なけなしの勇気

 の飲食代を支払ってから店を出ると、駐車場でたむろしていた彼、彼女らと横並びになり駅へと向かった。

「あれ。南海ちゃん、今日はバスじゃなくて電車なの?」

「うん。あっちの駅でお母さんと待ち合わせをしていて、それからちょっとお買い物に行くの」

 そういえば、以前にもテストの最終日に南海と電車で帰っていたことがあった。

 その時にも母親とランチだったかディナーだったかに行くと言っていたように記憶している。

 夕方というにはまだ些か早い時間ではあったが、空の色は真昼のそれとは明らかに異なっており、茜に至る前の白味を帯びた気怠げな風合いをしていた。

 明日は天気が崩れる予報だったが、少なくとも家に帰るくらいまでは曇り空になることすら無さそうだ。


 善治から目と鼻の先にある駅にはあっという間に到着した。

 中途半端な時間の駅の待合室には人っ子一人おらず、絶賛貸切状態であった。

 南海は改札の近くにあるベンチに腰を掛け、聖は「鍛錬する」とか言いながら、大きく足を広げて立ったままスマホを弄り始める。

 俺はといえば、迷路のように設置されたベンチの一番奥に進むと通学カバンをその放り投げ、その横にドカリと腰を下ろし大きく息を吐いた。

 いつの間にか舞の姿が見えなくなっていたが、通学カバンが南海の横にちょこんと置かれているのでお手洗いかどこかに行ったのだろう。


 やがて改札の向こうから警音器の音が聞こえだし、すぐに二両編成の電車がホームに滑り込んでくる。

 鍛錬を中断した聖はとっとと改札の間を通り抜けて電車の中に消えていき、南海は立ち上がると舞の通学カバンを俺に手渡した。

「私ら先に帰るから。舞ちゃんのことよろしくね」

 呆気にとられて棒立ちとなった俺を残し、二人を乗せた電車はガタンゴトンと駅を去って行ってしまった。


 このまま駅舎の中で彼女が戻ってくるのを待つか、それとも外の世界にその姿を探しに行くべきか?

 持ち前の優柔不断が祟り決めかねていると、制服の上着のポケットに入れてあったスマホがわずかに震えた。

 それは行方知れずとなっている舞からのメッセージを知らせるもので、本文にはたった一言「駐輪場」と書かれていた。


 駅舎を出て左を向く。

 駐輪場はすぐ目の前にあった。

 さして広くないそこに足を踏み入れるとすぐに、こちらに背を向け赤茶色く変色したバラストの敷かれた線路の方を眺めている彼女を見つけることができた。

「舞」

 俺の呼びかけは耳に届いているはずだが、彼女はその長く美しい髪を涼しげに揺らすだけで一向に振り向く気配はなかった。

「舞」

 少しだけ声量を上げ、再びその名を呼ぶ。

 今度はわずかに髪を左右に揺らし、「ちょっと違う」と意味のわからないことを言う。

「岩水寺さん?」

 お寺さんのような彼女の名字を口にしたのは随分と久しぶりだった。

 始業式の日以来だったかもしれない。

 こちらに背を向けているにもかかわらずに、彼女が大きな溜め息をついたのが肩の動きからわかった。

 打つ手の無くなった俺が次手を考案していると、再びポケットのスマホがブブブと音を立てて震える。

 その画面に表示されている文字列を目にした俺は、スマホに続いて自分の身体をもブルブルと小さく震わせた。

(マジか? ……いや、マジなんだろうな)


 十数秒の逡巡を経て、俺はようやく口を開く。

「……俺の自慢の……カノジョの……かわいい……舞ちゃん……?」

 三点リーダーを大いに無駄遣いしつつ決死の思い出絞り出した俺の声は、どうにかこうにか彼女の元に届いてくれたようだった。

 果たして彼女は満面の笑みで振り向くと、白々しく「呼んだ?」と言いながら首を傾げてみせる。

「呼んだよ。ちょっと話したいことがあるからベンチの方に戻ろう」


 相変わらず人気ひとけのない駅の待合室のベンチに並んで座ると、俺は腹を括った。

 それは、今を逃してしまうと自分の本心を彼女に語る機会など、もう二度と訪れないような気がしていたからだったのだが、とにかく俺は横に座る彼女の方に膝を向けると、その端正な作りの顔を正面に見据える。

 まるで黒曜石を思わせる大きく黒目がちな彼女の瞳の中に、耳の先まで紅潮した自分の顔が映っていた。


「さっきは……公園でのことだけど、ありがとう。情けない話だけどもし舞がああでもしてくれなかったら、きっと俺は彼女と付き合うことになっていたと思う」


 俺は今までの人生で、他人からあそこまで真っ直ぐな気持ちをぶつけられたことがなかった。

 ゆえにそれを拒絶する勇気などは、持ち合わせているはずもなかったのだ。

 もし一人であの場所に行っていたら、今頃俺の隣に座っているのは舞ではなく、彼女――豊島さんだっただろう。

「もしそうなっていたら俺はきっとずっと後悔して、彼女のことをもっと傷つけることになっていたはずだから……」

 生唾を飲み込んでから言葉を続けた。

「それに」

「それに?」

 少し俯き気味になっていた俺の顔を舞が覗き込む。

「本当はもっと早く、こんなことになる前に言わなければいけなかったんだけど……。俺、君のことが……」

「君のことが?」

「す……ずっと好きだった。四月の始業式の日に一緒に下校して、先に電車を降りた、あの時から」


 駅の待合室は静寂に支配されていた。

 いつの間にか彼女も俺から顔を背けて改札の方を向いており、その表情を伺い知ることは出来ない。

 駅の出入り口から時折吹き抜ける七月の風が、彼女の黒く長い髪をいたずらに揺らしている。

 改札の上に掲げられた時刻表に目をやると、次の電車の時刻があともう五分ほどに迫っている。

 その前の俺にはもう一つだけ、いや、もう一言だけ彼女に伝えたいことがあった。


 俺は壊れかけた自動人形オートマトンのようなぎこちない動きで立ち上がると、意を決して彼女の正面へと身体を割り込ませる。

 見下ろす形で視線を向けた彼女は、いつも俺に見せてくれる笑顔で――泣いていた。

「こんな俺だけど、今後ともよろしく」

「はい、こちらこそ」


 そんなベタなやり取りを経て俺と舞は今日、恋人同士になった。

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