魔歌不思議 オレの愛と人生はバラードだった

マイルス

第一部 第一話 朝ジャズ

 Altec Lansing A7スピーカーにほぼ頭を埋めてジャズを聴いていた。EHのピアノは今朝の天気にふさわしくご機嫌にスウィングして、ピアノの向こうで「うー、うー」と唸っているのが聞こえる。

「マイルス君、珈琲置くよ」と言われて、目を開ける。


 マイルスと言っても本名ではない、初代のバンマス(バンドマスター)Gが付けた。

その当時はそんな感じで、フレディだのボビーだのがいた。好き嫌いに関係なく、通り名は独り歩きした。


 街中この名で呼ばれて、誰も本名を知らない。マイルスは面倒くさいので自分の名前は忘れた。この名前でツケ(後払い)も利く。

この店もツケが利くが、ここの珈琲はやっぱり美味い。浅炒りの珈琲でブラックが美味い。客が砂糖やミルクを入れるとマスターが睨み、少し悲しそうな顔をする。

細いガラス窓から朝日が差して来て珈琲をかき混ぜる。そういえば “Black coffee” という曲もあったな、とマイルスは思った。


 マイルスがこんな時間にゆっくり珈琲を飲んで音楽を聴いていられるのも、バンドマンにとっての営業開始は夜の7時半だからだ。リゾートホテルのバーを数ステージこなし、夜中にもう一軒市内のクラブを掛け持ちをする。実働時間はその更に半分位で、世の中をなめていると言われても仕方のない人種だった。


 レコードが少しノイズを立てて止まると、今度はバイブのBHがかかった。これも今朝にふさわしいサウンドだ。彼のソロをなぞる。しかしマイルスはコピーはしない。どんなに名フレーズであっても...

食べた音楽がそのうち、身になる。ただそれを待つ。


 音楽が変わる。AFのフリューゲル・ホーンが少し二日酔いの血を綺麗にしていく。この人は外連味が少しもない。お気に入りの一人だ。

あまり愛想のないマスターはマイルスのテイストが分かっているのか、客の少ない朝だからか、レコードでどうだと言ってくる。マイルスは「ありがとう」と、つぶやいた。



 マイルスは店に入る前に偶然出会った洋子の事が、気になっていた。本当に久しぶりに会った洋子は嬉しそうに「結婚するの」と、言った。中学のころの憧れの洋子からそう言われると、無性に寂しくなった。付き合ってもいないし、声もかけていないくせに...

 洋子のたまらなく明るい笑顔は健在で、マイルスはどうして洋子をほっておいたのだろうと悔やんだ。「お茶でもどう?」と、誘ってはみたが断られた。人のフィアンセ誘ってどうするんだとも思った。洋子のような背の高い娘に憧れただけかもしれなかった。


 そう言えば、同じ中学の部活のフルートの娘も長身だった。誰も来ない部活に、何故かマイルスとその娘はいつも来て、練習もせず話ばかりしていた。思えばデートでもしていたのだろうか?「彼女をすごく好きだ」と、その頃思っていたのに、家まで訪ねて行ったのに、高校に入って完全に忘れた。なんて奴だ。それなのに洋子ちゃんは無いだろう。




 音楽にハマったきっかけもこの頃だった。テニス部で1年間、一所懸命ドブに入った球を拾ってきれいにして乾かして上級生に渡した。コートに入るどころか球も打てない。素振りだけが許された。

2年生になって、いよいよコートに立てると張り切って部活に行くと、3年生から

「お前は除名だ」と、言われた。

「何故ですか?オレあんなにまじめにやったのに」と、言ったが

「お前は今日からあそこだ」と、ブラスバンドの部室を指さした。

「えっ?」


 子供だったからか、反論もせずにブラスバンドの部室に行くと、待ってかのように

「何がやりたい?」と、訊かれた。

「何がやりたいかも何も、何故ここにいるのかも分からない。何が起きているんだ?!」と、彼は思った。

「何がやりたいんだ!」と、怒ったように先輩はもう一度言う。

「トランペット」それしか思い浮かばなかった。

「そうか。まずはドラムからだな」と、言ってスティックを渡された。

「なんだよ、じゃあ訊くなよ...」と、思ったが逆らえなかった。


 ドラムのマーチの譜面には、裏打ちのビートが書かれていた。今ならアフタービートだろうが、それは黒人がやるようになってからの話だ。最初はこれがなかなか難しかった。相当練習したのに、初演の楽器はシンバルだった。いいかげんにしろ...



 2学期になって部室から3年生が受験でいなくなる。夏休みの間持ち帰ったトランペットで猛練習したマイルスは、どの曲もこなせるようになっていた。時々見に来る先輩を尻目に、猿山のボスになっていた。どうもこの部活の移動は、彼の音楽のテストの成績を見た音楽教師が、勝手に決めたものみたいだった。今でいえばスカウトされたのか?



