不誠実な恋でした

武蔵-弁慶

1話目

ツいてない。本当に俺はそう思った。

一人、カラカラと自転車を押して家に帰っていた。夜は更けて、ホテルとかのネオンが一際輝きをます時間帯。つまり、深夜で、日付が変わるか変わらないかの時間帯だった。カラカラの寒風が俺に吹き付けてきて、頬を伝う涙を乾かしていった。つい、2時間前に俺は振られたのだ。元々、ノンケで告白に成功するとも思っていなかったのだけど。

再び涙が溢れて、俺は既にグチャグチャに湿っているハンカチで涙を拭った。

正直、死にたいと思っていた。失恋したばかりで、世の中の全てがどうでも良くなってた。そして、それ以上に俺自身の命がどうでも良くなってた。

フラフラと自転車を押す俺は、傍から見れば不審者に間違いなかった。

とにかく、普通に家に帰る気になれなかった俺は、普段なら通らないような道に足が向いた。ちょっと遠回りになる住宅街を抜けることにした。深夜の住宅街は、その家に本当に人が住んでるのか疑いたくなるくらい静かだった。家の明かりはほとんどなく、街灯のみが明々と道を照らしていた。

地面を見つめながら歩いていたからだろう。

ある家の前に差し掛かった時、ローファーが視界に入ってきた。パっと視線を上げると、家の前で頭を下げて体育座りしている詰襟の子がいた。ケツの下にはダンボールを敷いており、地面の冷たさを極力カットしようとしていることが伺えた。

え、この子なにしてんの?

泣きすぎてぼやぼやになった脳ミソでも、流石におかしいって分かった。深夜だし、寒いし、なんか家の前に蹲ってるし。素知らぬふりして通り過ぎればよかった。なのに、俺、やっぱり頭がおかしくなってた。

「何してんの?」

って、鼻をズビズビ鳴らしながら、その子に問いかけた。そうしたら、その子はユルユルと顔を上げた。マスクをしていて、目元しかわかんなかったけど、絶対に綺麗な子だろうなって思った。ちょっとロン毛で幼い感じもした。マスク越しのくぐもった声で、その子はこう言った。

「……休憩」

休憩なら他所でやれよってことなんだけどな、何故か俺はそれを信じちゃった。

「そっか」

それだけ答えて、俺は自転車を脇に立てて、その子の隣に座った。段ボールなんて持ってないから、勿論地べた。冷えたアスファルトが俺のケツから体温を奪っていった。

「……何」

「ん? いや、お前も休憩なら俺も休憩ってこと」

俺は空を見上げた。住宅街の空は電灯に照らされて、星なんて一つも見えない。ただ、濃い青色がのっぺりと広がるだけだ。

「お兄さん、バカなの?」

その子に言われ、俺は空を見つめたまま答えた。

「おー。バカだぞ。コリもせずに友達に惚れて振られるし」

街灯がぼんやりと滲んだ。

「失恋?」

「失恋、だな」

「ふぅん。お兄さんも『僕』と一緒なんだ」

その子がそう言うものだから、俺は変に親近感が湧いた。失恋したって、たったそれだけの事なのに。

「お前も、失恋したの?」

「失恋……。そうかな。失恋に、なるかな」

その子は曖昧な様子で言った。

「ふぅん……。どんな奴?」

「何でそんなこと、言わなきゃいけない訳?」

「ただの好奇心」

俺は、ズビッと鼻をすすって答えた。シンシンとした寒さが身に刺さる。

その子は、呆れたように黙って、そして俯いた。どうやら、何も話してはくれないらしい。だから、俺は勝手に話し始めた。

「俺はさ、友達に恋したんだ。いい奴でさ、俺が困ってると、いっつも助けてくれる奴だった」

俺の脳裏には、アイツの姿が浮かんだ。一緒にフェスに行った時の姿。熱された会場に、俺たちも毒されて狂ったように騒いだ。学食でアホみたいな話をしている時の姿。俺の馬鹿話を本気で面白がって、自転車で県内一周をした。課題を手伝うために、お互いの家に泊まり込んだ時の姿。真剣なアイツが、妙にかっこよく見えた。

