かつてうんこマンと呼ばれた君へ

鹿人

かつてうんこマンと呼ばれた君へ

高所得者の多くは成人してから大便を漏らした経験があるという統計をご存知だろうか。

真偽の程は定かではないがその説を聞いたとき、所得と大便が如何にして結びついた結果そういった説が提唱されるに至ったのか自分なりに紐解いてみようと知恵を絞って考えた。

高所得者は兎角仕事に真摯に向き合う。それが高じる余り厠へ行く時間をも削り仕事に邁進する。寝食を惜しんでという言葉があるのだから当然排泄をも惜しんで働くに違いない。食べもしない眠りもしないのに排泄などするはずもない、そうは問屋が卸さない。

その結果やむ無くパンツの中に大便を投下せざるを得ず、文字通り汚点を残してしまった自分を悔い、何糞これくらい屁でもないと自分を奮い立たせより一層大きな結果を捻り出すエネルギーが湧いてくる、その結果所得が高くなるのであろうと結論した。

実際のところどうなのかは定かではない。私の考えた説を裏付けるためには世の高所得者の一人一人に大便を漏らした経験の有無とその理由と経緯について詳細に尋ねる必要がある。しかし私にはそういった人脈もないため検証のしようもない。我こそは高所得者である、あるいはそういった人との繋がりがあるという方は是非ともこの検証に協力していただきたい。

ここまで読んだ読者諸君、この検証結果が出るまで早合点をしてはいけない。所得を高めようと喜び勇んで今まさに大便をパンツに捻り出そうとしている貴方も少し思いとどまることをお薦めする。

高所得者が大便を漏らした経験があるからといって、大便を漏らした者が漏れなく高い所得を得られるわけではないということを努努忘れてはならない。

大便を漏らそうと漏らすまいと所得を高めるのに必要なものは肛門の緩さや漏らしたという事実ではなく、それを糧に踏ん張る気概ではなかろうかと私は仮定する。

しかしこの説についてひとつ思うことを述べるとすれば、なにゆえ成人してからという条件付きなのだろうか。子供の頃も含め大便を漏らした経験が所得に拍車をかけるという結果だったのならこの国の、ひいては世界中の貧困は根絶されていたのではなかろうか。

日当1ドルで重労働を強いられている子供も、泥水を啜って生きる子供も、糊口を凌ぐために人売りに出される子供も存在しなかったに違いない。なんなら食うに困らないばかりか豊かで満ち足りた人生を送れた可能性もあったに違いない、大便を漏らしたという汚点と引き換えに。

そう考えるとこの統計を弾き出した個人か団体かは不明だが、実に余計な条件を付け加えてくれたものだ。一体何の目的で成人に限定したのだろう、これは世界の富を独占せんとするうんこ垂れ特権階級の陰謀ではないかと邪推すらしてしまう。成人以上に限定しなければ誰しも大便を漏らした経験のひとつやふたつあるに違いないだろうに、無論私にも。

長い前置きを終えようやく本題に入る、読者諸君ももうしばしお付き合いいただければ幸いである。



学校で大便をした者は人間失格である


令和の世では定かではないが平成の小学校界隈にその風潮は確かに存在した。

私の思い違いなどではなく小学生諸君の間では学校での大便はご法度という暗黙の了解があったのだ。

それを裏付ける事象として、その頃小学生を対象に学校での大便をするのか否かというアンケートを取り、全国放送の番組内でコメンテーター達が「大便しないよ派」の小学生を如何にして減らすかを大真面目な顔をして討論していた、という記憶がある。

その他にもテレビ局の良い大人達が大真面目に考えたであろう、小学生にどうにかこうにかして学校で大便をさせようというキャンペーンを打ってはお茶の間の失笑を買っていた。

大便は誰もがやってることだ、恥ずかしくないよ、いじめカッコ悪い、などというスローガンを掲げプロパガンダをおこなっていたが、全国の「大便するよ派」に属する小学生への民族浄化の手が休まることはなかったのではなかろうか。

学校の厠で大便をし、万が一それを同級生に目撃されようものなら只では済まない。親兄弟三親等一族郎党お天道様の下を歩けなくなるまで徹底的に馬鹿にされ、石を投げられ塩を撒かれ、しまいにはうんこマンの烙印を押され、少年時代及び青春時代に暗い影を落とし、ひいては暗澹たる一生を送る羽目になるのである。尚それも地域差及び個人差があるものとする。

