QRコード
東出時雨
QRコード
「願いが叶うQRコードって知ってる?」
かなえが駆け寄って来たのは、放課後、テニス部の練習が始まる前だった。帰宅前の生徒たちのおしゃべりで、教室はまだざわざわしている。
「なにそれ、知らない」
かなえが両手に持った自分のスマホをしおりの目の前で掲げる。
「見たい?」
しおりを見つめる瞳が、何かを企む子どもみたいにキラキラしている。
「ねえ、それって不幸のメールみたいなやつ?」
「違うよ、これは願いが叶うんだから。不幸になるとかじゃないから」
「あ、そっか」
かなえはスマホの画面をとんとんと指で叩き、もう一度「ね、見たい?」と言った。
「わかったよ、見せてよ」
しおりが笑って答えると、「なんかさ、バイト先の先輩からまわってきたんだけどさ、私もまだアクセスしてないんだけどさ」と、いそいそとスマホのロックを解除する。
「これ」
なんの変哲もないQRコードが、画面に表示されていた。
「いま、すっごい、流行ってるんだって」
どんな願いでも叶えてくれるって、とかなえが付け足す。
「どんな願いも、ねえ」
そんなことあるわけないじゃん。そう言ったら白けるかな、とか考えつつ、しおりも彼女のスマホをのぞきこむ。
「ね、アクセスしてみる?」
好奇心がおさえきれないといった顔で、かなえがしおりを見つめた。なんだ、勇気がなかったわけね、と内心つぶやきつつ、「大丈夫なのお?」と、苦笑してみたりしている。
「だーいじょうぶだよ、呪いのQRコードじゃないんだよ。これは、願いが叶うQRコードなんだから」
かなえが、願いが叶う、の部分をわざと強調して口にする。
「ねえ、五日以内に十人に回さないと呪われるとかさ、そういうやつじゃないよね?」
だから、違うって、と言いながら、かなえがQRコード専用の読み取りアプリを立ち上げている。画像を取り込むと、少し間があって、外部サイトにつながった。
あなたの願いはなんですか?
真っ白な画面にそれだけ表示されていた。入力欄が下にある。
「なにこれ」
「なんか入れてみよっか」
かなえがどうしよっかな、などと考えている間に、やめておきなよ、変なサイトだったらどうすんの、とか、引き留めるそぶりをみせたりもしている。
「十万円欲しい」
かなえとしおりで出しあった案だった。どうせ叶うことなんてないんだから、と金額は適当にでっちあげた。
「叶ったら山分けしてよね」
「絶対だめえ」
冗談を言い合いながら、エンターキーを押し、入力を確定すると、画面が切り替わった。
「ねえ」
かなえのスマホの上部で緑色のライトが点灯していた。内蔵カメラが作動した合図だ。
「あ、なんか、そうなるって、先輩が言ってた。でも大丈夫らしいよ」
かなえは全く意にもとめない。
「ねえ、なんか、怖いって。やっぱり、個人情報とか、取られるんじゃないの?」
声をひそめるしおりに、「だーいじょぶだって」かなえがわざとらしく明るく返す。何が大丈夫なのかさっぱり分からないまま、かなえの勢いに流されて、しおりも推移を見守る格好になった。
「あなたの髪は短いですか」
短い質問が表示され、イエス、ノーを選択する形式になっていた。
「なにこれ、変な質問」
かなえは、長い髪を後ろでポニーテールにしている。ノーを押すと、画面がまた切り替わって、次の質問が表示された。
「あなたは一人っ子ですか」
今度はイエス。かなえには兄弟も姉妹もいない。しおりも同じだ。
「あなたの視力は一.五以上ですか」
「コンタクトだからね~。悪いですよ、視力は」と言いながら、かなえがノーを押す。
「ん、なにこれ?」
かなえが眉をひそめた。
「どうなったの?」
手元をのぞき込むと、画面が真っ白になっていた。そこからどうやっても、前にも後ろにも、行けない。緑色の光もいつの間にか消えていた。奇妙な数分間だった。
「全く動かない」
「ちょっと、やっぱり変なサイトだったんじゃないの?」
うーん、とつぶやき、かなえがスマホをロック画面に戻した。