「一緒にいて、心地よかった。楽しかった。だから、それ以上を望んだ」

コイツなら、もしかして、コイツなら。

そんな思いを持たせたのは、アイツからだった。

お互いに、酷く酔っ払っていた。アイツは、彼女にフラれたばかりで、俺はその付き合いとして呑んでいた。きっと、人目がないのがダメだったんだろうな。

『お前が、女なら良かったのになぁ』

そんな言葉をアイツは零した。そして、俺の頬に手を当て、そっと顔を近づけた。チュッと、俺の唇の端に、暖かいものがそっと触れて離れた。

『あーぁ、本当。女なら良かったのに』

そう言い残して、アイツはそのまま眠ってしまった。

バクバクと駆ける心臓、異常なほど熱い頬。俺は、しばらくその場から動けなくなったのだった。

「だってよぉ、キッカケ作ったのはアイツの方だぜ? んなことされたら、俺に気があるって思うだろ! 普通さ!」

視界がぼやけてきた。あぁ、目頭が熱い。

「……知ってたんだよ。こうなるって」

でも、止められなかった。

好きとは、恐ろしい衝動だ。

恋とは、凄まじい情念だ。

どうあがいても逃れられない、感情だ。

「絶対に無理だって、そんな訳ないって、諦めろって。そんなの何百回も、何千回も言い聞かせた」

事実、俺の携帯のボイスメモには、恋を諦めるための言葉たちが録音されている。アイツへの想いが湧くたびに、それを聞いて頭を冷やした。ドMなのか? 俺は。

「でもさ、心のどっかでは、期待してる。知ってた。そんなこと」

夢に何度もアイツは出てきた。俺に優しく微笑みかけて、そっと髪にキスを落とす。見ているだけで、鳥肌が立つような気障な行為だが、俺はそれを甘受する。その後、アイツは俺の背中に手を回して、ギュッとキツく抱きしめる。最後に、耳元でアイツはこう囁く。

『好き』

朝、目を覚ました時。俺は愚かな自分を呪い、醜くも、期待する心を怨んで涙を流す。そうでもしなければ、胸に渦巻く激情を、どう扱えばいいのか分からなくなるからだ。

「結局、一番の特効薬はアイツにフラれることなんだよな……」

本当に、この薬は良く効く。何度抜いても生えてくる草のように、俺の心に根を張り離れなかった恋心は、今では全て枯れ果てていた。ズビ、と垂れてきた鼻をすする。はぁ、と隣でため息が聞こえて、ポケットティッシュが差し出されていた。

「……サンキュ」

受け取ったティッシュで鼻をかむ。ついでにもう一枚使って目元を拭う。塩辛いそれは、さっきからずっと垂れ流しだ。くしゃくしゃに丸めたティッシュはポケットに突っ込んだ。

「僕は」

ん、と俺は隣を見る。サラサラの黒髪が街灯に透かされて影ができている。

「僕は、友達でも無かった」

「……それ、は」

お前の失恋の話?

俺の問いかけには応えず、そいつは言葉を続けた。

「僕よりずっと年上で、大人で……ずるい人だった」

「ずるい」

「最初は、違った。僕のほうから近づいた。理由はお金。僕はお金が欲しかったから」

「そ、れは」

お金で己を売る、つまりはそういうことなのだろうか。ついつい、俺はそいつを凝視してしまう。詰襟は学生の象徴で、大きな瞳は幼さの証である。

「ただ、ご飯食べに行って、ちょっとお小遣いをもらうバイト。別に売春してるって訳じゃないし、フツーだよ、こんなこと。稼ぎがいいからやってるだけ。ただ、それだけ」

「そ、か」

衝撃に思わず言葉が詰まるが、そいつは気分を害した様子もない。俺のような奴の反応にも、慣れているのかもしれない。

「今までと同じだと思ってた。結局は僕のことなんて見てない。僕の見た目だけ、それだけのためにお金を払う人たちと一緒だと思ってた。ご飯食べて、ご機嫌取りして……ホテルに行かない分だけ少なめのお小遣いをもらう。だって今までがそうだったから。あの人もそうだと思ってた」

でもさ、でもね。

「初めてだったんだぁ、『ちゃんと食べてるか』って」

クフクフと幸せそうにそいつは笑う。大切な宝物を、そっと手に取り自慢するように、暖かな色を表情に乗せる。

「だって、ご飯食べに行ってるのにさ。何言ってるんだって思うでしょ。すごい心配した表情で、『君は、もっと食べたほうがいい』なんてさ。世話焼きジジイかよって……」


いっぱい、いっぱい色んなものを食べさせてもらった。ご飯だけじゃなくて、色んなところにも行った。プラネタリウム、水族館、映画館に博物館。肉体も、精神も、カラカラに飢えてた僕に、たくさんのものを与えてくれた。


