五十話 過ちを重ねる男、飛び込む女

「みぃつけたぁ」


 石の門の向こう側に、いつの間にか化け物が鎮座していて――顔らしき部分がしっかりと藤原に向けられ、あどけない声が楽しげに囁いた。


 びちゃっ


 音を立てて、それが門を越えようとする。

 大丈夫だ、越えられるはずがないと思っていたのに、化け物は邪魔そうに魚のヒレになっている腕をふるって門を壊した。


「なっ……!」


 どうしてだ。どうしてと、藤原は顔に焦りを浮かべ――そして、先ほどまでの今で違う点を思い出す。


 返事をしてしまったこと。

 そして――和が残した小袋……あの、お守りが手元にないことだ。


「返せ!」


 藤原は祭にすがる。


「あれを返してくれ! はやく!」

「…………」


 祭は化け物が這いだしてきたというのに、動じる様子もない。ただつまらない様子で藤原を見下ろしていたが――ふいに、藤原の胸ぐらを掴むと、化け物のほうへ突き飛ばした。


「……へ……?」

「藤原、さん? 藤原さん、いらっしゃい、いらっしゃぁぁいぃ」


 化け物との距離が縮まり、奴が嬉しげな声を上げる。


「ひぃぃぃぃっ!」


 おぞましさに藤原は悲鳴を上げ、腰が抜けた状態でもなんとか距離をとろうともがく。

 ぴとっとヒレのある手が足に触れ、逃がさないというように掴まれる。


「嫌だ、嫌だ! 僕は違う! アイツらとは違う! 違うんだ!」

「いらっしゃぁい、いらっしゃいぃぃ、こっちいらっしゃいぃ」

「触るなぁぁっ!」


 歌うような澄んだ声。それだけに、外見の醜悪さが余計に増して見えて藤原はおぞましさから叫ぶ。

 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔が月乃と祭に向けられた。


「助けて! 助けてくれっ!」


 恥も外聞も投げ捨てた懇願。祭はそれを、眉一つうごかさずながめているが――月乃は思わず足を踏み出していた。


「藤原さん!」


 手を伸ばせば、藤原は必死の形相で月乃の手を掴み――思い切りひっぱると転ばせた。


「え」


 化け物の上に折り重なるように転んだ月乃。その隙に緩んだ拘束から藤原は抜け出す。

 ぬちゃりとした感触に月乃の口から「ひっ」と短い悲鳴が上がり、化け物からは「だぁれぇ?」と舌足らずな問いかけが向けられた。

 藤原をとらえていた手が、月乃の腕を掴む。ひんやりとした温度と、ぬめり。


「いっしょに、いく?」


 ぎょろりと左右の目が動いた。

 こうして近づいて、月乃は頭の上にあるいくつものコブにもまたふたつの目がついていることに気がつく。それだけの目が、月乃に向けられる。


「いこ、いこ、あっちいこぉ」


 にゅるりと足になにかが絡みついてきた。視線を落とせば、それはタコやイカと酷似した足。この状態で引きずられ水の中に連れて行かれたら、息が出来なくて死んでしまう。

 だが、このままでは逃げられない。せめてもの抵抗に月乃は石の上に爪を立てる。


「あっち、あっち」


 祭に助けを求めようと思ったが、祭までつかまったらそれこそ終わりだと月乃は唇を噛む。

 藤原を見捨てられなくて動いたが、その結果がこれなのだ。一体、どの口で祭に助けて欲しいなどと言えようか。それに、祭は藤原に縋りつかれてそれどころではない。

 自力でこの状況を脱するしかない――それくらいできなければ、きっと和に「言わんこっちゃない」と呆れられてしまう。


「――っ」

 

 必死に踏ん張る月乃だったが、その体はずるずると確実に水辺に寄せられていく。


「あっちだよぉ、はやく、はやく」

 