「わかんないけど、しおりにもあげるよ」
スマホを顔の横でふりながら、にやにや笑っている。
ちょっと迷ったが、断るほど興味がないわけでもないしおりも、「うん、じゃあ…」とつい承諾し、通話アプリでかなえから画像を受け取った。
私なら、何を願うかなあ。
お風呂に入りながら、しおりは今日のことを考えていた。あんなもので願いが叶うはずなんてないけれど、でも、叶えたいことは色々あった。
まずは次の試合への出場だ。今のままでは多分無理だと、自分でもわかっていた。でもかなえは、当たり前のように、きっと出場する。
高校生からテニスを始めたしおりは、小中学生からテニスをやっていたかなえと比べて、実力に大きな差があった。
仲のいい友達との差を、自覚するのはしおりだって嫌だった。だけど、毎日目についてしまう。同じテニス部に、それに、気になる人も同じ…。
二年生になって、男子テニス部の北村君がかっこいい、と先に言い出したのは、しおりだった。だから自分に権利がある、と言いたいわけじゃない。かなえと二人できゃーきゃー言い合うのは楽しかったし、遠くから見ているだけで、しおりは十分だった。でも、北村君がたまにかなえと言葉を交わしているのを目にするたびに、ちくんと胸が痛んだ。テニス部のエース同士、どうしたって目立ってしまう二人だった。かなえがわざとやっているわけではないから、なおさら、そんな自分の気持ちをどう処理したらいいのか分からなかった。
髪を乾かしながら、かなえとのトーク画面を何気なく開くと、そこに大きく表示された、あの画像が目に入った。
「ふうん」
自室のベッドに寝転んで、QRコードを読み込んでみる。
はなから信じてはいなかった。ほんの興味本位でアクセスしてみるだけだ。なんか、あやしいけど、大丈夫だっていうし。
少し間があってから、外部サイトに接続する。
あなたの願いはなんですか?
さっきと同じ文言が浮かんでいた。
試合に出場してみたい。一年生の頃から活躍しているかなえとは違って、しおりはまだ一度も、公式試合に出たことはなかった。
両手でキーを操作し、空欄に打ち込む。エンターキーを押すと、同じように画面が切り替わり、内蔵カメラが作動した。ちょっと気味が悪いな、とやっぱり思う。早く切り上げたい。
「あなたの髪は短いですか」
かなえと同じ質問だった。肩に届くか届かないかくらいだから、しおりの場合はおそらく短いというべきだろう。イエス、を選ぶ。
「あなたの視力は一.五以上ですか」
目はそこまで悪くないが、しおりも視力矯正が必要になって来ている。ノーと答えた。
「本当に変な質問」
あなたには親友がいますか。
ん? 思わず顔をスマホに近づけた。
「あれ、こんな質問、あったっけ?」
かなえの時はなんだっけ、三つくらい質問があって、最後はたしか…。いや、そもそも三つだっけ。そう考えはじめると、質問の内容もはっきり思い出せなかった。
どっちにしろ、答えるのはしおりなのだから、かなえの場合を思い出してもしようがない。
親友。
かなえの顔が思い浮かぶ。私たち、親友だよね、なんて言い合ったりしたことはない。そんなことするのはわざわざ確かめ合っているみたいで気持ち悪い感じもするし。だけど、たぶん、かなえも、もし誰かに聞かれたら、私の名前を出してくれるんじゃないかな。そう考えると少し温かい気持ちになった。
イエス、を押して、エンターで確定する。
画面が切り替わって、真っ白になった。
「あれ、あれ?」
後にも先にも行けない。かなえの時とおんなじだ。
「ま、いっか」
画面を消して、スマホを放り出し、天井を向いた。
私の親友はもう寝ているのかな。
そんなことを考えながら、動画をザッピングしているうちに、いつの間にかしおりは眠ってしまっていた。
翌日、登校してきたかなえの姿を目にするや、しおりは「どうしたの、それ!」と、思わず大きな声をあげた。
「昨日大変でさあ」
かなえは短く切った髪をしきりに触りながら、困ったように笑っている。
