第3話 運命の日の朝 2

「おはようございます、お姉様!」

そう言って、香世に抱きついて来たのは弟の龍一。


樋口家の長男であり、

春から尋常小学校に通う事になっている、

樋口家に産まれた待望の跡継ぎだ。


香世の家はかつて由緒正しき貴族であった。


しかし、父が投資に失敗し途端に没落の道を辿った。


元々体が弱かった母は、

龍一を産んだ後、

産後の肥立ちが悪くみるみる痩せ細り、

龍一の2歳の誕生日を迎える前に亡くなってしまった。



その為、香世が母代わりとなって小さな弟の世話をして、女学校時代は慌ただしく過ぎて行ったのだ。


周りの同級生は許嫁の話やお見合い話しに花を咲かせ、素敵な殿方を見てはキャーキャーと囃し立ていた時、

香世は1人龍一のオムツ替えに勤しみ、


何のときめきも素敵なエピソードもないまま、女学校を卒業したのであった。


その頃から父の会社は悪化の一途を辿り、

それをどうにか取り繕おうと、

大きな投資の話しに手を出した父は資産をも使い果たしてしまう。


別荘と土地を売ってなんとか会社は倒産せずに残ったものの、自転車操業で耐えている状態だ。


樋口家の生活も途端に貧しくなり、

家の家財を売ってなんとか凌いでいたが、


今年に入って2年前にお嫁に行った姉は離縁をされて戻って来た。


姉は正真正銘のお嬢様だった。


家事の一つも出来ず、

着替えさえも人の手を借りなければ出来ない箱入り娘だったから、実家の価値が無くなった今、三下り半を突き付けられたのだ。


生憎、子には恵まれなかったから離縁というのは簡単なもので、

身一つで一緒について行った乳母と共に

人力車で帰って来た時は、流石に香世も呆気に取られたものだった。


「龍一ぼっちゃま。

男子台所に入るべからず、ですよ。

さあさあ、居間でお行儀良く待っていて下さいな。」


マサが香世に抱きついて離れない龍一を、

なんとか抱き上げ居間の方へ連れて行く。


「嫌だ!お姉様、今日いなくなっちゃうんでしょ。僕が連れて行かないでってお願いするんだ。だから、絶対、香世姉様のお側を離れないんだ。」


龍一はマサの腕から逃げようとバタバタする。


「龍ちゃん、そんなに暴れては危ないわ。

じゃあ、姉様とお歌を歌って遊びましょ。

マサさん、悪いけど後をお願いします。」


「かしこまりました。」

マサは龍一を下ろし台所に戻って来る。


香世と龍一は手を繋ぎピアノがあった部屋へ行く。


かつて、母が愛したピアノは1週間前に父によって質に出されてしまった。


日に日に寂しくなっていく室内を見ると、

家財を売ってまでしないとお金が無い事が目に見えて分かる。


それでも龍一は元気よく、『さくら』の歌を歌い始める。


どうか、龍ちゃんだけでも幸せであって欲しいと香世は願って止まない。


父が起きて来て姉ものんびりと起きて来たので、マサと2人朝食の配膳をする。


洋館風に建てられ樋口家はテーブルと椅子で食事をする。


配膳が終わり父の合図で手を合わせてから、朝食を食べ始める。


今日の朝食はアジの開きに、お味噌汁、お新香に麦ご飯。

絵に描いたような質素な食卓が、この立派な洋風の雰囲気にそぐわ無い。


食事時は会話をしてはいけないと厳しく躾けていた父が、今日は珍しく口を開く。


「香世、今日は何時に迎えが来るのだ?」


「3時と聞いておりますが。」

香世がそう伝える。


「そうか…。達者に暮らしなさい。

香世ならどこでもやっていけると思っている。」

父は素っ気なくそう言ってから席を立つ。


「ありがとうございます。

どうか、龍一の事をよろしくお願い致します。」


香世は立ち上がり父に深々頭を下げる。


「分かっている。龍一は唯一の跡継ぎだ。

悪いようにはしない。」


そう言って早々と部屋から去って行く。


「香世ちゃん、姉様を許してね。

貴女に何もしてあげられなくて…

私に力が無いから、香世ちゃんばかりに辛い思いをさせてしまって…。」

姉の清子がシクシクと泣き始める。


それを見て弟の龍一も一緒泣き始めるから、香世は困ってしまう。


「2人共泣かないで、私は大丈夫。

そんなに泣かれると、何処に行っても2人の事ばかり案じてしまうわ。」

香世は泣きたいのを我慢して笑顔で2人を励ます。


「龍ちゃん、もう泣かないで寂しくなったらお空を見上げてみて、姉様も龍ちゃんに会いたくなったらお空を見るわ。

龍ちゃんが見上げたお空と姉様も同じお空を見ているから、寂しくなんか無いわ。」


「お、お母様のいるお空?」

龍一は目にいっぱい涙を溜めながら、

香世にしがみ付きそう言ってくる。


「そうよ。お母様が私達を見守ってくれているから、私達はお空を見れば繋がっていられるの。」

香世の頬を一筋の涙がつたい落ちる。

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