 子どもが遊びに誘うような稚拙な口調で水の中を示す化け物に、うぉんという低い鳴き声をあげてなにかが飛びかかった。


「ギャア!!」


 濁った悲鳴が上がり、拘束が解かれる。体を起こした月乃は、飛びかかったものの正体を目にして驚き、思わず声を上げた。


「――ミコ……!」


 月乃と化け物の間に立ち塞がり、うなり声を上げているのは海脛の時と同じように今回も事務所で留守番をしているとばかり思っていたミコだった。


「いだぁい、いだぁいよぉぉっ!」


 びちゃびちゃと黒い液を流した化け物が、澄んだ声と濁った声が混ざった聞き苦しい声で叫ぶ。そのまま、化け物はミコを厭うように水の中へ逃げていく。


 ミコは後を追い、溜まった水のそばまで走ったが化け物は一足早く水中に全身を沈めてしまった。


「え……」


 その時、ちらりと水面をかすめたのは。


「月乃ちゃん。ダメだよ、勝手に飛び出したら。ミコがいなかったら、どうなってたか」

「祭さん……、すみません……でも」

「優しいところが月乃ちゃんの長所だけど、優しさも過ぎれば毒――自分の毒で死にたくないでしょ」


 祭の顔は怒ってはいないものの苦笑を浮かべている。

 藤原を振り切ってこちらに来てくれたのだろう上司の腕を、月乃はたまらず掴んだ。


「本当にすみません……! でも、あの、見て下さい! 水の中に和くんが――」

「なごちゃん?」


 怪訝そうに水面をのぞき込んだ祭だが、確認するより先にじわりと滲んできた黒い液体が表面を覆い尽くしてしまう。


「あっ……」

「……これは、これは。……月乃ちゃん、帰るよ」

「え? でも、和くん……」

「なごちゃんなら、大丈夫。本部の応援が到着するまで持ちこたえられるさ。……おじさん、これでもきみたちの上司だよ? 助けようとした部下を身代わりにして逃げる阿呆なんぞに、これ以上助力の必要はないでしょ」


 視線の先を辿れば藤原が伸びていた。


「あの阿呆、月乃ちゃんを転がしておいて心配もしない。そのうえ、自分のものでもないのに袋を返せってうるさくてさぁ。……さ、なごちゃんの姿を確認できたなら、きっと大丈夫。水はなごちゃんのテリトリーだ。行こう」


 祭はそう言うが、月乃は頷けない。

 ちらりと見えた和は、水の中で眠っているようだった。そのまま深く深く沈んで、戻って来ないのではないかと危機感を抱く。 


 今なら――今ならきっと、手が届く。


「祭さん」

 

 勝手に飛び出すなと言われたばかりだ。けれども時間が惜しくて、月乃はスニーカーを脱ぎ捨てながら上司を呼ぶ。


「なに? ……なにしてるの?」

「わたし、飛び込みます」

「え?」


 祭があ然とした顔で月乃を見た。


「いや、待って、正気? アレ見たでしょ? 中にアレが住んでるんだよ? キモいでしょ? 怖いでしょ?」

「ぱっと潜って、ばっと戻ってきます……!」


 上に着ていたパーカーも脱いで準備を整えた月乃とそばに寄りそうミコに、祭は困ったような表情を浮かべて頬をかいた。


「……月乃ちゃん、なんだか逞しくなったね――なら、これ持って」

「これって……」


 藤原が執拗に欲しがったお守り袋だった。


「効力は本物だから――あのヒネ坊主に返してやってよ」


 月乃は小袋を握ると頷き、黒く覆われた水の中に躊躇せず飛び込んだ。


「ミコ、月乃ちゃんを頼むねって……言うまでもないか。お前は、この子のボディーガードだもんね」


 祭の言葉に誇らしげに鳴いたミコがその後を迷うことなく追いかけた。。


 ――潜った水の中は、ほの暗い淀んでいる。

 水そのものが絡みついてきて動きを阻害されている、そんな奇妙な錯覚を覚えながらも、月乃は目をこらす。


 その横をきらきらしたなにかがすり抜けていくと思えば、ミコだった。

 この薄暗い場所では目印のように明るく光っているように見えるミコは、こっちだというように泳いでいく。

 ミコが示す先に、和はいた。

 力なく水に身を任せて漂う彼は、眠っているようにしか見えない。


(和くん!)


 水泳は得意だが、素潜りはさほどではない。限界が来る前に早く彼を連れて浮上しなければと思い月乃は和へ手を伸ばした。


 すると、底の暗闇が蠢く。

 力なくそこにいた和の体に、黒い手が無数に伸びてきて彼をなお暗い場所へ引きずり込もうとした。


(だめっ!)


 この手に連れて行かれたら、二度と会えない。

 それは月乃の勘だった。けれど、月乃はそんな自分の直感に従って和に追いすがる。

 息が苦しい。

 限界が近い。

 だけど、今だ。今を逃したら――。


(迎えに来たよ、和くん! 帰ろう!)


 そんな思いで、月乃は不自由な水の中、必死に手を伸ばした。

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