昨夜のこと。鍋に残ったカレーを温めようとしたら、ガスコンロの火がいきなり燃え上がり、下ろしていた髪の半分以上が焼けてしまったのだという。
「もうまいったあ。ちりちりになっちゃったから、ここから下全部、切るしかなくて」
笑っているが、ショックだったろう。かなえはあまり自分の悩みを口に出すタイプではないから。しおりはただ黙って聞いていた。
「でもさ」
かなえが顔を近づけ、声をひそめた。
「じつは、いいこともあってさ。さっきママから連絡あって、おばあちゃんがお小遣いくれるって。十万。だから元気出せって」
思わず、かなえの顔をまじまじと見つめた。
「それって」
昨日、冗談半分で、あのサイトに入力した願い事が思い出される。
「叶っちゃったの、かな」
いたずらっぽく含み笑いを浮かべたかなえも、しおりを見つめる。
「やだ、まさか」
笑って打ち消してはみるものの、内心動揺していた。
「ねえ、でも、その髪...昨日の、あれと、関係ないよね...?」
しおりがおそるおそるたずねる。
「なんか、私も思ったんだよね。あのとき、髪が短いかどうかって、そういう質問に答えたなあって。なんだっけ? ログもなにも残ってないんだもん」
やだあ、やだあ、怖いじゃん! きゃーきゃー二人で騒いでいると、なんだか全部大したことないような気もしてくる。
私、何に、なんて、答えた?
昨日の夜のことは、あんまりうまく思い出せなかった。
「ねえ、そんな、あんなんで叶うわけないんだから。偶然だよ、偶然」
今度はかなえが言い出して、そうだよね、そんなわけないよね。しおりも笑って同意するのだった。
かなえが家の階段から落ちて両足首を捻挫したのは、それから三日ほど経った頃だった。
朝起きてすぐのことだったという。登校してこないかなえに連絡すると、
「階段から落ちて足首が痛くてうごけなーい」
という返事と一緒に、泣き笑いの絵文字が送られてきた。
かなえは次の日も、その次の日も学校を休んだ。家までお見舞いに行くと、自由に歩けなくなっているだけで、自室のベッドに寝転んだかなえは元気そうだった。
「もうほんとついてない」
と、カラカラ笑う彼女の元気な顔を見て、いくぶんほっとしたしおりは、なんとなく引け目を感じる自分を持て余し、かといって謝るのも少し変な気持ちがしたまま、「ごめんね」と言った。
「なんでしおりが謝るのよ」
「だって」
かなえがろくに歩けもせず、学校を休んだ二日目、しおりはテニス部の顧問に呼び出された。
地区予選に出てみないか、という話だった。はい、と返事はしたものの、信じられなかった。もっとうまい子は沢山いるのに、なぜ自分が選ばれたのか分からない。だが、自分が選ばれた理由は分からなくても、それは、かなえが足を捻挫したから回ってきたチャンスであることだけは確かだった。
「かなえが足怪我したから、出れるようなもんだもん」
「なあに、そんなこと」
しおりの頭をぽんぽんと叩きながら、かなえが言った。
「練習頑張って、うまくなったから出れるんだよ。しおりの実力だよ」
かなえの言葉に、ううん、でもありがとう、と言って返す。
「叶っちゃったよ」
帰り道、しおりは思わずつぶやいていた。
あのQRコードにいれた願い事。試合に出たいって、私、入れた。すぐに、まさか、と自分で打ち消す。あれのおかげだなんて、あるわけがない。それに、かなえが怪我したせいで、出れるだけなんだから。
「実力だよ」っていうかなえの言葉が、嘘でもうれしかった。ライバルとして認めてくれたみたいな気がした。それに、かなえの代打で出場するんだと思うと、自分が彼女と同じレベルになったようにも感じられ、妙に浮足立った。
家に帰ってから、QRコードをまた開いた。
「叶うわけ、ないって」
試合のことは、偶然。こんなもんで願いなんて叶うわけない。そんなの当たり前じゃん。自室のベッドの上で、そんなことを自分に言い聞かせながらも、接続を待つ。
