できれば気づきたくなかった、でも私は気づいてしまった

玖蘭サツキ

悪寒とスーツ男


 私はごく普通のどこにでもいるような高校2年生。お父さんとお母さんと共に暮らす一軒家から、私鉄の線路を挟んで歩いて20分くらいのところにある公立高校に通っている。


 部活には――今は入っていない。1年生の時は書道部に入っていたけど、すぐにやめた。辞めた理由は、原因不明の体調不良。それは突然、私を襲ってきたのだった。


 高校に入学してひと月ばかり過ぎた頃、私は部活用の道具一式を家に忘れてきてしまった。最初は、近所だし取りに帰ろうかと思っていた。だが、真面目で厳しい先輩がそれを許してくれなかったのだ。


 私は部室に置いてあった古い筆を借りることにした。筆先はカチカチに固まってしまっており、お湯につけてほぐさねば使い物にならなかった。


「こんなことをしている時間があるならば、一度家へ戻って自分の筆を持ってきた方が楽なのに」


 なんてことは言えない気弱な私は、ちゃぷちゃぷと筆にお湯を通していた。


 その時のことだった。


 背筋に何か寒気のようなものを感じた。給湯室には、私以外に誰もいなかった。なのに、何故かどこからか視線を感じる。


 恐ろしくなって、思わず古い筆から手を離す。すると、途端に寒気はスーッと身体から抜けて消えてなくなった。しかし、その日から私は定期的に寒気と視線を感じるようになった。体調を崩す日も増えていった。


 私は書道部を辞めた。


 そして、今に至る――





 ある日、私はいつものように学校の授業を終えて、そそくさと家に帰ろうとしていた。学校と自宅の間には私鉄が通っていて、通学路のちょうど中間地点に駅がある。その横には、大きな踏切があった。


 商店街にも繋がる駅付近の踏切は、いつも大勢の人が町の南北を行き来するために利用していた。


 私は北側にある学校から南側にある自宅へ帰るために、いつものように踏切を渡っていた。その時、いつもの寒気が突然襲ってきたのだ。しかも、いつもより重く、鋭い視線と共に。


 思わず私は踏切の真ん中で立ち止まり、周囲を見渡した。そのうち、カンカンカンという音が鳴り響き、踏切の遮断機がゆっくりと降り始めた。


 我に返った私は、あわてて踏切を渡り切ろうとした。その時、線路上に立つ人影を目の端で捉えた。驚いて、踏切を渡り切る前に、再び立ち止まってしまった。確かに、線路の上にスーツを着た男性が立っていたのだ。


 不審に思ってじっと見ていると、男性はハッとした表情を浮かべつつ、私と目を合わせた。そして、今にも泣きそうな顔をしながら、一歩、また一歩と私の方へ向かって歩きだしたのだ。


「お嬢ちゃん、早く渡らないと危ないよ!」


 既に踏切を渡り終えていた腰の曲がったおばあさんが私に向かって叫んだ。びっくりして、おばあさんの方を見る。そうだ、早く渡らないと。


 いったん踏切を渡り終えた後に、振り返ってもう一度線路の方を見た。しかし、線路の上にはもう誰もいなかった。踏切を渡り切ったのかと思い、周囲を見渡したが、スーツを着た男性はどこにもいなかった。


 悪寒が再び私を襲う。


 胃が酷く痛む。まるで体内で何かが暴れ出したのかと錯覚するような、重く苦しい痛みに襲われた。私は何を見たの? わからない。

 私は急いで家に帰って、2階にある自室へ閉じこもり、そのまま布団をかぶった。身体を守るように、心を守るように、布団の中に身を隠したのだ。


 気が付くと、夜になっていた。いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。


 腹痛は収まっていたが、今度は頭が痛む。悪寒はまだ抜けていない。


「なんなのよもう……」


 ふと、時計を見る。


 0時過ぎ――両親はもう寝ている時間だろう。


 少し苛つきも覚えながら、私は何気なくカーテンを開けて窓から外を見た。


「…………うそ」


 私がカーテンを開けた瞬間、人影がぬぅっと電柱の裏から顔を出したのだ。何かがいて、こちらを見ている。


 その正体は昼間に踏切で遭遇した、線路上に立っていたスーツ男だったのだ。


「なんで、なんで……」


 私はすぐにカーテンを閉じ、急いで玄関に向かった。戸締りを確認する。よかった、ちゃんとカギは閉まってる。


「どうしよう、通報するべきかな」


 でも、こんな時間に警察なんて呼んだら近所迷惑だよね。自意識過剰かも――


ドン! ドドン! ドン! ドドン!


