疲労困憊

 ようやく冬眠から目覚めた熊により、合宿開始の号令が厳かになされた。

 続いてテニス部一同が同じ方向へと向かいゾロゾロと歩き出す。

 それは目的地であるキャンプ場まで歩いてたどり着くという、合宿恒例の強歩会が開始されたことを意味していた。

 たかだか三キロ程度の道程ではあるが、肩にはラケット二本とシューズの入ったラケットバッグ、そして背中のリュックには数日分の着替えと雑多な諸々が詰め込まれており、その上に朝とはいえこの真夏の暑さも加わるのだからたまったものではない。


 いつの間にか俺の隣にやってきた聖が、やはり大きな荷物を背負いながら心から気だるそうな顔で話し掛けてくる。

「あれ? 舞ちゃんと一緒じゃないん?」

「ああ。彼女なら女子部員たちと歩いてるんじゃないか。あっち」

 遥か前方を指差す。

 ちなみに女子たちの荷物は顧問の車で現地まで運ばれているので、必然的に彼女らが先行して歩く形になっていた。

「そうじゃなくってお前ら、一緒にいないのなって」

「ああ。俺も舞も公私はちゃんと分けるタイプなんだよ」

「……は? よく言うわ」

 聖はそう言うと背筋を伸ばして笑い声を上げたのだが、それはすぐに溜め息へと変わる。

 再び背を丸めて道路に引かれたの白線を見つめながら、まるで刑務所に収監されようとしている囚人さながらにトボトボと歩き続けた。


 元々まばらにしかなかった民家が一軒も見えなくなると、代わりにブナやナラといった普段はあまり目にしない種類の樹木が道路脇に見え始める。

 それに伴い、頭上からは蝉時雨がこれでもかと言わんばかりに降り注ぎ、もはや会話をすることすらままならない。

 その苦行を乗り越えると、ようやくにして目的のキャンプ場が遠くに見えてきた。


 先に到着していた女子たちはといえば、既に木陰で涼みながらお喋りに花を咲かせており、その姿たるや一般のキャンプ客にしか見えなかった。

 片や俺たち男子は、今まさに命の灯火が消えようとしている行き倒れ寸前の遭難者のようであった。


「それでは、とりあえずロッジに荷物を置いてから三十分後にコートに集合してください!」

 女子テニス部顧問の号令でロッジに移動した俺たちは、重い荷物から開放されるやいなや、板張りの床の上にそのまま突っ伏した。

 しかし、天然木の冷たい感触と香りに癒やされる間もなく、すぐに集合時間になってしまう。

 後ろ髪を引かれる思いではあったが、練習着に着替えるとラケットバッグを肩に掛けてコートへと向かった。


 合宿での練習内容といえば、日々の部活動で学校で行っているそれとほとんど同じだった。

 ただ、学校のコートはグラウンドと同じ砂や土で出来たクレーコートなのに対し、このキャンプ場のそれは人工芝の上に砂が撒かれたオムニコートと呼ばれるもので、その特性はといえばまったく異なる。

 ボールの跳ねる高さや速度の違いもさることながら、摩擦係数が高いのか低いのかすらよくわからないコートの表面は、靴底が滑ったと思ったら次の瞬間には急にグリップしたりと、とにかく疲労の蓄積が半端ではない。

 去年はもっとお気楽イベントだったと記憶していたのだが、それは初めての合宿に胸をときめかせていたことによる補正があったのかもしれない。


 午前の練習が終わる頃には、まるで生まれたての仔馬のように両足をプルプルと痙攣させ、油断をすればすぐにでも足が攣ってしまいそうな有様に成り果てていた。

 それは他の連中も同じだったようで、コート脇では何人かの部員が立ち上がることすら出来ずに自らの足を押さえてもがき苦しんでいた。

 彼らに救いの手を差し伸べるような余力は俺にも残っていなかったので、心の中で軽く手を合わせてから昼食を取るためにレストハウスへと移動する。


 そこはひのき造りの立派な建物で、休憩所であると同時に土産物の販売や軽食の提供もしており、我々の本日の昼食はどうやらカレーのようだ。

 それは肉にA5ランク牛が使われているとかインド帰りのシェフの手による逸品だとか、そういったことなどは全くないただのビーフカレーだったが、炎天下の練習で消耗し切った身体にはこれ以上ないほどのご馳走だった。


 カレーをたらふく食べた俺は、一旦ロッジへと引き上げて体力の回復を図ることにした。

 というのも、午後からの練習は日没後にナイター設備を使って行われることになっており、今から夕方までは基本的に何をしていても自由だったからだ。

 割り当てられたロッジへと戻るとすぐにでも夢の中へと旅立つはずだったのだが、着替えを取り出そうと開けたバッグの一番上に置かれていたスマホに着信を知らせる赤いランプが点滅していた。

 画面を確認すると『不在着信 可愛い彼女こと舞』の表示――自分で登録したわけではない――と、その下に新着メッセージのバッチも点灯していた。

 それも当然彼女からのもので、そこにはただ一言『外』とだけ書かれていた。


「あ、きた!」

 彼女はロッジから出てきた俺の姿を確認すると、すぐ目の前にいるにもかかわらずにブンブンと大きく手を振って出迎えてくれる。

「うんきたよ」

 別に照れでわざとぶっきら棒な態度を取ったわけではなく、俺はリアルにすぐにでも戻って睡眠を取りたかったのだが、同時にそれは叶わない夢だということも薄々感じていた。

「お散歩に行こうよ。イツキはここ、来たことあるんでしょ?」

「去年も合宿はここだったからね」

「じゃあ、コースはお任せします」


 そう言うやいなや俺の腕に抱きつくと、ほんの今任せると言ったばかりなのに俺のことをグイグイと引っ張って歩き出す。

 彼女のことなのでどうせ事前に下調べをしてあったのだろう。

「あっちに川があるみたいだよ」

 ほら、やっぱり。

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