しおりの願い事は決まっていた。
「北村君と付き合いたい」
それだけは自分の努力ではどうしようもできない。でも、もし、何かの力が、私の願いを叶えてくれるなら…。
緑色の光が点灯し、画面が変わる。これって、一体どこに繋がっているんだろう? 誰かに向こう側から見られているような気がして、しおりはふと背筋が寒くなるのを感じた。
「あなたは一人っ子ですか」
イエス。
「あなたの視力は一.五以上ですか」
ノー。
「あなたには親友がいますか」
イエス、と答えようとして、ふと不安がよぎった。これ、前と同じ質問。この間も同じ質問に答えたことが、それを見た途端に思い出された。そのあと、かなえが階段から落ちて、しおりは試合に出場できることになった...。
「やだ、まさか。そんなこと、あるわけ、ないよね」
自分の想像がばかばかしく思える。だが、イエス、と答えることにも躊躇いをおぼえた。
「ばかばかしい。こんなの関係ないって」
口にしてみたら、やっぱり関係ない気がしてくる。当たり前だよ、こんなので願いが叶うなんて、あるわけないんだから...。
いずれにしろ、しおりにはもう止められなかった。本当に叶うかどうか試してみたい。この行動の結果が見てみたかった。
それに、かなえばっかりずるいじゃん。そんな思いも少しはあった。「ちょっと試してみるだけだよ」自分自身に申し開きをするかのようにつぶやき、イエス、を選び、エンターを押した。
コートを挟んですぐ先に、北村君の姿が見えていた。
ときどき目が合っているような気がしてしようがなかったが、顔が赤くなるのを避けたくて、しおりはわざと見ないようにしていた。
かなえがいないから、どうしたって、しおりが彼女のポジションに入ることになる。そうなってみて気づいたのは、思っていたよりもずっと、隣のコートの北村君とは、距離が近いということだ。
「ほんと、ずるいんだから」
しおりは、かなえの立ち位置を少し恨めしく思った。今では、すぐに彼らが仲良くなったのも納得がいく。
かなえが学校に来なくなって、一週間以上が経っていた。
足の捻挫もこじらすとやっかいみたいで、登校するのがめんどくさいから、あとちょっとさぼるわ、と本人はいたって呑気だった。
またお見舞いに行こう。このままじゃかなえ、一生学校に来なくなっちゃうよ。そんなことを考えながら、自転車に乗って帰ろうとしたとき、北村君に呼びとめられた。
ちょっと前までは、北村君と二人っきりで話ができるなんて、想像も出来なかったのに、今はその北村君が、しおりに話かけてくれている。
「今度の日曜さ、どっかいかない?」
自転車を支えながら、彼の顔を見つめる。
「え、それって…」
「そう、二人でどっか、デートしない?」
北村君とデート。頭が真っ白になっていると、もっと信じられないことが彼の口から続いて出てくる。
「俺ずっとさ、気になってたんだよね、高橋のこと」
あまりの出来事になんと言っていいか分からずにいると、それがますます彼の心に火をつけたのか、「付き合ってほしい」という夢でも聞いたことのないセリフまで出てきた。
夢見心地で、「うん」と返すのが精いっぱいで、通話アプリのアカウントを交換しあって、その日は帰った。
週末はお茶でもしようか、と北村君が提案してくれた。詳細はまた決め合うことになっている。
「俺、高橋のこと好きだよ」
それからひっきりなしに続いたトークの終わりに北村君が送ってきた言葉に、しおりは誰にはばかることもなく有頂天になった。
「まじか」
両手で顔を挟んだまま、ベッドの上を転がる。
いやいや、そんなことあるわけないけど、でもそんなことが実際に起こっているんだもん。自分自身でも信じられないが、嬉しさがとめどなくあふれる。
かなえに報告したかった。通話アプリを立ち上げて、トーク画面を開く。すぐに、やっぱり直接言って驚かせてやろう、と思いつき、また閉じた。
でも、嬉しくて顔がほころんでしまう。かなえ、何て言って驚くかな?
