三十二話 ミハギ様①

 ――場所を移して話そうと提案された和は、コテージを出て近くにある休憩所にいた。

 木製のイス、その上にハンカチを敷いてから千依里が腰掛ける。そこまで待ってから、和は口を開く。


「説明しろ」


 素っ気ない、ともすれば突き放すような冷たい物言いだ。月乃がいればオロオロとして仲立ちを担っただろうし、祭はいつものようにヘラヘラして軽口でも叩いただろう。しかし、両者とも不在の状況ではクッションになり得る者がいない。

 自然と、和と千依里の間に流れる空気は張り詰めたものになった。

 そして――先に折れたのは、千依里だった。コテージでの鷹揚とした態度はそのままだったが、和に向かって頭を下げたのだ。


「申し訳ないことをしましたわ」

「謝罪は要らない。俺は、説明を求めてるんだ。……ここにはナニカがいる。そのナニカが余所者の被害者を殺し、俺の同僚たちを連れ去った。……一体、この土地になにを呼んだんだ。汚れ具合は異常だぞ――ここは、人を集めてはいけない場所だ」

「……そこまでお分かりになりますのね。……ええ、仰るとおりです。この地は古くから、私たちの里にとって禁域と言われる場所でございました。何人たりとも立ち入らないように、私の先祖が代々守ってきたのです。まかり間違い、人が食われたりしないように」


 千依里はコテージのほうを見て、目を眇めた。自信を落ち着けるためか、ゆっくりと呼吸をすると和を見る。


「海脛は、当て字です。本当は膿を剥ぐと書き、大昔は病や怪我に効く神がかりの土地と言われ近隣から多くの者が頼って来たそうです。……ミハギ様という神様が、悪いところを剥がしてくれるのだと――今の時代では信じられないことですわよね」


 実際に年月を重ねるにつれて、その信仰は廃れてしまった。今ではその信仰を知る者は件の海脛集落に住まう者しかいないのではないだろうかと千依里は語った。


 たしかに、麓の町で話を聞いたふたりからはそんな話は出て来なかったと和は思い返す。

 ただ、彼女たちはこの土地を薄気味悪いとは認識しているようであった。

 特別ではないが、遠ざけたい。

 独特の気質をもつ集落と、その集落の名前がついた土地。

 唱えるべき神の名はなく、けれど隔意だけは積み重なった。


「……本来、沈清の儀式を四年に一度行わなくてはならないのです。過去に数度中止した時は、不自然な死が相次いだと」

「不自然……今回みたいだな」

「はい。……ですから、この度の件は間違いなく海脛に根付いた神……ミハギ様の祟りですわ」


 ミハギ様について、千依里が静かな説明を始める。

 昔、海脛集落は厳しい土地だったという。ある時、山間にあるので余所との行き来も容易ではないこの土地で病が蔓延した。

 医者を呼ぶにも薬を仕入れるにも、とにかく時間がかかる。その間に死体は増えていくばかり。

 もう村は滅ぶしかないのだと誰もが項垂れた時、ひとりの若者が言った。森にある枯れ井戸に身を投げれば、愛する家族を救ってくれると神が約束してくれたと。

 周りが止めるのも聞かず、若者は森の枯れ井戸に身を投げた。すると、どうだろう。すでに枯れて久しい井戸だったというのに、ばしゃんっと水面を叩くような音がしたのだ。


 ――耳を傾けていた和に、言い伝えですけれどとつけ加えた千依里は「その後、枯れたはずの井戸が復活し、そこから汲んだ水を飲んだ者たちはみんな病から回復したというのです」と続けた。


「身を投げた者の亡骸は、水が湧いた日に家の上座に横たわっていたそうです。外傷はなく、けれどもまるで水の中にいたように全身濡れていたと――これが、神がかりの土地と言われた海脛の始まりです」

「それで。その身を投げた者ってのが、お前の祖先ってことか」

「はい。神を蘇らせた一族として、波田は海脛集落において儀式的な行事を司る存在になりました」


 けれど、その儀式は途絶えた。

 目を伏せた千依里の態度がそれを物語る。


「病だ怪我だと、人が不要だなんだと嫌悪するものを取り込めば毒素もたまる。放っておけばそのミハギとやらは、肥大化して疫病をまき散らす化け物になっただろうな。――昔の人間は、そういうことを本能で理解していたから、名前を付けて神とした。お前の家は、神として奉ったものが暴走しないように清め鎮めることが役目か」


 なるほど、だから守っているのかと和は老婆の言葉を思い出した。

 生まれた場所から誰も彼もが自由に飛び立てるわけではない。どうしても、そこから動けない者もいる。そんな人間たちにとって、波田の家というのはいつの間にか番人であり守護者という存在に変化していたのだろう。


「ところが、海脛集落を離れた分家の人間に、曰く付きの土地を取られた。相手が儀式を欠かさずやってくれるなら問題は起こらないはずだったが――そいつは、迷信だと思ったかはたまた別の思惑があったのか、儀式を途絶えさせた……と言うわけか」


 こくりと千依里が頷く。

 木製テーブルの上で握った手がカタカタと震えていた。


「……迷信だからと、無知故の行動だったら、まだマシでしたわ」

「…………」

「叔父は……波田 幸次朗は、分かっていて放置したのです。そうすれば、ミハギ様が怒り……人の身から剥ぐ――悪い部分ではなく、信仰を怠った者を罰するためにその体から魂を剥ぎ取り食らってしまうと思って」

「待て……。つまり、麓で有名な波田って奴は、全て知っていて義務を放置したのか? それなら、暴走した怒りは真っ先にそいつに向くはずだろう」


 いいえ、と千依里は首を横に振った。


「まず始めに狙うのは、慣れ親しんだ海脛に根付く本家の血筋。現に、祖父も兄も、春には嫁ぐはずだった姉も、みんな陸で溺死いたしました」


 微笑む千依里の目は暗い。

 穏やかに、淑やかに微笑むのに、その目だけはほの暗く深海をのぞいたような不気味さが漂っていた。


「自分の番になる前に、この件を片付けたかったのか」

「まさか。……だって、日根さんもご存知でしょう? あのコテージで亡くなったのは、気の毒な若者だったと」

「…………」

「叔父は、化け物の力を利用することを思いついたのですよ。奉るのではなく、与え食わせ使役する――もう何年も前からそうやって、邪魔な相手を潰してきたのですわ」


 ふふふと、なにがおかしいのか千依里が笑う。


「ミハギ様は、もう私では止められません。だって……人を食べ過ぎてしまったんだもの。後はただ、生贄が増えていくのを見ているばかり」

「それができないから、通報してきたんだろう」

「……ええ、そうですわね。――いいえ、違いますわ。私はただ……」


 目を伏せて独りごちるようにブツブツと呟く千依里は、手を握ったり開いたりと忙しない。肯定と否定を繰り返していた彼女は、やがてふらりと立ち上がった。


「日根さん」

「なんだ」

「参りましょう?」

「……どこへ」


 それまでの不安定さが嘘のように、再びおっとりとした雰囲気をまとった千依里は品のいい仕草で日根に手を差し出す。


「ミハギ様のところへ」


 暗い色をした目だと、和は思った。

 深く冷たく暗い水の底を思わせる――自分が一等嫌いな目だと。

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