第9話 「ヴィーダを国から出すな」

「……」

 目を閉じているものの、眠気はいっこうにやってこない。

 どこか遠くない場所でフクロウが鳴いている。

 風がさわさわと周囲の木の葉を揺らした。ラグナルのもとにやってきた同じ風には、潮と微かな硫黄の香りが含まれている。

 背後では既に熾火と化している薪がジジッと音を立てた。

「……ん」

 どの音のせいだろう、背中合わせに寝ているイシュカが寝ぼけ声を漏らした。

(…………寝てる。こっちは全然なのに)

 なんだかおもしろくない。


 ラグナルはため息を吐き出すと、眠ることを諦めて身を起こした。その拍子に、イシュカの枕もとから何かの気配が逃げていった。

「あ、悪い」

 慌てて声をかけた。昔、イシュカが話していた、傘を持った老人の妖精だろうか。子供に楽しい夢を見させてくれるという。

「……何の夢を見てるんだか」

 苦笑と共に傍らの幼馴染を見つめた。

 銀に青や緑の毛房が混ざった不思議な髪は、ヴィーダ家の特徴だ。彼女の兄は銀に赤と黒、父親は確か銀と赤、茶だ。

(こんなに小さかったっけ)

 風狼に共に乗った時も感じたが、全体的に小さい。昔はそんなふうに感じたことはなかったのに、と離れていた年月を思う。


 天空には半月が輝いている。風で頭上の木がまた揺れて、木漏れた月光がその顔を照らし出した。

 人好きのする、丸みを帯びた顔、形はいいものの、低めの鼻、あどけなさの残る口……。

『お母さまは美人だから! 成長期になったら私もちゃんと大人っぽくなるから!』

「……成長期、来てるのに、ほぼほぼ変わってない気がするぞ、イシュカ」

 からかうように笑って、その薄桃色の頬を軽くつついた。

 イシュカの眉が寄った。頬より色味の強い唇の合間から呻き声が漏れて、ラグナルはさらに忍び笑う。


(……三年半も一緒にいなかったのか)

 物心ついた時から、この学校に入って半年ほど経つまで、ラグナルとイシュカは双子の兄妹のように過ごした。

 家で、教育熱心で厳しい父親の下でがちがちに縛られていたラグナルにとって、週に二、三回イシュカと一緒に過ごす時間は、本当に特別なものだった。

 なにせ彼女は自由だった。教養や礼儀作法がないというわけでは決してないし、むしろかなりきちんとしているのだけれど、要らないと判断すれば、あっさりとこだわるのをやめてしまう。


 ラグナルを含めた他の貴族の子女がそうするように、相手の顔色をうかがうこともなく、喜怒哀楽をそのまま顔や言葉に出す。そこに悪意はおろか計算もないというのも、ラグナルが安らげた理由だった。古い歴史を持ち、いまなお国内有数の権力を握る公爵家の嫡子であるラグナルは、みえみえの追従や媚び、悪意にずっとさらされて育ってきたから、なおさらだった。


 ラグナルが父親からたたき込まれた、妖精や精霊、召喚術に関する常識も、彼女の周囲では何の役にも立たなかった。

 ラグナルが必死に覚えて、細心の注意を払って描く召喚陣と同じ効果のあるものを、イシュカはひたすら楽しそうに踊って描き出す。

 長い時間をかけて研究されてきた召喚呪を完全に無視して、イシュカは精霊に自分の言葉で歌って呼びかけ、呪とする。

 正直、あまりのお気楽ぶりにムカつくことも多かった。でも、呼び出した召喚獣と契約を結ばない彼女を見て、召喚獣に対するアプローチがそもそも根本から違うと気付いてからは、自分は自分、イシュカはイシュカと思えるようになった。


 彼女の周りには、いつも妖精や幻獣の気配がある。彼らは人間に好意的とは限らないし、むしろ危険なものも多い。けれど、イシュカは気にしない。どんな存在にも友達のようにふるまい、時に怒られ、時に手痛いしっぺ返しを受け、でも懲りない。そのうちに彼らもあきれるのか、皆彼女に馴染んでいく。そんな彼女と一緒にいる限り、彼らはラグナルにも親切だった。

『異界に身を置く精霊が、召喚に応じてこの世界に顕現した時、それらを召喚獣と呼ぶ。彼らは彼ら独自の理屈と価値観を持つ。人とは相容れないことも多い。それゆえ、人にとって基本的に危険な存在であり、だからこそ契約による縛りが必要なのだ』