「もう、早く学校くればいいのに」
再度トーク画面を開いて、さぼりすぎ。早く来い、と打って、送信した。
しばらく待ったが、かなえから返信はなかった。一時間以上経っても既読にならない。かなえには珍しいことだった。残念だったが、代わりに届いた北村君からのおやすみメールに返信したりしているうちに、そんなこともまたすぐに忘れて、時間は過ぎた。
朝になっても、かなえに送ったメッセージは未読のままだった。
おかしいな、熱でもあるのかな、と思った。足を怪我しているだけで、かなえは元気いっぱいだったからだ。首をかしげながら自転車に乗る。
学校に到着した途端に、固まってこそこそ話していた数人の女子生徒のうち一人がしおりを見るや、「ねえ、聞いた? かなえの噂」と、話しかけてきた。「え、なに? 噂って?」「昨日の夜、」と、彼女が声をひそめた瞬間に担任が入って来た。 彼女も慌てて席に着く。
「今日は、朝から、大変残念な知らせがある。クラスメートの倉本かなえだが、昨夜自宅で亡くなったそうだ…。急なことで、みんなもとてもショックだと思うが、通夜は明日、告別式はあさって...」
「いや!」
叫ぶと同時に立ち上がっていた。
クラスメートの目が一斉にしおりに注がれる。
かなえが死んだ? 昨日?
そんなわけない、そんなわけがあるはずがない。
だって、昨日だって、ずっとふつうに、朝から話してたんだよ?
「そんなわけないよ!」
「落ち着きなさい、つらいよな。先生も驚いているんだ...」
「そんなんじゃない!」
半ばパニックになりながら、自分のスマホを取り出す。トーク画面を開いた瞬間、昨夜八時以降の会話がずっと既読になっていないことに気が付いた。
この時間、自分は何をしていた? 北村君とずっとくだらない話をして、ハートマークを飛ばして浮かれていた自分自身を思い出した。
「いや!」
担任の静止を振り払い、しおりは教室を飛び出した。
自分で確かめるしかなかった。かなえの家まで迎えに行こうと思った。何かの間違いに決まってる、きっと笑顔で、どーしたの、そんな急いで、って、いつも通り出てくるに決まってる。
そこまで考えて、しおりはそれを確かめにいく勇気が自分にないことに気が付いた。涙がとめどなく流れ落ちる。どうすればいいのか分からずに、自転車置き場でずっとうずくまっていた。
かなえが死んだなんて、絶対に認めたくない。でも、もし、彼女が出てこなかったら、もしどこにもいなかったら、と想像しただけで怖くて足がすくんだ。
トーク画面をもう一度見返した。未読のままの画面を見つめながら、涙がとめどなく流れ落ちていく。その前の会話、その前の前の会話、と、かなえとのやり取りをさかのぼった先に、あのQRコードがあった。
しおりは思わず両手でスマホを握りなおしていた。
「なんでも叶えてくれるんでしょ、どんな願いも叶えてくれるんだよね? だったら、かなえを返してよ、かなえを返して!」
アクセスした画面に、泣き叫びながら、打ち込んでいた。
内蔵カメラがぼうっと点灯する。涙でにじむ光をみつめ、それから表示された画面に視線を落とした。
「あなたには目がありますか」
「あなたには手がありますか」
「あなたには足がありますか」
しおりが答えを選択する前に、質問が次々と表示されていく。急に怖くなって、「なによ、これ!」と、しおりはスマホを叩きつけた。
目をそむける直前、「あなたには心臓がありますか」という文言が、バグが生じて画面いっぱいに表示されているのが見えた。
かなえは、住んでいたマンションの階段から飛び降りて、ほとんど即死だったという。
まるで、足が治るのを待っていたかのような行動だった。ベッドに腰かけて、痛みがあるかどうか確かめるみたいに、足首を回しているかなえの様子を母親が目撃している。
思い切り飛び込んだのか、かなえは階下から距離のあるごみ置き場の屋根に、一度ぶつかって地面に落ちていた。
通夜には行けなかったが、告別式には出席した。クラスメートが順々に焼香を上げる中で、しおりはどうしてもかなえの遺影を見ることが出来なかった。遺族の意向か、損傷が激しいのか、かなえの遺体が安置された棺は、顔の部分の扉が閉まったままになっていた。
