恋とはどんなものかしら

黒井ここあ

憂うる瑠璃の君

 革靴の踵が梁天井へ静かに響く。

 足音の主はすらりとした肉体に藍色の装いをまとう少年だ。薄い唇を引き結んだ相貌はどこか儚げな美しさを湛えていたが、きりりと跳ね上がった睫毛がその印象を拭おうとしている。歩みと共に軽やかに揺れる海色の髪は、彼の貴い血筋の証であった。

 ゴシック様式の大聖堂、その祈りの中心たる、かの十字架の前で少年はそっと長い脚を折りたたんだ。両の手指をその胸板の前で組むと頭を垂れた。

 敬虔な神徒であれば、誰でもそうするであろう姿勢だ。

 彼を、ステンドグラスが古の彩りで見下ろす。


「……主よ……。私の罪を――」


 お赦し下さい、とは言えず、海色の前髪の下で彼は押し黙った。

 そう言えば、彼の心に初めて芽生えた暖かな感情を否定することになりかねなかった。

 大聖堂に満ちる永遠のような静寂が少年を押しつぶそうとする。

 ――いいや。今日こそ、私は私の罪と向き合う……。そのつもりで足を向けたのだ。ここで怖気づく男か、私は。それでも世継ぎの王子、フランツ・フェルディナントか。

 唇を噛むこの少年こそ、その端整さから「瑠璃の君」と名高い王子、フランツだった。

 幼い従妹を婚約者に持ち、二人の弟だけでなく国民にも慕われるフランツは今、他人に口外できない秘密を抱えていた。

 誰も、清廉潔白を体現したような彼に隠しごとがあるなどとは思うまい。

 だからこそ懺悔という時間が彼に必要だった。

 少年は言葉を紡ぐため、再び息を吸い込んだ。


「……主よ。なぜ、私に愛という試練をお与えなのですか。なぜ、あの男を私へ遣わしたのですか。彼は、私にとってのメシアになるとでも……」


 フランツは答えを求めんと救世主の胸を仰ぐ。


「……愛ゆえに命を落とされたあなたのお気持ちが、私にはまだ――」


 ぎい、と扉が軋む音に、フランツは言葉を飲みこんだ。


「おお……! やっぱり中も広いな……!」


 いきいきとしたバリトンが静謐な空間に似合わない。

 フランツは肩をいからせて立ち上がり、声の主を振り返った。


「お前という奴は! 外で待っていろと言っただろう!」


 咎めるテノールが天の裁きのようにぴしゃりと叩きつけられる。


「だから、待っていたじゃないですか。いつまでたっても出てこられないから心配になって。それに、護衛が傍にいなくてどうするんですか、殿下?」


 俺はまっとうで正しい、と主張しながら主君へ近づくのは、王子の騎士、ヴィクトール・ローランだった。

 フランツ自身、一八〇センチメートルの身長を持っていたが――これはまだまだ序の口だぞ、と父王に言われるくらい、この家系は長身を誇っていた――、そんな彼でも、一九五センチメートルを誇るヴィクトールのことは見上げねばならなかった。

 彼はほとんど黒と言ってもよい茶色の髪を無造作に伸ばしていたが、公務中ということもあり後ろで一つに束ねていた。その瞳は夜闇の色だ。そこにふとした思いつきの星々を浮かべるのを、フランツは知っていた。そして、褥では切なげな炎を宿すことも……。

 長身に見合う屈強な肉体を持つこの男こそ、フランツの恋人だった。これこそが、瑠璃の君の秘密に他ならなかった。

 恋しているのは自分だけかもしれない、と王子は自嘲する。

 そう思えば思うほどに、彼へ辛く当たってしまう。それはフランツの本心からかけはなれていた。


「お、お前がいけないんだからな……」


「いけない、っていうのはどういうことです?」


 きょとんと瞬きを繰り返すヴィクトールが小憎らしい。

 ――こいつはいつもそうだ。わかっていながら敢えて問うているに違いない。一々、人を煽る。それも笑顔でだ。

 フランツは形の良い唇を尖らせる。


「とにかく! 放っておいてくれ! 数分も我慢できないのか? これだからお前のような色欲魔は――」


「できません」


 ちゅ、とふいにキスが贈られて、フランツの顔が耳まで朱に染まる。


「デートに出かけておいて、いつまでも放っておかれる俺の気持ちにもなってみてください、フラン」


「だ、誰がデートなぞ……! それから女みたいに呼ぶのは止めろと何度言えば……! 誰かが聞いていたらどうするんだ」


 これも、逆だ。

 フランツは、自分を自分として認めてくれるヴィクトールから愛称を呼ばれるのを少なからず喜んでいた。しかしその本心を羞恥心が上回るのだ。

 それを知ってか知らずか、騎士は主君の細い腰を抱き寄せた。


「聞かせるまでです。そうすれば、あなたの嫉妬も晴れるでしょうし」


「嫉妬などするものか――!」


 豊かな唇が、フランツの言葉を奪った。

 驚きに見開かれた空色の瞳が、恥ずかしさでぎゅっと閉じられる。

 しっかりと抱きすくめられて逃げられないのに抗い、王子は騎士の胸板に拳を打ちつける。音はぽむぽむと、少し力ない。

 ヴィクトールはと言えば、そのお仕置きとばかりに大きな舌でフランツの唇を割り、次に歯までも割った。

 きっかけこそ強引だったが、王子の長い舌にたどり着くと、騎士は包み込むように舌を絡ませてきた。

 舌先でちろちろと舌下をなぞったかと思いきや、上あごをそろりそろりと舐めてくる。急に激しくは求めまいと努力するような舌使いに、彼の思いやりが垣間見れるようだ。


「んんっ……!」


 騎士から与えられる刺激に、王子は全身を震わせた。

 少年の背筋を駆けあがるぞわぞわという悪寒は決して不快なものではないのだが、体のあちこちに種火をつけるという点で厄介なものだった。疼きだすからだが無意識に、腰をこすりつけてしまうほどには。

