第3話 交流再開は樹魔の木の下で

「色んな意味で疲れた……」

 校舎から二十分ほど歩いた場所にある、丘と森に囲まれた小さな池のほとり。イシュカはアルダーの大木の幹に寄りかかり、崩れるようにうずくまった。


(なんかここに来るの、久しぶりかも……)

 入学したばかりの頃、ラグナルと学園の敷地を探検していて見つけた秘密の場所だ。

 あの頃は昼休みのたびにサンドイッチを持って、校舎を抜け出して、精霊たちの気配を探して歩いた。たくさんしゃべって、馬鹿みたいになんでもないことで笑って、手を繋いで……。

(そういえば、ラグナルの十一の誕生日をお祝いしたのもここだっけ。妖精たちに頼んでいっぱい花を咲かせて、歌を歌って、そしたらつられてたくさんの精霊たちが出てきて……最後にはラグナルにやりすぎって止められたんだよね)

 あの頃は身分が違うとか、召喚士としての格が家としても個人としても違うとか、見た目が釣り合わないとか、考えたことすらなかった。

(子供だったなあ)

 自分とラグナルの違いを実感するまではあっという間だった。教えてくれたのはさっきのようなフレイヤたちクラスメイトだったり、上級生たちだったり、果ては教授たちだったり……。

『ラグナルさまの負担になっているとわからないの』

 当時一番突き刺さった言葉を思い出して、イシュカは視線を伏せた。あの時からイシュカはラグナルを避けるようになった。そしてラグナルの方も……。


 その頃からここに来るのはイシュカだけになった。

『二人だけの秘密基地だ』

『うん、内緒の場所』

 そんなふうに笑い合った三年半前が、遠い昔のことのように思えた。

 今や二人は十四だ。さっきの試験で久しぶりに正面から見たラグナルは、昔の面影こそあるものの、背も高くなって、笑い方だって大人びていて、イシュカの記憶にあるカッコよくも可愛いラグナルではまったくなかった。

 当然だと知っているのに、やはり少し寂しい。


 池の水面を涼しい風が渡ってきた。風に乗った妖精『シルフィ』の笑い声につられたのか、池の中から水の同じく妖精『アンダイン』たちが顔を出し、一緒に戯れ始めた。

 晩春の陽光が降り注ぎ、シルフィの半透明の葉のような羽と、アンダインのやはり半透明の魚のヒレのような羽に反射して、不規則に光る。彼らの下では、水面が複雑な模様を作り、イシュカのいる岸に波となって寄せてきた。

「今日も綺麗だなあ」

 ここは『界境』、つまり幻獣たちの世界とこの世界が接する場所だ。そこかしこから、精霊の気配が漂ってくる。


 イシュカは背後のアルダーの木を振り仰いだ。この老樹にも『樹魔』が憑いている。

 異界での樹魔の住処は深い森で、実際には何百歳なのだろうが、イシュカより少し年上のお姉さんに見える、優しい見た目をしている。

 学園で失敗をして落ち込んでここに来るたび、つまり数えきれないくらい彼女はイシュカを慰めてくれた。今もそうだ。風もないのに梢が揺れ、下のイシュカの顔に木漏れ日がキラキラと踊った。

「……」

 幹に背を預けて目を閉じ、感覚を研ぎ澄ませば、意識もしないのに口から召喚呪がこぼれ出た。歌いながら、指で空中に小さな陣を描く。

(やっぱり……)

 陽光溢れる、異界の森の泉。その真ん中の島に立つアルダーの木の前で、樹魔が穏やかな笑顔をイシュカ向けてきた。

『久しぶり、最近は失敗が減ったの?』

という思念が頭の中に流れ込んできて、思わず笑えば、彼女が頭に手を伸ばしてくる。

 撫でられた、と感じた瞬間、こちらの世界のイシュカの頭にまだ若い葉っぱがふわりと落ちた。


 『界境』は他にもある。一つは池の真ん中あたり、砂地の底から水が湧き出す場所。もう一つは左手の丘の地下。今の季節だと対岸の花畑もそうだ。

「もし留学できていたら……アエラと会えなくなるのもだけど、ここに来られなくなるの、嫌だったかも」

「それだけか」

「っ」

 突如響いた声に、心臓が跳ね上がった。よく知っているはずのその声が、いつの間にか低くなっていることに気付いて、さらに心臓が鼓動を増していく。


「……ラグ、ナル」

 恐る恐る声の方向に向き直れば、予想通りの姿があった。

 赤髪を風になびかせながら、ラグナル・ガードルードが歩いてくる。

 懐かしい、赤い瞳と真っ直ぐ視線がかち合って、思わず息を殺した。

(な、んで、ここに……って、いや、私だけの場所ってわけじゃないけど)