「僕の方から言ったの、お金はいらない。お金はいらないから、それでもいいから僕と会ってって」

幼い、幼い子供の口調。青臭いなんて言葉じゃ片付けられないような、ミルクのような甘い口調。

あぁ、こいつにとってその人は。その人、は。

「そしたら、縁が切られてこのザマって訳」

凍えた声で、締めくくられた。冷たい現実が鋭く肌を撫でていく。

「ここ、あの人の家なの」

「あの人って言うのは……今の」

「うん、そう。迷惑かけてやろうってさ! 腹いせにってね!」

きんきんに冷め切った言葉がド深夜の住宅街に反響する。

「知ってたんだぁ、僕!! あの人には、奥さんも子供もいるって。知ってたんだ! だから、だから、こんなことして! あの人の幸せを壊してやろうって!」

街灯以外の灯りが無いのは、みんなベッドで寝ているから。絶対的な己の安息の場所で、正しい幸せの形の中にいるから。

苦しそうに、もがくように、そいつは涙を流していた。

「最低だ、僕……」

しゃくり上げつつ漏らした言葉は、紛れもない、こいつの本音だろう。

「お前、は」

寒空に、冷えた頭が言葉を紡ぐ。俺のカラカラに乾いた心でも、この子供に掛けてやれる言葉があった。

「何も、悪くないよ」

さっきもらったポケットティッシュを、そいつに差し出す。頬に伝う涙を拭うために外されたマスクの下は、最初に思った通り整っており、そして、とても幼かった。

「お前は、何も、悪くない」

だって、言ってたじゃん、お前も。『ずるい人だ』って。

そうだよ、ずるいんだよ。

「ずるいんだよ、皆んな、みんな! こっちをその気にさせといてさ、それで、その後は? 何事も無かったみたいに日常に戻ってさ!」

思い出されるのは、あの日の翌朝。

待てど暮らせど訪れない睡魔に一睡もできなかった翌朝。どんな顔すればいいか分からなくて、不安になっていたあの朝。

『あー、ごめん。昨日のことは犬に噛まれたとでも思ってさ、忘れてよ』

『ちょっと、センチメンタルになりすぎてたわ』

『女だったらとかキモすぎたわ!』

『俺とお前の仲じゃん?』

お前と俺の仲って何だよ。

許してちょーだい、忘れてちょーだい。お願い!

そんな風に可愛こぶるお前に『しゃーねーな。忘れてやんよ』と答えたのは俺で『おっ、さすが親友! 話がわかる〜』なんてふざけたのはアイツ。

でも、忘れることなんてできない。犬に噛まれたって何? 俺がされたのは、キス紛いの接触ですが? ニアキスですが。

センチメンタルになって、俺に絡みまくる程度には、お前にとって俺って重要なんじゃん。大切なんだろ? 

女だったらって、俺は男のお前でも十分いける。もし仮に女でもいける気がする。俺は、お前なら性別なんてどうでもいいんだ。

なのに、なのにさ!!

親友って、恋人とは一番遠い存在だ。

ちょっとの悪ふざけも、重大な相談も。できるのに、大切なのに、それでも、恋愛感情には至らない。俺とお前の仲なんて、親友じゃなければいいのに。よかったのに。それでも、アイツの一番側にいれるのは、結局親友って仲で。だったら、俺はその皮を被り続けるしかないのだ。

「結局、アイツが悪いんじゃんかよぉ……」

みっともなく、また涙が出てきた。だめだ、やっぱり、まだ俺は、アイツのことが。

「お兄さんも、悪く、ないもんね」

ヒクヒクと濡れた声を掛けられる。

「僕たち、悪くないもんね!!」

泣ぬれた叫び声が、消えていく。どこかの犬がワンワンとつられて鳴き始めた。

「お兄さん、立って!」

「……あ?」

「行こ、お兄さん」

先に立ち上がったそいつは、俺に手を差し出しつつそう言った。いいのか、とは聞かなかった。代わりにそいつの手を取った。手袋をつけていない手は、どちらとも、十二分に冷たかった。