 フランツの意図と反してあふれてくる唾液があればすすり、喉を鳴らす。

 ヴィクトールは、文字通りにフランツの口腔を味わっていた。


「ふ……! んむ……」


「ん……」


 昂ってきたのか、騎士は大きくとがった鼻から嬉しそうな声を漏らす。

 湿ったキスの音と押し殺した声とが、大聖堂の空間を桃色に染め上げるような錯覚を覚え、フランツは騎士の唇から逃げた。


「はぁ……はぁ……。これで、満足したか……?」


 赤く濡れそぼる唇もそのままに、王子が文句を並べる。掠れた声音と上気した頬で、まるで説得力が無かったが。


「お前ときたら、私が言うことを終いまで聞かずに、これだ。何かにつけてすぐに、く、口づけたりして、恥ずかしくはないのか。それともお前に恥という概念はないのか!」


 今度は、残念そうに凛々しい眉を傾ける騎士が口をとがらせる番だった。


「それは、だって、あなたが可愛らしいから――」


「その、可愛い、という言葉こそ私に相応しくないと、いくら言えば――」


「俺の言うことは無視ですか」


「聞き届けているから、こうして返事をしている」


 王子の噛みつく声も、騎士の真摯な答えも。その全ては天高くつりさげられたシャンデリアが見守っていた。もちろん、愛ゆえに十字架に果てた救世主の偶像もだ。


「じゃあ、きちんと受け止めて下さい」


「何をだ」


「俺が、あなたを、この世で一番可愛い人だと思っていること」


 オニキスのように濁り無い瞳が、フランツを貫く。


「愛する人に可愛いと言うのは、おかしいことですか」


「……っ」


「俺は、あなたを愛しています、フラン。あなたもそうだったらいいなと、思っていますが」


 フランツは、嫌いだった。

 彼のこの、素直さが。


「黙っていたら、イエス、ということにしますね」


 強引さが。


「……じゃあ、いただきます」


 伏せた睫毛の長さが。


「ん……」


 羽のように優しいキスが。


「……ふふ」


 そしてキスのあと、心底嬉しそうにほほ笑んで、きつく抱きしめてくるのが。

 世継ぎの王子、皆から瑠璃の君として高根の花の役割を与えられている彼にとって、人間らしい暖かな抱擁はこの上ない癒しだった。

 ――私も、もっと素直になれたらとは、思っているのだぞ。

 フランツはそっと自嘲する。

 自分を欺くことこそが、彼にとって大いなる罪に値した。


「ヴィクトール……」


「はい?」


 剣を振るうために筋肉がついた、がっしりした体躯に彼の豊かなバリトンが鳴るのを、フランツはその胸で聴きとった。

 うっとりとしたためいきの代わりに、恋人の大きな耳にささやく。


「……私だけのものでいてくれ……」


「……!」


 いったいどんな顔をしているのだろう、とフランツが体を離す。しかし、騎士の顔をまじまじと見る時間は、情熱的な口づけによって奪われてしまった。

 先ほどよりも長きにわたって口腔内を蹂躙されたフランツが、何度目か唇を尖らせる。


「ヴィクトール……」


「す、すみません、フラン! 嬉しくて、ちょっと自分が抑えきれなくて……!」


「そのようだな」


 そう詫びる口元がだらしなく笑っているのを、王子は見過ごさなかった。

 ――でも。

 目前のヴィクトールの顔が、驚きに見開かれた。

 フランツにはその理由が皆目見当もつかなかったが、この国の民、そして彼の恋人ならば一目瞭然だった。


「お前の好きにしたらいい」


 ヴィクトールの眼と鼻の先で、瑠璃色の高根の花が笑顔を咲かせたのだから。


*****


 大聖堂の外は賑やかだ。それもそのはず、マーケットを物色した人々がこぞってカフェを目指して歩く時間だったから。

 ヴィクトールは口元を手の甲で拭って言う。


「フラン、もういいんですか?」


「外だ。殿下と呼べ」


「殿下、懺悔は終わったんですか」


「ああ」


「主には、なんて告白したんです?」


「……」


「愛の告白なら、俺にしてくださいね」


「誰がするか!」


「ああ、怒っても可愛い」


「はあ。全く解せぬ。なぜ、お前のような奴を主は遣わしたのか……!」


「えっ。俺のことをお話ししてくだすったんですか? 俺、愛されて――」


「自惚れも大概にしろ」


 三時の鐘の音と共に大聖堂の機械仕掛けの人形が踊る。

 二人はそれをそっと見上げると、肩をすくめあった。


「ところでチョコレートのお返しはしたのか、色男よ」


「それが、まだで」


「奇遇だな。私もだ」


 そう言うと、二人の男は肩を並べて街並みへ歩き出した。

 長身の騎士に守られた、世継ぎの王子。

 この、よく目立ち、そして絵になる二人が菓子店で目撃されるのは、また別のお話し。

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恋とはどんなものかしら 黒井ここあ @961_Cocoanna

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