満月の祝宴

春名トモコ

満月の祝宴


 断崖絶壁に囲まれた、絶海の孤島。それがぼくたちが暮らす島だ。

 島の東側には、外海からは分かりづらい小さな入り江があって、奥には三日月型の砂浜が広がっている。その砂浜は島民が安全に海に近づくことができる唯一の場所であり、『祝宴』の会場でもあった。

 祝宴は、夏至と冬至、それぞれの日を過ぎて最初の満月の夜に開かれる。今夜はその、夏の祝宴の日だ。

 砂浜におりるには、崖に刻まれたつづら折りの坂道をくだるしかない。どれだけ月夜が明るくても夜は危険な道だ。ぼくは弟のチカルの手をしっかり握り、ぞろぞろと続く島の人たちの列に交ざって、足を踏み外さないよう慎重に歩いていた。

 浮足立っているチカルを落ち着かせるのは大変だった。でも飛び跳ねたい気持ちは分かる。ぼくだってチカルぐらい小さな時は、この日が楽しみで楽しみで、何日も前から眠れないぐらいだった。

 長い坂道をくだりきりようやく砂の上に立つと、チカルはすぐに年の近い友だちのところへ駆けていった。

 砂浜の真ん中には羊毛の絨毯が敷かれ、海鳥の羽根を詰めたふかふかのクッションがいくつも並べてあった。大きな籠には、子どもたちが森で集めてきた果物が美しく積み上げられている。その隣に蜂蜜や果実酒の樽、草花や鳥の図案をあしらった木工品、薬草を煮詰めて作った薬などが並んでいた。すべてぼくたちから友人への贈り物だ。

 足の悪いセリばあが時間をかけて下りてきて砂浜に島民が全員そろうと、みんなで海の方を向いて並び、ぼくたちは招きの歌をうたった。

 水平線の上に満月が浮かんでいた。とっぷりと黒い海の上に金色に輝く道がゆらゆらと伸びている。

 しばらく歌いながら海面を見つめていると、波間にぽつぽつと青白い光が灯った。涼やかな光はみるみる海面を埋め尽くし、やがて入り江全体がやわらかな青色の光に染まる。

 抑えきれない期待と興奮で、みんなの顔に自然と笑みがあふれていく。何度経験しても、この瞬間が一番胸が高鳴った。

「アキ」

 気がつけば、ぼくのとなりにはシェリルがいた。冷たい指をそっと絡ませてきたぼくの恋人は、期待するような、試すような目でぼくを見てくる。

 シェリルの艶やかな髪は、いくつもの真珠と珊瑚を絡ませながら複雑に編みこまれていた。裾の長いドレスは夜光貝のように虹色に揺らめく遊色を浮かべている。海の精であるシェリルの身体は陸では半分透けていて、輪郭が月の光に縁取られきらめいていた。

「ホシゾラウミウシみたいにキレイだ」

「なんだか言わされているみたい」

 そう言いながらもシェリルが嬉しそうに笑ってくれたので、ぼくはほっと胸をなでおろす。前の祝宴のときは、おしゃれをした女の子を褒めないなんて最低と怒られたのだ。

 砂浜にはシェリル以外にもたくさんの海の精が姿をあらわしていた。ぼくとシェリルは祝宴の日だけでなく、満月のたびに毎回ここで会っているけれど、ほとんどの人たちにとっては半年ぶりの再会だ。みんな満面の笑顔で久しぶりに会えたことを喜んでいた。

 島で暮らすぼくたちと、入り江で暮らすシェリルたちの遠い祖先はもともと同じだったという。陸と海に分かれたぼくたちは、こうして贈り物を交換し、交流をずっと続けてきた。

 島からの贈り物のとなりには、黒々とした海草やたくさんの魚介類、美しい夜光貝や珊瑚に真珠、それに真っ白な塩の山があった。それぞれの長が昔の言葉で感謝を述べ合い、ぼくたちはそれを輪になって見守る。

 堅苦しい儀式は最初だけだ。あとは楽器の得意な者が即興の演奏で場を盛り上げ、ぼくたちは一晩じゅう歌い踊り、おしゃべりした。

 浅瀬にはたくさんのイソギンチャクがカラフルな花畑のように広がり、夜光虫が海水を青白く光らせ、海蛍が入り江のまわりをゆらゆらと飛び交っていた。この景色の中にいるといつも頭がふわふわしてきて、ぼくは今、幸せな夢を見ているんじゃないかと思ってしまう。

 島民と海の精の特別な交流に『祝宴』という呼び名をつけたのは、ぼくのひいおじいさんだ。


 ひいおじいさんは外の世界から来た人だった。大きな嵐が去った翌日、ぼろぼろの板切れと一緒にこの砂浜に打ち上げられていたらしい。 

 島の周辺は天候が荒れやすく、潮の流れも複雑だ。島は岩礁で囲まれているため船は容易に近づくことができないし、島から出ていくのも命懸けだった。だからこの島はずっと世界から完全に隔絶されてきた。

 それでも十数年に一度、嵐に飲み込まれた船や残骸が入り江の中に入ってくることがあった。船の乗員は全滅していることもあったし、奇跡的に数名生きていることもあった。

 板切れ一枚と共に流れ着いたひいおじいさんは植物学者だった。一命を取りとめた彼は、この島固有の生態系に夢中になり、植物に限らず、生物や島民の生活様式などありとあらゆるものを観察しスケッチした。