「ひっ……」


 家の戸が乱暴に叩かれた。呼吸が止まりそうになる。足が震える。


 玄関ののぞき穴から見てみようなんて思いは1ミリも沸いてこなかった。


 ガチャリ。


「え、なんで」


 カギが開いた。扉が開く。大きな人影が家の中に入ってくる。


 私は、私は、私は――





「や、いや、いや……」


 全身汗びっしょりで目を覚ました私は、自分の部屋の布団の上にいた。制服のまま――そうだ、昨日学校から帰ってそのまま寝てしまったんだ。


 その後、悪い夢を――


「そうだ、家の中にあの男が……」


 夢だ、絶対夢だ。私が今布団の上にいるのがその証拠だ。


 もういい、さっさとご飯を食べて、学校に行こう。


 シャワーを浴びて、シャツを替える。リビングルームへ行くと、既に両親が起きていて、朝食の準備をしてくれていた。コーヒーの良い香りが部屋中に漂っている。


「おはよう、今日は早いね」と、お父さん。


「おはよう、お父さんお母さん。ちょっと怖い夢見ちゃってね」


「ほら、さっさと食べなさい」と、お母さんがトーストを乗せた皿を私の前に置きながら言う。


 私はそそくさと朝食を済ませ、玄関に向かった。


「誰もいませんように」


 そう祈りながら、私はそーっとドアを開けた。たぶん、誰もいない。ふうと息を吐き出しながら、スクールバッグを持ち直しつつ外に出た。


 その時、例の悪寒が私を襲った。


 同時に、電柱の裏からスーツの男が薄ら笑いを浮かべながら顔を出したのだ。


 すぐに逃げようと思ったけど、なぜか足が動かない。なんで? 怖いから?


 私はドアが閉まり切る前に、はち切れんばかりの大声を出した。


「お父さん! お母さん! 助けて!」


 すると、ばたばたという足音がして、両親が駆け付けてくれた。


「どうした、何があった!?」と、お父さん。


「どうしたの、大丈夫?」と、お母さん。


 その間も、薄ら笑いを浮かべるスーツの男はゆっくりと私の方へ向かって近づいてきている。


「この人、夢に出てきたヤバい人! 早く通報して!」


 目の前を指さしながら、私は必死に訴えた。でも、お父さんとお母さんは、スーツ男の方をじっと見つめた後に、互いの顔を見合わせて首を傾げた。


「何言ってるんだ、誰もいないじゃないか。ふざけてないで、早く学校へ行きなさい」


 お父さんはそう言って、家の中へ戻ってしまった。呆れ顔を浮かべたお母さんも、一緒に戻ってしまった。


「なんで、なんで、もしかして、見えてない?」


 スーツ男はすぐ目の前まで来ていた。


 薄ら笑いで私の目をじっと見つめている。


 私は動けなかったし、声も出せなくなっていた。


 その時、スーツ男が初めて口を開いた。


「……あり、」


「…………?」


 何を言いたいの?


「ありがとう」


 スーツ男の声がはっきり聞こえた。そして、ひとつ瞬きをした後には、もうスーツ男はいなくなっていた。悪寒も収まっていた。身体も動くし、声も出るようになっていた。


「何の……ありがとう……?」


 わけがわからなかった。結局、その日は学校を休んだ。でも、翌日からは普通に学校へ行き始めた。普通に、いつも通りの生活に戻ったのだ。


 でも、悪寒がなくなることはなかった。特に、踏切を渡るとき、電車に乗って大きめの町に行ったときは強い悪寒に襲われることが多かった。それと、学校でも――


 スーツ男と遭遇して以来、私は悪寒に襲われても絶対に周りを見ないようになった。特に、人の顔は見ないことを意識した。


 きっと、何かの拍子に、私と彼らの間につながりができてしまったのだろう。きっと、彼らは普段から人々に混じってそこにいるのだろう。


 見えていない人には見えていないだけ。いや、見えていないと思い込んでいるだけで、実は見えているのかもしれない。


 ただ、彼らは待っているのだ。かつて、そこに彼らが存在したということを知って欲しいだけなのだ。人知れず去った、自己の存在を承認してほしいだけなのだ。


 彼らは今日も、自分を見つけてくれる人を探している。既に見つけてしまったかもと思う人は、一度外を見てみるといい。


 きっと彼らは、貴方に会いに来ている――

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できれば気づきたくなかった、でも私は気づいてしまった 玖蘭サツキ @yusagi_s

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