聞いたところに寄れば昭和の時代ではそれに輪をかけて迫害の勢いが凄まじかったらしいが、幸いにも私の通う小学校ではその風潮はある程度淘汰されつつあった。個室のドアを開けたまま大便をするでもしない限り表立って揶揄されることはそれほどなかった様に思われる。

休み時間ちょっと人目を忍んで裏校舎にある厠に入り速やかに便器に大便を投下し何食わぬ顔で教室に戻る、これで大体の急場を凌ぐ事ができた。多少戻るのが遅れたところで、

「うわっ、うんこマンだ!くっせ!」

などと鼻摘まみ者にされることはなかった、実に朗らかな事後である。

余談だが私が通っていた小学校の厠には和式の便器がふたつと洋式の便器がひとつ設置されていた。洋式の便器はいつでも無機質な顔をして個室の中に鎮座ましましており、座った者の尻を分け隔てなくそっと冷やした。特に冬場などはその冷たさに当てられ大便がホームシックを起こすこともしばしばあったため私は専ら和式便器を愛用していた。

世間の風潮に左右されず不自由のない排便生活を送っていた当時小学一年生の私は、ある日予想だにしない災難に見舞われる事となる。

その日はよく晴れた梅雨の中休みだったと記憶している。前日までの雨は上がり、夏を予感させる気持ちの良い風が吹いていた。大人になった私があの快晴の空を仰いだとしたら、

「いやぁ、今日は良い天気ですね、雨もすっきり上がって」

などと誰かに話を切り出していたかもしれない。しかし小学生にとって天気など遠足や運動会の日を除いてどうでも良い情報でしかない。今日は良い天気だ、だからなんだという話である。子供だった私は校庭に現れた水たまりを飛び越えるのに夢中で空の青さにも、忍び寄る災難の足音にさえも気付かなかったのだ。

照りつける太陽の下、四時限目の体育が終わり給食の時間が来る。当時の私は筋金入りの偏食で、給食の盆に乗った中で食べられるものといえば白米とパンくらいであった。牛乳や野菜の類いは無論、他の子供なら誰しも喜ぶであろう竜田揚げやら焼きそばやらコンソメスープやらも一切口に運ぶことはしなかった。我ながらその頃他に何を食って生きていたのかも疑問であるし、その時の担任もよく黙認していたものだと思う。

しかしその日の給食では盆の上に私が食べられるものが乗っていた、県民ゼリーである。他の都道府県の給食事情は分からないが、私の住む県ではそういったものが存在した。文字通り年に一度の県民の日に学校給食にて振舞われる特別なゼリーであり、私のクラスは歓喜に沸いた。小学生にとって給食で出されるゼリーやプリンといったデザートの類いは家で食べるそれとは大きく価値がかけ離れている。親が我が子を喜ばせようとお土産に買ってくる1ダースの県民ゼリーと、給食で食べるたったひとつの県民ゼリーでは喜びの度合いが遥かに違う。どちらが上かは言うまでもなく後者である。その理由を上手く説明できなくてもどかしいが、わざわざ説明するまでもなく聡明な読者諸君ならば理解してくれるだろう。

多分に漏れず私も初めて味わう県民ゼリーに心を踊らせた。当時の私にとって給食とは一部を除き食用の石ころと言って差し支えないほどに唾棄すべきものでしかなかった。しかしその日は県民ゼリーの出現によってモノクロ同然だった給食の時間が豪華絢爛と化した。

この世の美味を味わい尽くしたという心持ちで給食を終え、昼休み、掃除の時間を過ごし五時限目も終わったさぁ帰ろうという段階になって、自らの腹が何やら極めて穏やかでない状態であることを認めざるを得なくなった。

正直昼休み、五時限目と彼等不穏分子の気配を察してはいたのだが、愚かにも私は文字通り臭い物に蓋をしてしまったのだ。何故なら授業中に挙手をし厠へ行きたいという意志をクラスメイトの前で露わにするのは幼い私には少々困難であったからである。

幾度となく圧殺され不遇を被ってきた便意が膨れ上がりいよいよ暴動を謀ったのだ。腹の下の方からは大便御一行の不穏な鬨の声なども挙がっている。下校中さんざからかって怒らせた野良犬の唸り声によく似た音であった。