 はじめはいつか国に戻り、この島のことを発表するつもりだったらしい。けれど彼が島を出ていくことはなかった。手段がなかったからではない。たとえ安全に帰国できる方法があったとしても、彼は迷わず島に残ることを選んだだろう。

 ひいおじいさんはこの島と、島民を深く愛していた。そしてこの島の人間になることを心から望んだ。

 彼には海の精が見えなかった。入り江を満たす青い光も、海蛍も目に映らなかった。ひいおじいさんはそのことを最後まで残念がっていた。


 ぼくとシェリルはみんなから少し離れた岩場にふたり並んで座っていた。

「話は聞いていたけど、……ずいぶん、減ってしまったのね」

 シェリルは砂浜をぐるりと見渡して島の人たちを確認すると、悲しそうに眉根をきゅっと寄せた。ぼくは震えてしまう指に力を入れる。

 半年前の祝宴から、島民の数は半分に減っていた。ほとんどの人が、自分からこの島を出て行った。……兄のカイトもその一人だ。

 世界から隔絶されているこの島は、何もない。

 あるのは小さな森と、わずかな耕地。羊たちと、飛来してくる水鳥だけだ。だけどぼくたちは、自分がどれほど不便で退屈な暮らしをしているのか、最近まで知らずに生きてきた。

 知らないあいだは平気だったのに、知ってしまったら、もう前の自分には戻れなくなった。ぼくはチョコレイトやキャラメルの味を知ってしまった。発作のように、もう一度あの全身がとろけてしまうほど甘いお菓子を口にしたいと思ってしまう。誘惑はあまりにも強烈で暴力的だった。

 ひいおじいさんは、世界が、ぼくたちの島を見つけてしまう日が来ることをおそれていた。彼は分かっていたのだろう。外の文明が流れ込んで来た時、ぼくたちが今のままではいられないことを。

 その一方で、これからも周辺の荒海が島を守ってくれるのではないかという期待も持っていた。苦労してまで上陸する価値などない小さな島、そう認識されている間は大丈夫だろうと言っていた。

 だけど、完全な外の世界は、ある日突然空から舞い降りてきた。


 わあっと歓声があがり、ぼくとシェリルは同時に海の方を見た。

 まるで月が墜落したかのように、入り江の奥が黄金色に輝いていた。穏やかな潮風の中で何かが空気を震わせている。

 鯨の歌だ。

 今まで聞いたことはないはずなのに、なぜか分かった。ぼくの中に流れているこの島で生きた人たちのたくさんの記憶が、共振したのかもしれない。シェリルの反応を確かめようと隣を見ると、彼女は目を大きく見開いて、驚いた顔で海を見つめていた。

 その時、海が強く輝き、爆音と共に見たこともないほどの巨大な光のかたまりが入り江の奥で飛び上がった。豪快な水しぶきが宝石のように夜空にきらめき、光の鯨は悠々と宙に浮く。

 ああ、と砂浜にいる人たちから感嘆の声がもれる。鯨はゆっくりと落下し、巨体を叩きつけるようにして海に戻った。

 海面が大きく揺れ、鯨のまわりに満ちていた金色にけぶる光の靄が大きな波となって砂浜へ押し寄せてきた。逃げ出す者は誰もいなかった。それが自分たちを傷つけないことをみんな分かっていた。

 砂浜に到達した金色の波は、腕を広げるようにふわっと上に伸びあがり、そのままぼくたちを丸ごと飲み込んだ。光の靄はあたたかく、穏やかな午後の日差しの中で微睡んでいるような心地よさが胸に広がった。

 波が引くように光は消え、入り江は青白く輝く祝宴の会場に戻った。

「かみさまが、お別れを言いに来たんだね」

 シェリルが泣く寸前の目で笑顔を作る。

 のどが詰まって何も言えなくなった。朝からずっと、ぼくの胸は破れてしまいそうだったんだ。


 ひいおじいさんが恐れていた外の世界の人たちは、海ではなく空から舞い降りてきた。

 彼らはぼくたちの「原始的な」生活様式に驚き、今の世界の常識を教えてくれた。彼らの贈り物は、何も知らないぼくたちを驚嘆させた。「文明」の虜になった島民は、特に若い人たちから次々と島を出て行った。……それでも、この島に残ることを選んだ人も半分はいたのだ。

 「戦争」というものがもうすぐ始まるのだと知らされたのが、前の新月の日。この島に「軍事施設」を設けるため全島民の強制移住が決定したとのことだった。

 ぼくたちが知らないあいだにこの島はどこかの国に領有され、ぼくたちの知らないところで決まったことに、逆らうことができなくなっていた。

 全島民の即退去を命じられたが、みんなで必死に頼み込んで、なんとか祝宴が終わるまで島に残ることを許された。ぼくたちは明日、島を出て行かなくてはならない。

 シェリルと会えるのも、今夜で最後だ。


 この島を出て行くぼくたちは、この入り江に残るシェリルたちは、これから無事に生きて行けるのだろうか。

 どうしてぼくたちは、今のままではいられないのだろう。


 ぼくとシェリルはぎゅっと手を強く握った。

 もうすぐ、最後の祝宴が終わる。

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