 おどおどする間に彼はすぐそばにやってきて、当たり前のようにイシュカのすぐ横、アルダーの木陰に座った。

 背が伸びたのはさっき痛感した。だけど、間近にすると感じていた以上に大きい。緊張が増していく。


「え、ええと、その、ひさし、ぶり」

「さっき会った」

「だ、だったね」

「ここでって言うなら、その通りだけど」

「だ、だったね」

「……特別考査の総評、明日だって」

「だ、だったね」

「……さっきからそれしか言ってなくないか?」

「だ、だった……っけ?」

「ほらまた…………じゃないか、語尾だけ変わった」

 どこか不機嫌そうだった彼が、くすっと笑った。

(……変わってない)

 笑い顔だけはイシュカの記憶の中のラグナルと同じで、ようやく息を吐き出すことができた。


 並んで座った二人の頭上で、さわさわさわさわと木の梢が揺れ、優しい葉擦れの音が降り注いだ。

(お、落ち着かない……)

 何も言わず、彼はキラキラ光る水面をひたすら見つめている。何かを考えこんでいるようだった。

 昔は沈黙も気にならなかったのに、とつい思いついてしまったら、近いのにやっぱり遠いと実感してしまった。矛盾しているけれど、それで少しだけ落ち着くことができた。


「なあ、さっきの召喚」

「……完敗でした……」

(だよね。今や私たちに共通する話題なんて、それしかないよね)

 二重の意味でイシュカはがくりと肩を落とす。

「うぅ、融合さえうまく行けば……、っ」

と呻いた後、顔を二体の召喚獣にがっつり噛まれ、くっきり歯形が残っていることを思い出して、イシュカは慌てて両手で頬を覆った。

 その瞬間、ぶはっと音を立ててラグナルは吹き出し、「……悪い」と言いながらイシュカから顔を背けた。

「……」

 本人を前にあの情けない失敗を指摘してこないところは、紳士だけれど、肩がしつこく震えているあたり、実に正直だ。

「いいよ、隠さなくて。呼び出した召喚獣二体に同時に噛まれる召喚士なんて、この世に私だけだってはっきり笑ってもらった方がまだ救われる」

「わ、悪い、じゃ、遠慮なく」

 ほっぺたを押さえたまま恨みの視線を送れば、彼は声を立てて笑う。そして、涙をにじませ、弧を描く目をイシュカに向け、手を頬に伸ばしてきた。

「今まで一回も成功していない融合をあの場でやるか、普通。大胆すぎるだろう」

「それ、アエラにも言われた。でも、それしか勝つ方法がなかったって、ラグナルは知ってるでしょ……」

 人の泣き言を聞きながら、それでも笑い続ける彼は、実は結構性格が悪い。

 優しくて王子さまみたい、と彼を評している女生徒たちに、告げ口してやろうかと真剣に思う。


「それで傷は? 二体とも結構怒っていただろう? 手加減はしていたみたいだけど」

「血は出てないけど、跡はくっきり」

「……見せて」

「嫌だ。カッコ悪い」

「今更だ」

「言い方!」

「ほら、いい子だから」

 色んな意味で半泣きになったイシュカだったが、柔らかい声と言い様に緊張を思い出した。

「っ」

 ラグナルの指が頬にあてた手に触れた瞬間、音を立てて自分の手を下ろす。そして、失敗を悟った。

(顔、顔、触られてる……! 歯型付きの顔!)

