第20話:『彼の名』は。
『スパイさんの晩ごはん。』
第二章:味噌ほど美味いものは無い。
第六話:『彼の名』は。
あらすじ:マートン大人気。
------------------------------
潰れた竹皮のカップをポケットにしまおうとすると、門番の男は手を差し出してゴミとして受け取ってくれた。小屋の中の将棋盤の下にゴミ箱があり、同じような竹皮のカップや竹串があふれているので、そこに捨ててくれるのだろう。
「美味かったよ。」
「売ってくれた少女に言ってくれ。」
私はたまたま袖を引かれただけなので、礼を入われても売り子をしていた少女の手柄を盗るようで落ち着かない。もっとも、礼を言おうとしても少女にまた会えるとは限らないのだが。
「そりゃそうだ。」
門番の男は軽く手を挙げると自分の小屋に戻り、椅子に立てかけてあったクッションをポンポンと叩き枕代わりに窓際に立てかけた。隣には大きなクマのヌイグルミまである。
「まだなんか用か?」
「門番なのにサボる気に満ちていると感心していたところだ。」
「どうせ誰も来ない。居眠りしたって誰も困りはしないさ。」
居眠りをするのでさえ咎められるだろうに、枕まで用意しているのだ。老将軍の罠だとしても露骨すぎる。是非とも、この男を首にしない訳を知りたい。そして、できれば私も同じように、残業の無い、退屈を持て余して居眠りができるような仕事で給金を貰いたい。切実に。
今は仕事がひと段落ついて休みが取れるようになったとはいえ、残業は続く。それに、あの公爵閣下では残業が長くなる日も遠くなさそうなのだ。
「そうそう、この辺に美味い飯屋はあるか?」
「なんだ。黄な粉豆だけじゃ食い足りないのか?」
実のところ腹はそんなに減っていない。朝から歩いていてとは言え太陽が真上に来るまでには、もうしばらく時間がかかりそうだし、半分以上を門番の男に食べられたとはいえ、黄な粉豆も口にしている。
食事よりも、この屋敷の近くに来る口実を作ろうと考えての質問だ。この屋敷が目標の家で間違いがないなら、この辺りをうろうろしていれば老将軍の顔ぐらいは見られる可能性がある。
不運なことに私の顔は門番の男に知られてしまったので、こっそり老将軍の屋敷を観察するということはできなくなってしまったが、紹介された店が美味かったので礼を言いに来たとでもいえば、またこの男に会いに来ても不自然ではない。
あわよくばアパートの前で日がな一日将棋を指すラディッシュのように、彼と将棋仲間にでもなれれば、門の前に一日座っていても不自然ではなくなるし、老将軍についての色々な情報を聞き出せるかもしれない。まあ、門番が仕事そっちのけで将棋を指していたら不自然ではあるが。
その上で、美味い店が見つかって、腹を膨らませられれば言う事も無い。アパートからは少々遠いが老将軍に関わるならこの辺りに来ることも増えるだろう。
「ああ、朝から少し長く歩き過ぎた。休憩ついでに何か小腹に入れようかと思ってな。ここで仕事をしているならこの辺りに詳しいだろう?」
「ふ~ん。美味い店と言ったら、あそこの壁の向こうに屋根の見える『ツーク・ツワング』がダントツに美味いぜ。貴族だって通うくらいだ。まあ、貴族に関わりたくなくて、気楽に食いのなら普通の食堂もいくつかある。『森の熊亭』あたりがオススメだが、どこに入っても外れはないぜ。」
「そうか。感謝する。」
私は今度こそ名も知らぬ門番と別れて歩き出そうとした。しかし、門番は話を続けていた。
「ああ、でも、今の時間はまだ準備中だろ。『ツーク・ツワング』の少し先にある『旅のうさぎ屋』はどうだ?ここの旦那が毎朝食うほど美味いパンを出すぜ。」
普通にパンを売っているだけの店では足を休める事ができないかと思ったのだが、店内とテラスにテーブルと椅子が用意されていて、店で売っているパンに合わせて、お茶や珈琲も注文できるらしい。
「なるほど、英雄が好むパン屋か。おもしろそうだ。そちらに行ってみよう。」
老将軍が毎朝食べるほど好むのなら、彼と話ができるようになったときに会話の種になる。不発に終わるかもしれないが、知らないよりは知っておいた方が良いだろう。
「シャロットちゃんによろしくな。」
看板娘か女将か、シャロットという売り子が居るのだろう。私は門番に礼を言って今度こそ門を離れた。門番の男に教えられた通り老将軍の家を囲む壁沿いを平民街の方へと進むと、いくつかの店が軒を構えている商店街に出た。
