後編


 壺の中は三度みたび味噌でいっぱいになっていた。


「これは面妖な」

「不思議ですねぇ。狸に化かされてるというわけでもないでしょう。味噌は本物ですから」


 昨日と同じように味噌をぺろりと舐めてお登勢が言う。弥之助はふと気が付いた。


「もしやこの壺が下田屋の宝だと言うのは、味噌が増える不思議な壺だからではないか?」


 だとすれば本物の家宝だったということだ。お登勢が顔色を失う。


「まあ! でも父様も母様もそんな事は……ただ私にこの壺を守るように、としか」

「ではお登勢、この壺はお前の物という事だ」

「でも弥之助様」


 壺が家宝なら店に返さないと、と食い下がるお登勢を弥之助は宥め、丸め込んだ。何せこの壺があれば味噌は無尽蔵に出てくる。その味噌をお登勢がやったように周りに振る舞えば、物々交換で味噌以外の食材を貰え食うに困らなくなるからだ。

 この長屋から下田屋まではそこそこ距離があるので、近所に無料や格安で味噌を分けたところで下田屋の商売の邪魔にもなるまい。




 弥之助の考えは当たっていた。いや、それ以上だった。味噌壺の中の味噌は使っても使っても減らず、翌朝になると壺いっぱいになっていた。毎日その味噌と物々交換でなにがしかの食材が手に入る。それにお登勢は自分達より貧しく、対価を出せない者にも気前良く味噌をやってしまう。どうせ中身が増える味噌壺のお陰で元手はタダだから痛くも痒くもないし「味噌問屋下田屋の娘が貧しい者にも味噌を分けてくれる」と一部で評判にもなっているようだ。


 弥之助が働かずとも毎日の食事は十二分に食え、なんなら以前よりも豪華だった。こうなると、元々の性根があまりよろしくない人間は堕落の道を辿ってしまうというものだ。




「酒はないのか」

「すみません。流石に味噌のためにお酒を持ってくる人はいないので」


 弥之助の再三の酒の催促にお登勢は頭を下げる。弥之助は不満たらたらといった様子だ。


「くそう。これだけ余裕があるんだから、酒のひとつも呑みたくなるのが人情だろう」


 人情を語るなら目の前のお登勢の表情も少しは読めば良いものを、弥之助はそれもせず勝手なことを言っている。食べるものに余裕があるために彼は仕事を探しもせず毎日ぶらぶらするかゴロゴロするかばかりだった。


「そうだ。俺が味噌を売ってきてやろう。それで酒を買えば良い」

「えっ、弥之助様!」


 弥之助はお登勢を無視して竹皮にたんまり味噌を包み、近くの飯屋に向かった。


「いやぁ、今のところ味噌に困ってないからねえ」


 飯屋の主人は弥之助の味噌を断った。浪人が持ってきた味噌など怪しくて使いたくないのだろう。


「そう言うな。この味噌は非常に旨いぞ。食えばわかる」


 飯屋で押し問答をしていると、弥之助に声をかける男がいる。


「もし、見たところ商売人でもなくお武家様のようですが……何故味噌を売っていなさるのか、お聞かせ願えますか? よろしければ話のお礼に一杯奢らせていただきますよ」

「ああ……」


 男がつまみ上げたぬる燗の徳利に、弥之助の目が吸い寄せられた。久方ぶりの酒に、彼の舌は緩みに緩んで全てを話してしまった。




「弥之助様! お止めください!」

「えい、離せ。この壺を三両で買ってくれると言うのだぞ!」


 悲壮な顔で止めるお登勢を振り切り、酒が回って赤い顔の弥之助は味噌壺を小脇に抱えた。飯屋で声をかけてきた男は「そんな不思議な壺なら是非買い取りたい」と言ってきたのだ。三両もの金があれば当面は遊んで暮らせると浮かれる弥之助にすがりつき、お登勢は頬を涙で濡らして訴えた。