「……? 跡、ないぞ」

 だが、ラグナルは、顔を真っ赤にしたイシュカを気にする様子なく、目を眇めた。

「え、本当?」

 目を瞬かせ、イシュカは立ち上がると、池に近づいて水面を覗き込んだ。

 そこに映るのは馴染んだ丸顔だ。首を動かし、角度を変えて右、左、と見たが、頬にあれほどはっきり赤くついていた歯形がない。

「わあ、消えてる。よかった、これ以上恥をさらさないで済む」

 胸を撫で下ろして背後を振り返れば、ラグナルが訝しむように眉を寄せていた。


「……シグル、久しぶり」

 二人の間に上空から黒い影がさっと舞い込んだ。ラグナルの周囲を器用に一周して、イシュカの肩にとまった。

「相変わらず嫌われてる……」

「相変わらずなのはラグナルだよ。本当に嫌ってたら、シグルはそもそも姿を現さないって言ってるじゃん」

 さっきのフレイヤたちを思い返して唇を尖らせれば、彼は「……相変わらずはイシュカも一緒だろ」と言い、なぜかまた微笑んだ。馴染みのない笑い方に一瞬呼吸が止まる。

(いつの間にこんなふうに大人っぽく笑うようになったんだろう……)

 笑ってくれて嬉しいはずなのに、幼馴染が遠くなっているのをまた確認してしまって、複雑な気分になる。

 イシュカは視線を池に戻し、座り込むと、丸めた膝を両腕で抱え込んだ。


「なあ、イシュカ、」

 ラグナルがまた隣に移動してきた。まだ話せるという喜びと、早くいなくなってくれたら落ち着けるのに、という気持ちでごちゃごちゃになる。

「特別考査を受けた目的って、セルーニャ国への留学、最終的にはウハネ国に行くためか」

 顔を跳ね上げて、目を丸くすれば、「昔、ヴィーダ家と似た召喚術がそこに残っているかもって話していただろう」と返ってきてますます驚いた。入学前の話だ、もう五年以上前の会話をまさか覚えていたなんて。

「なんで?」

「へ?」

「なんでウハネに行きたい?」

 ひどく真剣に訊ねられている気がして、「え、だから召喚術のため……あの国、セルーニャ以外と交流ないから、入る手段がセルーニャ以上に限られてるし」ともごもごと返す。

「それだけか」

(ああ、やっぱりラグナルだ。私のこと、よく知ってる……)

 昔からだ。昔から彼はイシュカのことをイシュカ以上に知っていた。もう何年もまともに話していないのに、やっぱりばれていることに複雑な気分になる。

「……この国、あんまり合ってなさそうだって思って」

 丸めた膝の上に顔を埋めれば、情けないまでに声が小さくなった。

 この学園に来て、自分たちヴィーダの召喚術がどれほどの異端か、実感させられた。イシュカがずっと誇りに思ってきた召喚術を、皆が「古い」「効率が悪い」と言い、時に蔑む。


 物心ついた時には、イシュカにとって幻獣たちは身近な隣人であり、友達だった。異界の霊力を感じて歌い、時に踊り、その世界に通じた瞬間、体の奥底から喜びが湧き上がってくる。出会った幻獣たちと心が通ったと感じた瞬間、全身を幸せに包まれる。

 なのに、この学園の、ううん、この国の人たちの多くは、それは召喚術とは認められないと言う。契約を結んで確実に使役できるようにせねば、意味がない、と。


 でも、イシュカには契約の仕方がそもそもわからない。ラグナルなどを真似てやってみようとしたことはある。色々な人に教えてももらった。だが、感覚的に理解できないからだろうか、成功したためしがないのだ。

 呼び出したどの幻獣も不思議そうな顔をし、あるものは凹むイシュカを慰め、あるものはぺしりとイシュカの頭をはたき、またあるものは水を浴びせ、あるものは暴風を吹きかけ……で、自分たちの世界に帰っていってしまった。

 だからイシュカは召喚に成功しても、呼び出した幻獣たちを毎回確実に使役できるわけじゃない。

 当然イシュカは落ちこぼれ扱いだが、それはいいのだ、事実だし、だめならだめでこの先、ちゃんとできるように努力するし。

 問題はイシュカと関わりのある、大事な友人の幻獣たちまで『使えない』呼ばわりされることだ。

 そのたびにここは自分の居場所ではないのかも、とイシュカは思うようになった。そして、まだ見ぬウハネという国なら、何かが違うのではないか、と。


「……そうか」

「あ、でも、ラグナルが気にする必要はないし、手加減もいらないからね? 絶対だからね?」

 沈んだ様子で呟いた幼馴染に慌てた。

 ラグナルの父、この国きっての名門であるガードルード公爵家の当主は、名うての召喚士でもある。召喚士の最高位である幻獣使いの中でも、当代一の実力者と言われていて、事実筆頭宮廷召喚士の称号を手にしていた。

