エピローグ

①巣立ち



 段ボールの箱を全て畳んで重ね、ビニール紐で括って荷解きが終わった。

 腰に両手を当てて背中を反らせるとポキポキと小気味好い音が鳴り、思わず「ぬわぁ~」と欠伸交じりの声が漏れた。

 洗面所で手を洗って、指先で前髪を整えてからリビングに戻ると、窓の外に見える十五階の高さの景色に一瞬たじろいでしまう。

 少なくともこれから四年はここがわたしの家になるのだ。

 早く慣れなければ。

 そう思いながら直進し、窓を開けてベランダに出た。

 三月後半の風は少し冷たく、縮こまりながらベランダの柵に肘をつき、わたしの生まれ育った家の方を眺めてみた。

 けれどまあ、見える筈もない。見えるような距離なら進学を期に引っ越すことにはならなかっただろう。

 とは言ってもあっちの家から通えないような距離ではないけれど。

 片付けや掃除のために数回戻れば、もうあの家は帰る場所ではなくなってしまう。

 そう考えると少し寂しい。

 そういえば、今後のわたしの生活圏に夾竹桃はないらしい。夾竹桃の花の色、結構好きだったなぁ。

 思い出にふけっていると、後ろから声を掛けられた。

「美蓮。もう荷解き終わったのか?」

 振り返えると窓から顔を出しているお兄ちゃんと目が合い、とたんに心の内側から温かいものが溢れてくる。

「うん。お兄ちゃんは?」

「俺はまだかかりそうだから、少し休憩しようと思って」

「そっか」

「あんまり外に居ると身体が冷えるから気を付けろよ?」

「もう戻るよ。ちょっと外の空気吸いたかっただけだから」

 部屋の中へ戻って窓を閉めると、お兄ちゃんがソファに腰を下ろしたのでわたしも隣にお邪魔した。

「それにしても、引っ越しってこんなに大変なんだねぇ」

「そうだな」

 お兄ちゃんは一拍置いてから、

「改めて、俺の提案に乗ってくれてありがとう」

 わたしの大学近くのマンションに引っ越して、同時に家を売り払おうとお兄ちゃんが言い出したときは本当に驚いた。だけど家中の、特に物置になっていた三階の部屋に入れっぱなしだったお父さんたちの荷物を片付けているうちに、お兄ちゃんがどうしてそんな提案をしたのかが分かった。

 わたしたちは、もっと早くあの家から巣立つべきだったのだろう。

 とはいえお兄ちゃんに告白された約三年前のあの出来事がなければ、わたしもお兄ちゃんも、未だにお父さんたちと暮らしたあの家に囚われたままで、引っ越そうなんて思わなかったようにも思う。

 人生、何がどう転ぶか分からないものだ。

「わたしも。提案してくれてありがとう」

 言いながら、お兄ちゃんの肩に頭を委ねると、お兄ちゃんは笑顔で受け止めてくれた。

 わたしが居て。

 お兄ちゃんが居て。

 寄り添えて。

 それだけじゃあなく蕾華とも同じ大学に通っている。

 こんな些細なことが、わたしにとってはとても大きな幸せだ。

 きっと。

 これからもこの幸せは続いてくれる。

 お兄ちゃんの存在を感じていると、そう信じられるのだ。



 家を引き払った日に、明ちゃんと蕾華が引っ越し祝いでマンションに来てくれた。

 明ちゃんは蕎麦を茹でてくれていて、わたしは蕾華とお喋りをしていた。

 そしてお兄ちゃんは節目だからと、ある人と会ってからマンションに帰えると言って帰り道の途中で別れた。

 お兄ちゃんが会っている人は梓ちゃんで、去年、たまたまお兄ちゃんと再会したらしい。ほんと、人生はどう転ぶかわからない。

 それになにより、相変わらずお兄ちゃんの考えることは分からない。けれどきっと、お兄ちゃんにはお兄ちゃんの考えがあるのだろう。

 だけど。お兄ちゃんが梓ちゃんと遊びに行くのは、なんだか少し、嫉妬してしまいそうだ。

 でも、どう転んだってお兄ちゃんの帰る場所はわたしで、わたしの帰る場所はお兄ちゃんだ。その関係があるから我慢できる。

 だから少しだけ、梓ちゃんにお兄ちゃんを貸してあげることにした。

 少しだけ、だけど。


 

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