「……なぁ」

「何?」

「どこ行くんだよ」

「さぁ? 知らなーい」

楽しそうに詰襟が前を歩く。住宅街を抜けて、国道沿いを歩く。深夜ということもあり、車通りは少ない。

俺はカラカラと自転車を押しつつ後を付いていく。これ、警察とかに見られたら面倒なことになるんじゃね? ぐじゅぐじゅの脳みそでも思い至った。

「あのさぁ」

「どこでもいいじゃん」

ピタリと足を止め、そいつは振り返って言った。

「どこでもさ、だって僕たち、置いてきたんだから」

「何を」

「……恋心。軽くなった心の分だけ、何か詰め込まなきゃ。それには、あの場所は不都合だよ」

「は……」

くるりと綺麗に回れ右。

そいつは再び背を向けて歩き始めた。

置いてきた、恋心を。

果たして、本当にそうだろうか。本当に置いて来ているのだろうか。だって、だって俺の心には、まだ、アイツが。

グッと、奥歯を噛み締める。

未練たらしく引きずっている。

全身に転移する癌のように、この感情の完治は難しい。

「……海行くぞ、海」

スピードを上げて、追いついた幼い背中にそう声をかける。

「は?」

「どこでもいいんだろ。なら、海行くぞ」

「お兄さん正気? だって、ここから海なんて、めちゃくちゃ遠いよ?」

「後ろ、乗れ」

一つのため息、そしてキッという自転車の悲鳴。サドルに跨った俺の腹のあたりに回される腕と、背中の温もり。

「しっかり、しがみついてろよ」

「はーぁーいー」

間延びした返答に、俺は重たくなったペダルを漕ぎ始めた。


「ねー」

「っん、だ、よ!!」

ゼェゼェと肩で息をしつつ、俺は答えた。あの場所から、いかに海が遠いかは知っていたけど、やっぱり、キツい……! 緩やかな上り坂に嫌気を覚えつつ、前を見据える。

「なんで、海?」

「あぁ!? 理由、いる、のか?」

「どこでもいいとは言ったけど、だから海に行くってなった理由はわからないから」

理由、理由ね。

ギ、ギと自転車は軋むような音を立てるけれど、前に進んでいく。ペダルに乗せる力は二人の人間の重さの分だ。

「お前、が」

「僕が」

「お前が、あの家の前に、いたの……っと」

「……うん」

「同じ、理由」

坂が終わる。天辺で、少し休憩。ペダルから足を地面につける。後ろに乗っていたやつも、自転車から降りた。ケツを摩っている様子から、やっぱり荷台の乗り心地は最悪なんだな、と思った。

「仕返し? 幸せを壊そうと?」

「おー」

早くて浅い呼吸から、少しずつ、ゆっくりとした深いものへと変わっていく。

「何があったの」

「約束、してた。一緒に、水平線の朝日見るって」

それこそ、自転車で県内一周旅行をしていたときだ。普段とは違うことをしたい、と二人して考えた『やりたいこと』の内の一つ。自転車旅の道中では、毎日クタクタになって自転車を漕いでいたから、朝日が昇る時に目を覚ませたことなんて無かった。だから、いつか絶対、二人で水平線を昇る朝日を見ようって約束してた。……他愛もない口約束だ。