下駄箱から靴を取り出す姿勢のまま私はやや下を向いて硬直した。慣れないものを食べたせいだろうか、しかしゼリーのひとつやふたつ食べたところで腹がどうこうなるものではない、それが小学生の未完成な胃や腸であったとしてもだ。しかし事実として下っ腹で今にもはち切れんとする大便の感覚が確かにある。

今は原因の追究よりも人間の尊厳を保つことが急務であると判断した私は、城門改め括約筋をグッと締めて鎮圧を図った。民衆の一揆を抑え込む幕府さながらである。

昇降口を出てから家までおよそ三百五十メートル。小学生の足でも五分もあれば自宅の玄関にランドセルを放り出し、厠へ駆け込みズボンとパンツを下ろしたのち大便を射出することができるのだが、自分の括約筋のポテンシャルを量りかねていた私は苦悩した。

果たして自宅まで我慢することができるのか否か。このままでは幕府が瓦解するのは時間の問題ではなかろうか。万一城門が決壊し、何かの拍子に民衆の一人がすっとぼけた顔で突破しようものなら些細な損害ではとても済むまい。

兎角防衛戦というものは一人に突破されれば二人目が必ず続く、それに続き三人目四人目とくればもうその勢いは止めることが出来ない、雪崩込む民衆を止める術など幕府は持ち得ないのである。

その結果として尻に茶色い染みなどを作り、更に大便がズボンの裾から転がり落ち、あまつさえその現場を友人達に目撃されたりなどした日には「大便するよ派」に対する迫害がない学校だとしても只では済まされまい。

学校の厠で大便をする人間と、通学路の道中大便を漏らす人間では、似ている様で何もかもが違う。大便をするというおこないは同じでもその罪の重さは天と地の差にも匹敵する。親兄弟三親等一族郎党子々孫々市中引き回し磔火炙り晒し首の末、未来永劫人間扱いされない程度で済むだろうか。私は今よりもひと回り小さい脳味噌で考え得る最悪の想像を膨らませては青くなり、額と手のひらと尻に脂汗を浮かべた。

現実的な対処として思い付く選択肢はふたつ。ひとつはこのまま裏校舎の厠へ駆け込み速やかに大便を捻り出しことなきを得る。もうひとつは括約筋を大活躍させつつ自宅までの道を全力で駆ける。泣いても笑っても二者択一。禁じ手の三択目だけは是が非でも避けたい、それだけは御免被りたい。

しかし私は此の期に及んで一択目を選ぼうとはしなかった。何故なら当時の私は極度に肝が小さく、放課後の学校の厠というのは何か得体の知れない妖怪の類いが跋扈しているのではないかと本気で思っていたのだ。ただでさえ陽の当たらない裏校舎の薄暗い厠である。小学生が震え上がるのも無理からぬ話ではないか。

大便を捻り出しているさなか便器から白い手が伸びてくるのではないか。いつも閉まっている個室からこの世のものではない声が聞こえてくるのではないかと。子供の想像力の逞しさを悪い方向に発揮してしまっていたのだ。

厠に入っただけであの世の一端を垣間見るのでは割に合わな過ぎるではないか、なんなら生きて帰れない可能性もあるやもしれない。いくら戦争犯罪人の如く扱われる可能性があったとしても、ふたつめの選択肢に運命を委ねるほか私の助かる術はない。

叶うなら心の底から安心できる環境で心置き無く大便をしたい。尻を冷やす便座でもなく、白い手が伸びてくることもなく、無論誰かに干渉される心配も皆目ない環境で。そうなればやはり選択肢はひとつしか…


「ねぇ、帰ろうよ」

振り返るとそこには友人のTが立っている。彼は十二人のクラスメイトの中でも一番の調子者で、国語や算数よりも体育が得意で授業中には息をする様に屁理屈をこねくり回し、先生を困らせるといったどこのクラスにも一人は存在する小学生であった。