 そう父親に教え込まれているラグナルにとって、イシュカの、ヴィーダ家の精霊たちとの関わり方は新鮮だった。

 彼女といる時は、肩の力を抜けた。彼女が召喚に成功した後、しょっちゅう使役に失敗するせいで、気のほうは抜くことができなかったが、それすらも楽しかった。


 だから――、

「何が、『俺が留学したら寂しい』だよ。イシュカから離れてった癖に……」

 彼女のそばにいられなくなって、寂しかった。

 わかっている。この学校に入学してから、彼女は自分がラグナルの足を引っ張っていると考えるようになった。

 そうじゃない、ずっと助けられてきた、今も助けられているとうまく伝えられなかったのも、周囲から守ってやれなかったのも自分だ。

 だから、イシュカを責める気はないけれど、本当に寂しかった。週に何度かだけじゃない、その頃には学校でずっと一緒にいられるようになっていたから、余計に……。

 今回だってそうだ、留学――手を繋げる場所から離れただけでは飽き足らず、顔を見ることすらできない場所へ行こうとしているのは、イシュカの方だ。


『ヴィーダの娘が特別考査を受けようとしているらしい――邪魔してこい。あの家の者を国外に出すわけにはいけない』

 イシュカに先ほど伝えた通り、ラグナルが特別考査を受けたきっかけは、父のあの言葉だ。

 理由を問うたラグナルに父は、

『そのうちわかる』

としか言わなかった。

 訳のわからない命令に反発したラグナルが、それでも考査を受けることにしたのは――。


 月光が当たって白んで見える顔をじっとみつめた。

「……人の気も知らないで」

 能天気な寝顔がムカついて、思わずその低めの鼻をつまむ。また眉根が寄った。いやいやするように首を振るが、起きない。それを見ながら、ラグナルはまた小さく笑い声を漏らした。

「シグル」

 羽音を立て、上からシグルがやってきた。鉤爪に握り込んでいた枝を数本、ラグナルの前に落とす。

 夏とはいえ夜は冷え込むし、島には獣もいる。火が消えかかっているから、薪をくべろということだろう。

「お前、本当に不思議だな。夜も平気で飛ぶし、召喚してないのに現れるし、実体があるし、いつの間にかそばにいると思ったら、ふっと消えるし、人間のこと、やたら理解してるし」

 ラグナルがイシュカと出会った時に、シグルは既に彼女の傍らにいた。

 最初鳥だと思っていた正体不明の精霊に、もう何度目かわからない言葉をかければ、ぴいぃっとまるで笑っているかのような鳴き声が返ってきた。


「――出でよ、小さき我が炎友」

 手のひらに小さな炎が渦を巻き、微かな煙と共に火鼠が姿を現した。ラグナルが契約する火の精霊の中で最も低位の召喚獣だ。

 ラグナルは手の内の小さな召喚獣に「やあ」と声をかけた後、焚火にくべたシグルの生木を指し、

「あれを燃やしてくれないか?」

と頼む。

 きゅいっという鳴き声と共に、火鼠が枝に飛びついた。まず樹皮が煙を上げて燃え上がり、見る間に全体が炎に包まれる。

「ありがとう。助かったよ」

 もう一度鳴き声を残して、火鼠は炎の中に同化し、消えていった。

 契約の済みの召喚獣の呼び出しは、陣も呪も簡略化できる。低位のものであれば、そのどちらもいらず、念じるだけでいい。

 だが、ラグナルはそうしない。というか、できない。やったら、イシュカが『幻獣に失礼でしょ!』と怒る気がする。

 ちなみに、高位の召喚獣に対してもそうだ。陣や略呪、使役命令の他に、なんとなくイシュカがするように人に対するように挨拶し、頼み、礼を言ってしまう。

 父などは「無駄なことを」と渋い顔をするが……。

(多分無駄じゃないんだよな、これが)

 なんとなくだが、そうすればするほど、彼らは、逆に陣や呪なしでの呼び出しや命令に応じやすくなる気がしている。

 シグルがくちばしで掛布をつまんだ。寝ぼけて寝返りを打ったのだろう。露出したイシュカの肩をもう一度覆おうとしているらしい。

 四苦八苦しているのを見て、くすっと笑って手を伸ばし、シグルを手伝った。


「……」

 背後からの火に照らされ、イシュカの銀色の髪は赤く燃え上がって見えた。自分の髪色を連想し、ラグナルは暗い目をする。

「ヴィーダをこの国から出すな、か……」

 父はヴィーダ家を敬遠している。かの一族は精霊の探査に長け、召喚にも非凡の才を持つと、父も認めている。召喚できる幻獣のレベルが、ガードルード家はおろか王家に匹敵することも。