ほとんど眠れないまま、数日が過ぎて、いつの間にか週末が来た。
北村君は毎日のように連絡をよこしてくれていたが、しおりは何も考えることが出来なかった。
待ち合わせの場所に向かったのは、彼に会いたかったわけではなく、もともとそれが決まっていたからだ。約束を取りやめにすることや、彼と話さなくてはいけないことを、考えただけでも億劫だった。
「残念だったよな。倉本」
憔悴しきったしおりの顔を心配そうにのぞきこみ、気遣ってくれた。
しおりの手をそっと握り、北村君が歩き出す。好きな人と手を繋いでいるのに、すべてが色あせて、しおりにはどうでもよくなっていた。
かなえが亡くなったと分かった日から、止めることが出来ない考えがあった。それは、あれにアクセスして「北村君と付き合いたい」と入れたこと、そのとき親友はいるかという質問に対して、イエスと答えたことだった。「交換条件」という単語が、一度頭に浮かんだら、もう二度と消えなかった。もし、そうなんだとしたら? 私は何かと知らないうちに契約させられていた? でも何と? 自分が何を考えているのか、自分でもよく分からなくなっていた。でも、もし、そうだとしたなら、それをやったのは私だ...私がやったんだ...。
「俺さ」
北村君が口を開いた。
「倉本に、ちょっと相談してたんだ。高橋のこと、気になるって」
手を繋いだまま人混みを歩いていた。
「しおりはめちゃめちゃいい子だよって、私の自慢の親友だから間違いないよって、倉本言ってたよ。早く告白しちゃえって、押されてさ」
途中まで黙って聞いていたしおりは、嗚咽を抑えきれなくなった。
テニスでも負けて、好きな男の子も取られるって、かなえのこと、嫉妬してごめんね。
「そんなつもりじゃなかった」
「高橋?」
泣きじゃくりながら、戻ってきてほしい、とまた思った。
かなえを返して。
強く願って顔をあげると、涙でかすんだ景色の中に、ふと彼女の姿が見えた気がした。
横断歩道の向こう側に並ぶ人々の間に、制服姿のかなえが立っていた。見間違いではなかった。
「かなえ?」
しおりの小さな声が聞こえたみたいに、かなえがにっこりとほほ笑み、こっちに向かって手を振った。
「え、え、どういうこと」
自分の目を疑いながらも、嬉しさと興奮の混じった強い感情に襲われた。
「え、やだ、ねえ、かなえがあそこにいる!」
「高橋」
「ねえ、見えるでしょ? ねえ、ちゃんと見てよ、かなえがあそこにいるってば!」
かなえが口をぱくぱくと動かしている。
「なに? 聞こえないよ!」
車の往来のせいで、声はここまで届かない。
かなえの方に行こうとする自分の腕を、誰かがすごい力で引っ張っていた。
「なにすんのよ、離してよ」
逆側に引っ張る引力が鬱陶しくて、イライラした。渾身の力を込めて体をゆすったら、一気に振り切れた。
信号は青だ。しおりは思いっきり走り出した。車のクラクションがすぐ近くで聞こえたけど、そんなこと関係ない。足を動かすたびに、かなえの姿がどんどん近づいてくる。
「かなえ!」
叫びながら思い切り抱きついた。
「しおり」
いつもの声でかなえが答える。
やっぱり生きてたんだ。懐かしい声に安堵がこみあげる。本当に心細かった。
「ああ、よかった、やっぱり死んだなんて嘘だったんだよね、なにかの間違いだったんだよね、もう、心配させないで。もうどこにもいかないでよ」
ごめんね、ごめんね。涙が流れてとまらない。
かなえを見上げると、彼女は困ったように笑っていた。それから、
「もう。来ちゃだめって、言ったのに」
と、悲しそうに言った。
かなえが痛みに耐えるような表情で遠くを見つめている。おそるおそる振り返り、しおりもその視線の先を追いかけた。
血だらけの女の子が奇妙な形で道路に横たわっていた。顔が見えないのに、それが自分自身であることが分かる。
彼女の手に持ったスマホが、ねじれてこっちを向いている。
ああ、そうか。やっぱり叶えてくれたんだ。
そこにはあのQRコードが白く光って表示されていた。
QRコード 東出時雨 @higashiden
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