永劫かの様に感じた脳内会議も現実では一寸かそこらの時間でしかなかった様だ。Tは昼休みに拾った小石をつまらなそうに弄んでいた。

「あぁ…うん帰る、帰ろ」

返事こそすれ正直生きた心地がしなかった。立っているのに膝から下の感覚がない。地面から足が離れ宙に浮いているのでは、あるいは自分自身が大きな穴にでもなって冷えた血液が頭から底に向かって流れ落ちてゆく、そんな感覚を覚える。平たく言えば限界が近い。そんな状態で楽しくおしゃべりに付き合えるほど私は器用な人間ではなかった。にも関わらずTはそんな私の心情を汲むことなく、世界一どうでもいいとしか思えない話を矢継ぎ早に振ってくる。聴神経や視神経は二の次三の次で括約筋に全神経を集約している私に一体何の話をしているのだろう。どこか遠くから聴こえる喧騒の様にしか思えないほど、Tの話は輪郭すらも曖昧だった。

満身創痍で校門に向かって踏み出す私の一歩は肛門に向かって進む大便達の一歩となった。私はわざとらしく荒い息を吐き目を白黒させる。今更校舎に戻り厠へ駆け込むほどの余裕は恐らくない。ましてや家まで全力疾走するほどの気力も時間も残されてはいない、最早万事休すか…

こんな苦しみを負うくらいならいっそ全てを諦めてしまおうか。校庭に石灰で引かれたトラックのラインはさしずめでかい便器の様に思える。ここで遠慮なく前触れなくおもむろに憚らず大便が大きな産声を轟かせようとも赦されるだろうか。Tはどんな顔をするだろうか。見なかったことにしてくれるだろうか。明日からも友達でいてくれるだろうか。などと危ない考えが頭をよぎる。僅かに残る理性で危険思想を抑え込み最後の抵抗を図った。

その刹那天啓に打たれたかの如く起死回生の一手を閃く。私はクラスメイトの一人Uと深い親交があった。学校が終われば毎日どちらかの家を訪れては門限まで目一杯遊ぶ、そんな友人Uの家は校門の目と鼻の先にあったのだ。

そして彼の家族は両親、祖父母、弟妹がおり、家に行けばほぼ必ず誰かしらが在宅していた。毎日通い詰めていた甲斐もあり、私の存在は家族全員に認知されていた。唐突に訪問したとしても快く厠へ案内してくれるだろう。地獄に垂れた蜘蛛の糸を手繰り寄せる犍陀多の如く、私は一歩を確実に踏み出した。

「おい、どこ行くの」

あらぬ方向に歩き始める私をTが呼び止める。

「ちょっと…Uちゃん家に用が…あってさ…先に帰ってても良いよ…」

「用って何だよ」

「や、昨日遊んだ時に忘れ物しちゃって…」

「じゃあ俺も行くよ」

「いや、いいよ…いい、ほんとにいいから」

この期に及んで真意を悟られまいと虚勢を張るが、Tを突っ撥ねるほどの気力はもう残っていなかった。これ以上押し問答を続けるくらいなら一刻も早く厠へと駆け込まなくてはならない。Tの詰問に最後まで応えること無く私は半ば朦朧としながらUの家の戸を叩いた。

「こんにちはぁ」

誰かいないのか、いないと困る、後生だから誰かしら応えてくれ。

しかし私の祈りは黙殺された、誰も応える気配がない。いつもなら誰かしらからの返事があり挨拶もそこそこに戸を開け上がり込むことができたのに、何故今日に限って返事がないのだ…

津波の様な黒い絶望が便意と共に押し寄せる。もう半ばヤケ糞である。羞恥心だとか体裁だとかそういったものをかなぐり捨て私の全てを込めてもう一度呼びかける。

「ごめんくださぁい!」

しかし結果は同じだった。私の全力の叫びも虚しく響くだけで、誰かの声が返ってくることはなかった。怒りとも悲しみともつかないやりきれなさを震える手に目一杯込めて戸を引いても頑として開く気配はなかった。この家に今誰もいないことはもはや明白であった。