 その上で、父は使役に失敗しがちな彼らを『非効率的で、信頼性に欠ける』と断言するのだ。

 この世でおそらく唯一、幻獣の融合に成功してきた家だという点も、『歴史の長さに対して、成功例が少なすぎる』と言ってまったく取り合わない。

 ラグナルの家にイシュカが遊びに来た時だって、いい顔はしていなかった。もっともイシュカはそんなもの、一切気にしていなかったが。


(そういえば、俺の友人関係にもしょっちゅう口出ししてくるのに、イシュカに関しては苦々しい顔をしても、付き合うなとは言わなかったんだよな……)

 第二王子の守り役をラグナルに引き受けさせようとしていた時もそうだった。何を言っても無視され、あと少しで退学させられそうだったというのに、イシュカの使役失敗のフォローを理由に挙げた途端、あっさりと引いた。

 ――なにかがおかしい気がする。


 考え事をしつつ、イシュカを見つめ続けるも、平和な寝顔に変化はない。

「……能天気な」

 なんせ三年半、ほとんど話していなかったのだ。

(特別考査の後、秘密のあの場所に行くのにだって、そこで声をかけるのにだって、探査試験のパートナーに誘うのだって、こっちは緊張しまくっていたのに)

と、ラグナルは横ですいよすいよと眠る幼馴染を、半眼で見つめる。可愛いと思わないわけではもちろんないが、なんとなく腹立たしい。


 寝られる気はしない。顔でも洗おうと立ち上がって、樫の木の脇の小さな泉に近寄った。

「……」

 が、身を屈めたところで、目を眇めた。

 水の中に界境がある。その向こうから何かがこちらを見ている。

(――開いた)

 それがゆっくりとこっちの世界に出てきた。水面にさざ波が立つ。霊力が高まりから察するに、形、実体をとったのだろう。

 半透明の水色の髪、真っ青な額が水中に見えた。人型、しかも女の幻獣だ。

 水が盛り上がり、それがすぅっと水面に青白い顔を出す。水紋が周囲に広がっていく。

『――おいで』

 色味以外のすべてがひどく美しい女の精霊に、脳に直接語り掛けられ、幻惑の霊力を向けられて、ラグナルは薄く微笑んだ。

「――断る」

 その瞬間、女の目から白目が消えた。全部黒に染まり、美しかった口が耳までつり上がる。

 冷たい水がまるで意志を持っているかのように足首に絡みつき、泉に引っ張り込もうとする。

「来たれ――焔より出でて炎に住まう、鱗あるもの」

『ぎゃっ』

 ラグナルの足元に炎が立った。それがくるりとラグネルの足周りを一周し、足首に絡んだ水を蒸発させた。


 慌てて水面下に引っ込んでいく幻獣を見送り、ラグナルは息を吐き出した。足元で自分を見上げる火蜥蜴『サラマンダー』に「助かったよ」と礼を述べる。

(あれ、夕方イシュカに魚を取ってやってた精霊だよな)

 イシュカが「綺麗でしょ、優しいんだよ。いつも魚くれるの」と散々自慢していた、あの幻獣と同じ個体なはずだ。

(……あいつがへらへら話している精霊、危険なやつも結構いるんだよな)

 あいつが仲良くしている水馬なんて、水辺に来た乙女をさらって食らうこともある、相当にやばい種族なはずだ。


 界境が開いたせいで乱れていた周辺の霊力が、落ち着いてきた。離れていた妖精たちが戻ってきたのかもしれない。風の音の合間に小さな囁き声が聞こえた気がした。

 ブナの木の枝のそこかしこから、視線を感じる。取るに足らない霊力だが、明らかに好意的でないものも混ざっている。

「……」

 背後で眠るイシュカを振り返れば、そっちにはそんな悪意はまったく注がれていなかった。寝ぼけてシグルを抱え込んで、鬱陶しそうな顔をした彼に、額をつつかれて唸っている。


 水辺の様子をもう一度慎重に確認して、ラグナルは膝を折り、顔を洗った。そして、滴が付いたままの顔を天空に向けた。

 零れ落ちてきそうなほどの星々が、キラキラと瞬いている。その光の濃淡が虹のようにすら見えた。

「……この感じ、久しぶりだ」

 イシュカと一緒だと、常識の通じないこと、わからないことばかり起きる。

 でも彼女と一緒に見る世界は、他の誰と見るより美しい。そして、どうしようもなく楽しい。

 でもだからこそなんか悔しい。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る