曇のち雨

「五月メシ行くぞっセイッ!」


 聖のダイビングボディープレスによって強制的に覚醒させられた俺は二・八秒で起き上がるとそのまま奴の足を取り、逆エビ固めに持ち込んで五秒後には勝利を収めていた。

 不思議なことに先ほどまでの陰鬱とした気分は見事なまでに消え去っていたのだが、まるでそれと引き換えたかのようにメチャクチャに腹が減っていた。

 他のルームメイトは先に朝飯に向かったそうで、俺と聖は遅れを取り戻そうと部屋を飛び出しエレベーターに乗ると、食堂のある二階のボタンを激しく連打した。

 しかし、鉄の箱は俺たちをそのまま目的地に送り届けてはくれずに、四階を過ぎたところで突然降下速度を弛めると、三階でそのドアを気怠げに開き新たな乗客を迎え入れた。

「お? 南海と舞ちゃんじゃん。おはよ!」

 聖のカジュアルな挨拶に「おはよっ!」と元気に応えたのは南海だけで、俺と舞は小さく目配せをしただけだった。


 やがてドアが再び閉まると、静かに俺の横にやってきた舞がゆっくりとに口を開いた。

「……おはよう、イツキ」

 一瞬だけこちらを見た彼女は、それだけ言うとすぐに自分のつま先へと目を落としてしまう。

 俺は聖と南海が背を向けているのを確認すると、やはり一瞬だけであったが彼女の頭の上にそっと手を置いて「おはよう」と挨拶を返し、すぐに視線をエレベーターのボタン脇にある行き先表示へと移した。


 二階に到着してドアが開くと同時に、聖と南海が食堂に向かって駆け出して行く。

 残された俺たち二人はゆっくりと歩いてそのあとを追いながらも、一言も会話を交わすことはなかった。

 そこには若干どころではない照れからくる気まずさがあったが、それは昨夜の出来事が夢や幻ではなかったことの証左でもあり、少なからず幸せな気持ちも同居していた。


 朝食は昨夜と同じようにバイキング形式のようだった。

 すでにトレイを手にした大勢の生徒たちが料理が並べられたテーブルの前に長蛇の列を形成している。

 その最後尾に列んで順番を待っていると、不意に上着の裾が引っ張られ、俺は軽くよろめきながら振り返った。


「昨夜はありがとう」

「あ、うん……」

 我ながら何とも歯切れの悪い返事の仕方だろう。

 というのも、彼女の『ありがとう』が闇に紛れて部屋まで赴いたことを言っているのか、それともその後の――なのかが判らなかったからだ。

 何れにせよ、それを彼女に聞くほど俺は愚かではなかったので、適当な話題を持ち出して茶を濁すことにする。

「舞の班って自由行動はどこに行くの?」

「えっとね。ロープウェイとオルゴールと、それにスイーツ!」

 実に女の子らしいプランだが、彼女の班の男子たちがないがしろにされているような気がしなくもない。


 朝食は白米が良かったのだが、用意されていた炭水化物はパンと何種類かのパスタだけだった。

 仕方なくパンを選択し、生ハムやサラダといった普段あまり食べないものと一緒にトレイに載せると、食堂の奥の方の空いているテーブルに腰掛ける。

 少し遅れてやってきた彼女は俺の隣に座ると、行儀よく手を合わせてからカルボラーナをフォークに巻き取りながら、少し小さな声で話し掛けてきた。

「昨夜はごめんね。もし先生に見つかってたら大変なことになってたよね」

 彼女はとっくに巻き取りきっているパスタを皿の上でクルクルと回し続けながら小さく溜め息を吐いた。

「そのリスクを犯すくらいの価値はあったと思ってるから――って、ヘンな意味じゃなくて、舞に会えたことがだよ?」

 彼女はあたふたする俺の姿に手を口に当て笑った。

 そして、過剰なまでに巻き取られたパスタをようやく口に運んだ。

「――あ、これ美味しい。やっぱり北海道のチーズとか使ってるのかな?」

「そうかもね。昨夜食べた北海道産じゃがいものポテサラも異常に美味しかったし」

「あ! それ、私も食べたんだけどすっごい美味しかったよね」

 ほんの十分前にエレベーターで会った時の気まずさが夢であったかのように、俺と彼女は会話を弾ませながら朝食を楽しんだ。


 朝食を取り終えると一旦部屋へと戻り、チェックアウトの準備を始めた。

 今日はこのあと博物館と美術館を見学し、昼過ぎからは班単位での自由行動が予定されていた。

 俺と舞は残念ながら別の班だったので、昼から夕方までは会うことも話すことも出来ない。

 だが、今夜の宿に戻れば就寝までは一緒に居られるだろうし、明日の自由行動は二人で回る約束もしてあった。

 

 キャリーバッグをガラガラと引きながらホテルを一歩出たところで、目に映る町並みのコントラストがやけに低いことに気付き、視線をそのまま上へと向ける。

 その理由はすぐに判明した。

 見上げた空に浮かぶ黒い雲が、地上に届くはずだった陽の光の大半を我が物としていたからだ。

 その様子から、これから天気が荒れるのが確実に思われた。

 すぐ前の道路には数台のトラックが横付けされており、どうやら手荷物以外を今夜の宿へと先に送った上で、美術館までは徒歩で移動するのだという。

 知らない町を歩くのはそれはそれで楽しそうだが、今日はとにかく天気が心配で町並みを楽しむような気分ではなかった。

 折りたたみ傘をリュックの中に入れてはいるが、雨の中を行軍するのが楽しいわけもない。

 もっとも、歩き始めてたった数分で目的地へと至ったことで、幸いにもその心配は杞憂に終わった。


 見るからに歴史のある、石造やコンクリート造の幾つかの建物群すべてが美術館になっているそこには、いかにもといったふうの絵画や陶芸品、それに巨大なステンドグラスなどが展示されていた。

 俺はそういったものにさしたる興味はなかったのだが、ことステンドグラスに於いては曇天の下であったにもかかわらず、息を呑むような美しさを感じずにはいられなかった。

 一通りの展示物を見て回ってから外に出ると、天からは遂に銀色の雨粒が落下し始めてくる。

 本来であれば、この後は事前に決めておいた見学先を班で回ったあと、今夜の宿である旅館へ各自で向かうということになっていたのだが、この天気では少なくとも屋外に見学場所を決めていた班は予定を変更せざるを得ないだろう。


 一旦屋内へと戻って教師の指示を待っていると、今後の身の振り方を話し合っていた小池先生がいつものようにノソノソとこちらに寄ってきて、口の横に手を当てて大声で指示を出す。

「皆さん! ご覧の通りの天気ですので、屋外での活動を予定していた班に関してはこの近くにあるガラス工房にお邪魔してそこを見学をします! 屋内での活動を予定している班は予定通りに行動して下さい! ただし雨脚があまりに強くなるようであれば早めに宿に向かうこと!」

 その指示により、俺の班を含めたクラスの大半はガラス工房に移動することになった。

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