 何度も会っているが、ものすごく厳格な人で、息子のラグナルへの期待も大きく、とても教育熱心……と言えば聞こえはいいが、ようはやたらと厳しかった。イシュカに手加減などして成績が落ちようものなら、あの人が何を言うか、知れたものではない。

「……」

「いや、ほんとに、気を使ってわざと負けてくれるとか」

 ほんとはちょっとそうしてもらえると助かるんだけどなーと思わないでもないが、それでラグナルが困るのはもっと困る。

 真っ赤な瞳にじっと見つめられて、焦りながら付け足す。

「……しない、絶対」

「ぜ、絶対とまで言う……? ほ、ほら友人の夢のために、ちょおっとだけ、無意識に手加減したくなったり」

「しない、全然、まったく」

「ああ、留学が遠ざかっていく……」

「手加減してほしいのかほしくないのかどっちだよ」

 そう苦笑した後、「どの道、してほしいって言ってもしないけど」と舌を出したラグナルは、さすがに友達がいがなさすぎな気がした。


「なあ、イシュカ、学年末の探査試験、組もう」

「…………は?」

 だからこそ余計彼の言葉の意味を捉え損ねた。

「だから探査試験。中等課程に向けて、召喚士としての資質を量って、将来に向けて適性に応じて学科を分けて、……まさか知らない?」

「いや、さすがに知ってはいる、けど……」

 将来に直結するという意味で、とても大事な試験だ。

 だが、それ以上に生徒たちが浮き足立つ、初等課程最大の“イベント”――そう、イベントだ。


 夏季休暇前の一週間の試験期間中、生徒たちは無人島に放り込まれる。

 島内をうろつき、野営をしながらパートナーと共に、精霊の痕跡を調べたり、幻獣たちが住まう世界との接点を見つけたりといった課題に取り組んでいく。困難を解決するために、召喚を行うことも多いが、それがうまくできない場合、リタイヤや怪我人が出ることもめずらしくない厳しい試験だ。

 しかも試験の結果次第では、この先、中等課程に進む際に希望通りの学科に行けないこともあるという、極めて重要なものだ。

 だが、生徒たちは十四、五かそこらの年頃の少年少女だ。当然課題以外に気になることがいっぱいあるわけで、思う相手とペアになろうと皆血眼になっている。


(その探査試験に……?)

「私? とラグナル……?」

「以外に誰がいるんだ」

「い、いるでしょ、公爵家のフレイヤさまに、侯爵家のアエラ、スーミナさま、他に……」

「召喚士の探査試験だぞ。召喚士としての技量で話せ」

「ああ、でも――アエラ・エクシムは渡さない」

「人の話を聞け。なんで俺、睨まれてるんだよ……。そもそもエクシム嬢をよこせなんて、一言も言ってないからな?」

と半眼を向けてきたラグナルは、「俺がイシュカと組みたいんだ」とため息を吐き出した。


「いや、それこそおかしくない? 私、たかが子爵家、しかもヴィーダだよ?」

 おかしなセリフにドン引きすれば、「その変な物を見るような目、やめろ」と睨み返された。

「関係ない。いつもペーパーテストは二位だし、今回の特別考査だって最終まで残って、高位獣の二体同時召喚までやってのけたじゃないか。実力は十分だ」

「いつもペーパーテスト一位で、今回の特別考査の最終で勝った人に言われるの、なんかすっごく微妙なんですが」

「なんで。素直に喜んでくれ。で、一緒に組もう」

「う、うん……?」

(本気? いや、ラグナルの力を借りられれば、そりゃあ有り難いけど……)

 そんな話を受ければ誰に何を言われるか、されるか、と思うのに、ラグナルは人の気も知らずにそんなイシュカをまっすぐ見ている。

『イシュカ、今日はあの丘の下を調べよう』

『いいね、ノーム、今日こそ見つかるかも。あ、でも、この辺、厄介なのもいるって』

『イシュカと僕が一緒にいれば大丈夫』

 イシュカに手を指し出してきた幼い彼の真剣な顔が、そのままそこに重なった。

「……うん、一緒にやろう」

 面倒なことになりそうな予感は、確かにある。

 それなのに、既視感に流されるまま、つい頷いてしまったイシュカに、ラグナルは「決定」と言いながら破顔する。もう死んでもいいかもと思えるくらいに、かわいい顔だった。

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