪離婚することになるかもしれない。


 そうなったとき、私のことを両親は受け入れてくれるだろうか?

 親孝行など一切せず、最高クラスの親不孝をした、この私を……



 もしかしたら私の人生は、ここで終わりなのかもしれない……




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知らなかった、そんなつもりはなかった、たかがそんなことで! ―今更後悔してももう遅い― 九傷 @Konokizu2

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