「仕返し、約束、破ってやる」

へへ、と力無い声で笑って見せた。

「へぇ、そっか」

詰襟は、そう言うともう興味を無くしたのかストレッチを始めた。

息もだいぶ落ち着いてきた。もう、行けるだろう。

「6時46分だって」

「……何が?」

「日の出」

ほら、と言いつつ詰襟が見せてきたスマホの画面には、現在地の日の出時刻が表示されていた。

「海だから、多少変わってくるかもだけど。多分、これくらいには出るでしょ、太陽」

「……サンキュ」

「ん、どーいたしまして」

スマホを片付け、詰襟は俺の後ろに回った。キ、と自転車が声を上げ、背中に温もりが戻ってきた。

「いくぞ」

「今、4時53分。あと少しで海だし、頑張ってー」

覇気のない応援に、俺は苦笑しつつ、ペダルを漕ぎ始めた。



「6時半…」

フゥフゥ、と荒い息が続く。

何とかやってきた海。堤防の側に自転車を停めて、二人で海岸に降りた。のっぺりとした濃紺の空が、だんだんとその彩度を上げていく。今ではもう雲の形もはっきりしている。

肩でしている息を何とか整えつつ、海の方を見やる。うっすらと、水平線の下から、光が漏れ始めている。

「お疲れ様、お兄さん」

詰襟は砂浜にそのまま座っている。そして、自らの隣をポンポンと叩いた。座れってことだろうな。

俺は大人しく隣に座る。

生臭い潮の匂いと、波の音。堤防の後ろでは、早起きな人が車を走らせる音も聞こえる。朝が近い。

「きた」

詰襟の言葉に、知らず下げていた視線を上げる。

水平線にヒヤリと差し込む鋭い光。光はそのまま、広がっていく。点から、線へ、そして面へ。日の出だ。

ゆっくり、ゆっくりと太陽が昇る。海面が日の光を浴びて、キラキラと輝く。目が焼けてしまいそうなほどの、煌めき。

「……綺麗」

「そうだな」

思ったより、穏やかな声が出た。

あぁ、昨日が終わる。今日が始まる。

よっこいせ、とおっさんくさい掛け声と共に立ち上がる。そして、両手を口の側にあてて、叫ぶ。

「勝手に、先に見てやったからなー!! バーカ!!」

目元が自然と潤む。これはあれだ、朝日が眩しすぎるからだ。

「バーカ!! お、奥さんと幸せになりやがれ!! バーカ!!」

隣からも元気な怒号が飛ぶ。湿ったような声なのは、ご愛嬌というやつだろう。気にしたら負けだ。

バーカ、バーカ!! と小学生のような語彙力で海に向かって叫ぶ。

ひとしきり叫んだ後、スッキリとした気持ちで詰襟を見る。こちらも憑き物が落ちたようにさっぱりとした表情で俺を見ていた。

「ふ、くふふふ!!」

「は、はははは!!」

どちらからともなく漏れる笑い声。ひとしきり、腹を抱えて笑った。


「ねぇ、お兄さん。ありがとう」

バス停でバスを待つ間に、詰襟はそう言った。

「あ? 何だよ」

「最初さ、僕、お兄さんのこと変な人だって思った」

「あぁ?」

「だってそうでしょ、急に隣に座ってくるし。不審者って感じ」

思い出したのか、くすくすとそいつは笑う。意外と、よく笑う奴だ。

「それ、は」

痛いところだ。俺自身あの時は、自らのことを不審者のようだと思っていた。否定できない。

「でもさ、お話しして、僕のこと悪くないって言ってくれて……嬉しかった」

「おー」

まっすぐな言葉は、まっすぐそのまま俺の心に着地する。それが何だか擽ったくて、ぶっきらぼうに返してしまう。

「本当ね、僕、あのまま、あそこにいて、警察呼ばれて地獄絵図作ってやろうと思ってたの。警察と、あの人と、奥さんと、ご近所さんと……。世間体とか、全部全部ぶち壊してやろうってさ」

見るからに未成年。そして、体の関係はないとは言え、こいつの想い人がこいつのことを金で買っていたことは事実。それはとんだ地獄絵図となっただろう。あの、閑静な、幸せの巣でできた住宅街に、みっともない汚物が紛れ込むことになっただろう。

「今までのトーク履歴とか、録音とか証拠になりそうなもの全部持ってきてたけど、全部パー」

詰襟は握った右手を、手のひらを上向にしてパッと開いて、その手でスマホを取り出した。

「これで、終わり」

パパパと素早く画面を操作して、詰襟は俺にトーク画面を見せる。最後のメッセージは『お願いです。会ってください、好きなんです』という詰襟の懇願。既読はついていた。

「こーして、ね」

削除しますか?というアプリの問いかけに躊躇うことなく「はい」を詰襟は選択した。

「で、これも」

次に見せてきたのは画像フォルダ。ずらりと並んだ画像一覧に、優しそうな男性の写真と、可愛らしい少女の写真。

「こーする」

再び出てきた削除しますか?の文字にはいを選択。音声ファイルにも同じような処置を施す詰襟。

「ん?」

ぼーっと一連の動作を見ていた俺は一つ違和感を覚えた。

「ん、今の写真って」

「あの人と僕の写真」

「いや、あの女の子って」

「……まさか、気づいてなかったの!? 僕、女の子だよ!?」

「はぁ!?!?」

「まじか」

信じられないといった様子の詰襟に、俺は何も言えず「ご、ごめん……?」ととりあえず謝っておいた。


重たいエンジン音と共にバスが近づいてきた。

「それじゃ、お兄さん」

「じゃあな」

互いに手を振る。

バスに乗る直前に一度こちらを見て、ニコリと笑った。そして、バスは発車した。

アイツとは、もう会うことはないだろう。そう思った。

名前も住所も、連絡先も全て知らない。

知っているのは互いの失恋のみ。

もしかしたら、この先偶然にも出会うことがあるかもしれない。でも、その時俺たちは初めてと言い合うのだろう。素知らぬふりをして、今日のことを胸にしまって。

恋心の分だけ軽くなったところに、この朝日と潮の匂いと、そしてあの詰襟の存在を詰め込んで。俺たちは日常を過ごすのだ。何事も無かった振りをして、つぎはぎの心で、日常へと帰っていく。

ツいてないとはもう思わなかった。

一人、カラカラと自転車を押して家に帰っていく。

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不誠実な恋でした 武蔵-弁慶 @musashibo-benkei

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