「それは私の宝です……どうしても売ると言うなら、私を斬って下さいませ」

「大袈裟なことを言うな! お前の宝なら我が家の宝だ。我が家の主である俺の自由にして何が悪い」


 弥之助は斬るのではなくお登勢を足蹴にし長屋を出る。その騒ぎに長屋の住人がなんだなんだと数人出てきたが、彼の頭の中はもはや三両の事しかない。

 ところが約束の飯屋の前に行っても男の姿は無かった。弥之助は店の周りを何べんも彷徨うろついてはみたが、寒い夜風に晒され、酒が抜けていくだけだった。


「騙されたか、それとも狐狸の類だったか」


 がっかりするやら腹立たしいやらで壺を小脇に抱えたまま弥之助が長屋に戻ると、障子戸の向こうに光が無い。


(もしや壺を奪われて明かりも付けずに泣き濡れているのか)


 そう考え戸に手をかけようとした時、長屋の住人が各々の家から出て来た。お登勢に味噌を貰っていた隣の婆や近所の女達だ。皆弥之助を睨みつけ、詰め寄る。


「河合の旦那! あんたなんて事をしたんだい!」

「お登勢ちゃん可哀相に。その壺を大事にしていたのに!」

「お登勢ちゃん、実家に帰っちまったよ!!」

「何!?」


 慌てて弥之助は戸を開ける。だがお登勢の姿はなかった。


「お登勢!?」


 弥之助は見回すが、狭い長屋の中に隠れる場所も無い。と、すぐに畳の上の白い紙が目に入る。手に取ると二枚の紙にそれぞれ筆跡の違う書き付けがしたためられている。


『弥之助様へ あなた様のお気持ちがわからなくなりました。離縁してくださいませ。私は下田屋へ戻ります。壺は差し上げます。 お登勢』

『娘は返して頂きます。本来であれば河合様が娘を攫った事、御上に訴えるところですが、最初は娘から河合様に無理を言ったのでしょうから不問と致します。但し、今後二度と私どもに近づかないで頂きとうございます。 下田屋』


「な、な……」


 ことりと壺を取り落とし、書き付けを食い入るように見つめる弥之助を見た女達は、すかっと胸がすいたようで帰って行った。弥之助はそのまま暗い部屋で一人黙っていたが、やがて小さく笑いを漏らす。


「ふ……いや、この壺が残ればいいではないか。丁度小娘の相手も飽いていたところだ」


 弥之助はぐっすりと眠りについた。明日からも壺があれば食うに困らないのだ。味噌か壺の新たな買い手はゆっくりと探せばいいと考えて。


 だが翌朝、味噌は増えていなかった。





 天保の飢饉は天保四年と天保七年に起きた大凶作が原因と言われている。天保五年と六年はそれほど凶作ではなかったが、天保四年の餓死者の影響が少なくなかったようだ。天明の大飢饉の時ほどではなかったものの、実際に打ち壊しも起きたようである。


 だが、下田屋は跡取り娘が貧しい者にも味噌を振る舞った事で評判を呼び、もしもこの商家を襲いでもすれば貧しい町民たちが許さないだろうという雰囲気が出来上がっていた。そのせいかはわからぬが、下田屋は災難を免れる。

 跡取り娘のお登勢は父に反目し一度は家を飛び出した過去があるが、反省して家に戻った後は心を入れ替えたそうだ。番頭を婿に迎えて家を盛り立て、尚一層下田屋は繁盛したと言う。


 その一方、とある長屋の一角で。毎朝壺の中を覗いては、味噌が増えていない事に落胆する浪人の男がいた。しかし一度覚えた働かずして食う生活を忘れられず、翌日も壺の中を覗くだけで働き口を探そうともしない。やがて壺の中の味噌の量に比例するように男はやせ衰えていったそうだ。果たして彼はいつ真実に気づくのであろうか。


 少し考えれば、下田屋が娘を案じて夜半に味噌をこっそり補充していたとわかりそうなものだが。



(了)

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不思議な味噌壺 黒星★チーコ @krbsc-k

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