私は戸に縋り付くように膝から崩れ半ば自嘲気味に尻へと手を虚しく当てがった。

「プス…プスプス…スー」

という様な大便の呼吸と思しき音すら聞こえてくる始末。

現実とはなんと残酷なのだろう。こんないたいけな少年の心を棘々した棒で叩きのめすのがそんなに楽しいのか、あまりに酷い仕打ちではないか、一体私が何をしたというのだ。

怒りたいのか泣きたいのか情けないのか自分でももう分からない、もうどうにでもしてくれという捨て鉢な気分で肛門の決壊を甘んじて受け入れようと態勢を整えた。

「おい、どうしたんだよ」

突然泣きそうな顔で崩れ落ちる様を見たらそうも尋ねたくなるだろう。Tは依然として状況を飲み込めないといった顔でそこに立っている。

「もういいんだ…もう…」

「何がいいんだよ」

「もういい、諦める」

「何を」

「いいからついてこないで」

「なんで」

「もうなんでもいいからちょっと帰ってくれよ」

私は立ち上がり内股で歩き出す。向かう先はUの家の裏手の畑、ここを自らの終の場所にしようと考えたのだ。

そこには遮るものは何もなく、私の住む村の景色が一望できた。水無月の青々とした木々が丘の向こうで梢を揺らす。見上げれば空は高く、夏の匂いを微かに含んだ清々しい風が私の頬を撫でた。

「良い天気だなぁ…」

晴天を仰ぎ感慨に耽けるという経験はこれが初めてだった。






「鹿ちゃんの秘密!鹿ちゃんは!Uちゃんちの!裏の畑で!う…」

「おい!言うなよ!」

一部始終を目撃していたTが翌日からこのことをクラスの連中に吹聴することは火を見るよりも明らかではあったが、畑の隅に大便その他を捻り出した私は土下座をしかねない勢いで懇願した。見なかったことにしてくれ、誰にも言わないでくれ、未来永劫忘れてくれと。

「うん!わかった!」

快活な返事とは裏腹に純粋なる悪意と好奇心に満ち満ちたその顔を私は見逃さなかった。案の定翌日からクラス全員の前でTがその日の顛末を繰り返し吹聴しようとしては私がそれを制止する一幕が度々見られることとなった。

「え、俺何も言ってないし」

「う!って言ったじゃん!う!って言ったじゃん!」

「宇宙に飛び立ちました!って言おうとしただけだし」

いくら小学生とは言えどそんな荒唐無稽な話を信じる者はおらず内心誰もが私のおこないを察していた、友人のUも、好きだったあの子でさえも、しまいには担任ですらも。

「やめなさい!鹿ちゃんはただ畑に肥やしを撒こうとしただけです!」

なんのフォローにもなっていないどころか担任のその叱責により私の罪状は白日のもとに晒され、結果として私のガラスのハートは木端微塵に粉砕され、社会的及び精神的にトドメを刺されるに至った。

そのまま翌日には不登校児となっていてもおかしくなかっただろうに、私はそれでも尚登校し、口さがないTの暴挙を糾弾しながら言い訳にもならない言い訳をクラスの一人一人に繰り返した。その甲斐あってか市中引き回し及び磔火炙り晒し首の憂き目に遭うことはなかった。



それから二十年の時を経て、久しぶりに集結した当時のクラスメイト達と飲みに行った際には誰からともなくこの話が出て大盛り上がりとなった。

「あのときはすまんかったなぁ」

などとTがへらへらと謝意を述べたが、それに激高し今一度改めて断固糾弾しようという感情は微塵も起こらず、

「いいよいいよ、今となっては良い思い出じゃないか」

と水に流すことができたとき、大人になるとはこういうことかと私をはじめ、そこにいた全員が思ったに違いない。

私があと十五年かそこら汚点を残すのが後になっていたなら、地元一番の稼ぎ頭になっていたかもしれない。しかしその失態を誰も笑い飛ばすことはできず、腫れ物を触る様な抜き差しならぬ空気の中酒を飲まなければならなかった未来もあったかもしれない。

どちらが良いかはさておきとして、欲を言えばそこにいた全員が稼ぎ頭となり何の遠慮もなく和気藹藹と思い出話に花を咲かせる、というのが考え得る最も望ましい状況であることは間違いない。そのためにはやはり冒頭で述べた統計は早急に改められるべきであることも間違いない。

今を生きるうんこ垂れ少年少女のために、かつてうんこ垂れ少年少女だった大人達のために、ひいては世界中の幸福のために。

「人生の時期を問わず大便を漏らした経験がある者は例外なく高所得である」という統計に改訂されるべきである。でなければ幼き日の私がいつまでも報われないではないか、それは甚だ遺憾である。

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