第2話 運命の日の朝

『祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。

娑羅双樹の花の色、 盛者必衰の理をあらはす。

驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。

猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ……』


香世は、

かつて女学校の古典授業で習った平家物語をおもむろに、頭の中で暗唱する。


古典文学がとても好きだった。


女学校に通っていた頃は、

暇さえあれば本を読み、

昔の人々の暮らしに想いを寄せるような

夢見がちな少女だった。


母が愛したピアノを弾く事も大好きだった。


お琴も、お花も嫌いでは無かったし、

一生懸命に覚えたのに、なぜ………。


頬に流れ落ちる涙をそっと指で拭う。


「ただ、春の夜の、夢の如し……。」


そう呟き、そっとベッドから起きる。


もうこの部屋には二度と帰る事は無いのね…。


母が生きていた頃の幸せな日々はもう戻っては来ない。


自分の人生を悲観した所で何も生まれないわ。


気持ちを無理矢理奮い立たせ、

質素な着物に着替えて台所へと向かう。


「おはよう。マサさん、今日も朝早くからありがとうございます。」


台所に行くと、使用人のマサが既に朝食の準備をしていた。


「おはようございます。

お嬢様…今日の日ぐらい、

どうかのんびりとお休みになっていて下さい。」


「大丈夫よ。こう言う日こそ、

体を動かしていた方が気持ちが紛れていいのよ。」

香世はフワッと笑う。


春先の朝はまだ薄暗く、

火を焚べてからまだ幾分も経っていない台所は冷え切っていた。


水道の水は冷たく、赤切れだらけの指は、

冷た過ぎる水で感覚を失いじんじんとしている。


香世は、お味噌汁に入れる長ネギを洗い刻み始める。

手を動かしながらマサに話しかける。


「ねぇ。マサさん、

どうか龍一の事を気にかけてやって下さい。

まだまだ子供で、きっと私が居なくなると寂しくて、泣いてしまうかも知れません。」


「もちろんです。

龍一ぼっちゃまの事はこのマサが、

お嬢様の分までも愛情を込めて、

立派な人になる様にお手伝いさせて頂きますので、ご心配をなさいませんように。」


「ありがとう。

それと、お父様のお酒の量も心配なの…。

何度となくお酒を所望されたら、

少しお水を足して薄めて出してね。

お父様にはいつまでも健康でいて欲しいから。」


「お嬢様……どこまでもお優しい事を…。

旦那様のせいでこれほどまでに辛い思いをなさっているのに…。」


マサはおもわず目頭を抑え唇をぎゅっと結ぶ。


「マサさんどうか泣かないでちょうだい。

今日は笑顔でさようならを言って去りたいの。

私の事はお嫁に行くような気持ちで、

送り出して欲しいわ。」


健気にも寂しげに微笑む香世をマサはうんうんと頷き、窓から見える空を見上げる。


雲りがちの空は今にも雨が降り出しそうで、


香世もマサと一緒に見上げ、

まるで私の心を映し出したかのようだと苦笑いする。



今日、香世はこの家を出る。


お嫁に行くならばまだしも晴れの門出になった筈なのに……。


香世は花街に売られるのだ。


他でも無い父の言いつけで逆らう事など到底出来ない。


せめて政略結婚でもさせてくれれば良かったのにと、香世は投げやりに思う。


初め香世は花街がどんな場所なのかは良くは知らなかった。


後から読んだ文学小説に春を売る場所だと書いてあった…。


今年18才になったばかり、まだ恋も知らない。

男の人の手を握った事も無い香世にとっては衝撃的な事実だった。


父が初めて香世にこの話をした時、

舞妓や芸妓のように舞踊やお琴の嗜みはあるから、確かに今までの経験を活かせる場所だわ。

と他人事のように思った事を恥じる。

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