 3年生になって新任の音楽教師が入って来た。野上先生。大学院を卒業したばかりの彼に

「先生、バンドやろうよ、ピアノやってよ」と声をかけた。

「ああ、いいよ」と、二つ返事でOKを貰えた。


 このバンドは同級生がびびって実現しなかったが、野上先生はマイルスに興味を示したのか、

「お前、コード教えてやろうか?コード知ってるか?」と聞いた。

「いや知らないけど、教えて...」

これで毎休み時間に職員室を訪ねることになった。周りから見れば勉強熱心な生徒に見えただろうか?実際には学校の授業とは全く違うのに、それは二人だけの秘密だった。



 夏休みに入ろうとする頃に野上先生は、

「何でもいいから編曲して来い!」

「オレやったことないです」

「いいからやれ!」

多分、作曲科を出た野上先生は何かを期待していた。

それは目指した何かなのか、捨てた何かだった。


 少し後で知ったのだが、野上は地元では有名なジャズピアニストだった。活動は学生の間の僅か4〜5年の間だったが、プロから一目も二目も置かれていた。彼の家にはオープンリールのデッキがあり、そのテープの中の彼はまるでRed Garlandだった。


 家業の旅館を継ぐはずだった野上は親に、「現役で合格しなかったら家業を継ぐ」と言ってチャンスを貰った。期間はたったの一年間だった。

まったく弾けなかった彼のピアノは血染めのピアノとなった。

元々才能があったのだろう。一発で作曲科へ合格して、夢が始まったが、ジャズピアニストのままでいる事は叶わず、教師になった。その夢を託そうとしているのか...?


 野上は口数が少ない。普段は怖そうな難しい顔をしている。

しかし一度グランドピアノを買った時などは、

「俺、グランド買ったんだ、見に来るか?」とマイルスを家に誘った。見せたかったのだろう。

狭いキッチン以外は一室きりの家で、野上はどうだと言わんばかりだった。

「先生はどこで寝るんですか?」と聞くと、

「決まってるだろう、ピアノの下だ!」と、すごくうれしそうに言った。普段あまり見ない笑顔だった。


 とにかく毎日アレンジ(編曲)を野上のもとに届けた。

ピアノで弾きもせずちらっと見ただけで、書いたスコア(全楽器が実音で書かれた縦に長い楽譜、1枚で4~5小節しか書けない)を、思いっきり赤鉛筆でぐしゃぐしゃにして

「書き直せ」と言った。どうやるか、何が悪いかは教えてくれない。


 「赤鉛筆は中々消せないんですけど...」と、心の中でつぶやく。容赦なしだ。

「鬼...」と思ったが、翌日にはまた書いて戻ってくる。

大体、楽器の音域や記譜の方法も定かではない。部室の楽譜を見たり、図書館に行ったり、楽器屋で買わない楽譜を何時間も眺めたり、マイルスはいろいろ試してみた。


 血染めのピアノならぬ、赤鉛筆染めの楽譜を持って行った夏休みも終わりの頃、

「よし!」と野上は言った。


 今晩も書き直しだと思っていたので、拍子が抜けた。喜びは無かった。仕事はこれで終わりではない。パート譜に書き写して、人数分の楽譜を作る。それで夏休みは終わる。

 

 帰りの自転車を漕ぎながら、段々喜びが込み上げてきた。とにかくあの「鬼」のOKを貰ったのだ。イエー!


 曲は秋の文化祭で披露された。周りの評判は上々で、一気にスターダムかと思った。



 それで番長に呼び出された...




 市民オーケストラがあると聞いて、主催者の自宅を訪れた。参加したい旨を伝えるとすんなりと迎えてくれた。


 そこで出会ったトランぺッターがケンちゃんだった。年上のケンちゃんはマイルスの知らないことを沢山知っていて、話を聞いているだけで、世界が開けるようだった。性格は対照的だったが、すっかり彼を好きになってしまった。


 オーケストラの練習が終わると、彼はリズという喫茶店にマイルスを誘った。中学生でそんな場所に行ったことはなかったが、喫茶店というかパーラーというか、規模の大きい店で熱帯の観葉植物が沢山あって、その中でバンドが演奏していた。生バンド自体初めてだった。


 先程のクラッシックとは真逆の音楽の洗礼を受けて、心が浮き浮きとした。聴いたこともない曲だったが、躊躇することもなく食いついた。音楽が一気に広がった。ジャズという音楽だと、ケンちゃんは言った。


 ケンちゃんはすでに大人だったのかもしれない。甘えることなしに世の中に突っ込んでいた。彼はマイルスのヒーローだった。


 このオーケストラの練習曲でベートーベンだったと思うが、トランペットの楽譜の最初に250何小節かの休みの曲があった。必死で数えたが230か231でケンちゃんとずれた。指揮者は一度もその場所を教えてくれなかった。教えるのが指揮者だろう。そのトランペットの場所の直前からの練習もなかった。クラシックは無理だと思った。曲の自分の居場所が分からないのに、吹けるはずがない。


 人は二種類いると思った。野上先生やケンちゃんみたいに方向を指さしてくれる人と、指揮者なのに示さない人だ。その時は大人になるのが憂鬱で怖かった。

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