老将軍の邸宅があるので火の心配をしなくて良いからなのか、食料品や布地を扱う店よりも鍛冶屋や陶芸品などの火を扱う店が多い気がする。食堂は準備中の札が掛けられているが、中から下拵えの包丁の心地いい音が聞こえる。
商店街の中ほどにある立派な扉の店が『ツーク・ツワング』で、馬車を停車できるスペースを設けているくらい大きな店だった。門番の男がダントツに美味いと言った店は気になるが、せっかくの休日に貴族と関わりたくもない。私は立派な扉を通り過ぎて3軒ほど先の小さなパン屋に入った。
「いらっしゃいませ~!」
カランカラランと控えめにチャイムが鳴り、店員の少女の明るい声が響き渡る。清潔な店内には昼食には早い時間であるにもかかわらず数人の先客がいて、笑みを溢してパンを選んでいた。
これから来る昼食の時間に備えて店員の少女によって棚に焼きたてのパンが次々と並べられるので、腹は減っていないのに涎が出そうになる。普段利用するどのパン屋よりも、小麦の香ばしい匂いが素晴らしいのだ。
「人に聞いて来たのだが、私にはどのパンが合うだろう?」
「そうですね男の方ですと、こちらのお惣菜を日替わりで挟んだ『勇者パン』を選ばれる方が多いですね。それに今焼きあがったばかりのベーコンのエピも手軽に食べられると好評をいただいています。甘い物がお好みなら『勇者の雲』を挟んだふわふわパンなんかはいかがでしょう?」
すらすらと答える店員の少女は慣れているようで、初めて見た私であるのに条件を絞って合いそうなパンをいくつか教えてくれた。
日替わりだという惣菜を挟んだパンには、艶のあるウインナーと瑞々しい胡瓜と人参を混ぜたポテトサラダが挟まれていて、ベーコンのエピと言うのは、一口サイズに千切りやすいように小麦の穂を模しているのだそうだ。
そして、最後の甘いパンには柔らかい生地に最近よく聞く白い『勇者の雲』が挟まれているようだ。ふわふわとした舌触りが特に女性に好まれ、おやつ感覚で口にできるらしい。店内にいた女性の皿の全てに乗っている。
「それではその総菜パンとエピを。それから、紅茶も貰おうか。」
『勇者の雲』はすでにターニップのスコーンの時に食べさせて貰ったので、私は他の2つを頼んだ。いや、普段なら3つくらいは食べられるのだが、この後に他の食堂を選んで昼食も食べるつもりなのだ。
この店に来た目的は、老将軍の屋敷を窺う口実に使える場所を探す事。ここのパンが美味ければ何度も通うことになるし、他にも通える店を見つけておいて損はない。小麦の香りが満ちた店内の客の笑顔を見れば、すでに通うに値しそうだと予感させてくれているのだが。
「こちらでお召し上がりですか?」
「ああ。」
「ところで、先ほど紹介されたと仰っていましたが、差し支えなければ、その方のお名前を教えては頂けないでしょうか?」
紹介した人物に覚えがあれば、次に来店した時にサービスでひとつパンを渡したいのだそうだ。
私も常連になって誰かを紹介すればパンをひとつ貰えるそうなのだがが、『千鳥足の牡牛亭』の面々を紹介できるはずは無いし、この店まで遠いのでアパートの知り合いやターニップは難しい。なので、王宮の同僚くらいしか思いつかなくて条件はいささか厳しいが。
だが、私には難しい条件でも今回は毎朝のようにパンを食べるという屋敷の門番をしている男だ。屋敷の使用人が買いに出ているのか配達を受け取っているのか知らないが、まったく面識がないと言う事も無いはずだ。
私は馴れ馴れしくへらへらと話していた門番の顔を思い出す。ついさっき会ったばかりなので鮮明に思い出せる。門番にしておくのが心配になるような話し好きで居眠りをしたがる陽気な男だった。すぐに名前も思い出せるだろう。
「どうしたんですか?都合が悪ければ仰らなくても大丈夫ですよ。」
言葉に詰まった私に店員の女が不思議そうな顔をする。それまでは流暢とは言えないまでも時間差無く話していた相手が急に黙り込んだのだ。不思議に思って当然だろう。だが、私はすぐに言葉を見つける事ができなかった。
「ああ、いや。」
あれだけ門番の男を利用することを考えていたのに、彼の名前を聞きそびれていたことにやっと気付いたのだった。
------------------------------
次回:ゴリゴリと回る『魔道具』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます