第9話「理由」
列聖機関書記長オルグイユ。
私は反芻するように心の中でその耽美な役職名を繰り返す。
列聖機関書記長!
書記長とは、書記官の記した列聖伝を編集校正する最高責任者である。
また同時に、ソーマタージの管理監督を行うサンクトゥアリウムの最高責任者でもある。
すなわちソーマタージの評価のみならず生殺与奪を握る役職だ。
しかし、私にとってそうした職能は二の次である。
私がこの書記長という職位に価値を見出しているのは、それが聖女様へ奉仕できるもっとも尊い役職だからだ。
子どもの頃から、私はずっと聖女様に憧れていた。
理由はいくつかある。
私の家が代々、熱心な列聖派の信徒だということ。
そして、ソーマタージの記録を行う書記官を輩出する家柄だということ。
しかし、その何よりもの理由は子どもの頃の体験だった。
当時、列聖機関の書記長であった父に連れられて訪れた王宮の奥深く。
厳重に閉ざされたいくつもの扉を抜けて私はそれに出会った。
その時には子どもの私がなぜそこに入れたのかはわからなかった。
どんな幸運が働いたのか、それとも運命に導かれたのか。
とにかく、扉の先にそれはあった。
ビジュー王国、いや、このフェリシタシオンの至宝にしてビジューの国家機密。
国祖ジョワイエによって発明された、聖女様を封印する「贖罪の揺籠」である。
列聖派の信徒ならば誰しもが首から下げている、琥珀色の楕円の宝石をあしらったペンダント。
その宝石は、まさにこの贖罪の揺籠の形を模したものだ。
身につけた列聖派の信徒は、聖女様に背負わせた人類の罪を、このペンダントを見つめるたびに懺悔し続けるのである。
もちろん、幼い少女である私の首元にもペンダントが揺れていた。
いつも小さな手で握りしめ、祈りを捧げていたのだ。
その正真正銘のオリジナルが、私の目の前に聳え立っていた。
それは淡く神々しい光を放っており、その荘厳な姿を室内に浮かび上がらせていた。
または強く、または弱く、リズムを刻む様に明滅しているその様は、魔法と奇跡の力の源であるカトルエレマンが、この揺籠を介してこの世界を行き来しているという証拠だった。
私はそれをまるで生き物の鼓動のように感じた。
1000年の昔にその身を捧げた聖女様の息吹がその明滅のリズムに乗って聞こえてきそうな気がしたのである。
私は無意識のうちに、フラフラとした足取りで揺籠へと近いていった。
それは、中心部にある淡く輝くガラスの様なもので出来た楕円の球体部分と、自分の背丈よりも大きい、いくつものケーブルや機械に覆われた制御部分とで構成された巨大な装置だった。
さながらその有様は機械仕掛けのモンスターのようでもあった。
しかし、私は臆することなく前へと進んだ。
まるでこの揺籠に呼ばれている様な、不思議な気持ちだったのを覚えている。
手を伸ばせば届くほどに近づき、私は見た。
発光する楕円の球体の中に浮かぶ聖女様のお姿を。
そばかすのあるまだあどけないお顔。
少し癖のある肩で切り揃えられた栗色の御髪。
質素、いや、粗末であるとさえ言って良い純白の粗衣。
その微かに微笑んだ様な表情は静謐な穏やかさをたたえている。
とても1000年前に生きた人間とは思えないほど生気があり、今にも自然と目を覚ましそうな気配すらあった。
しかし、何より私の心を打ったのは、その痩せぎすな、私とそう年も変わらない聖女様の身体の小ささだった。
こんなにもか弱く小さな身体で、1000年の長きにわたり、この世界すべてのカトルエレマンを一身に引き受け続けているのだ。
聖女様がこの世界に遣わされていなければ、未だに世界は終わりなき大統一戦争の混沌に飲み込まれ、闇の中に沈んでいただろう。
聖女様はその小さな身を挺し、カトルエレマンを制御するという自らのソーマタージの力を永遠のものとするためにこの揺籠に自ら入られたのだ。
その魂の尊さ、慈愛の深さ、自己犠牲の高潔さ。
そうしたこの世の美徳全てが、この小さな身体に宿っているのだという事実が、私の全身を感動に打ち震わせた。
私は眼前の聖女様の、そのあまりにもの神々しさへの歓喜と恍惚に、涙はおろか失禁すらしてしまっていた。
私はこの生涯をかけて、この素晴らしき存在を守らなければならない。
全身をぐしょぐしょに濡らしながら、私は幼心に目の前の聖女様に固くそう誓ったのである。
列聖派はソーマタージを聖女様の守護聖人として規定する。
「その人智を超えた力を自ら律し、この世界の秩序と繁栄を維持するのがソーマタージの役割だが、彼らが一番に奉仕すべき対象は何か?」
「それはこの世界に秩序と繁栄をもたらす根本である聖女様をおいて他にはない」
そのような理論構築の元、列聖派は聖女様の守護聖人としてソーマタージを聖女様の次に重視している。
そうした列聖派の教義を教えられてきた子どもの私は、当然の様にソーマタージになることを夢見た。
しかし、それは運命が決めることであり、不運にも私にはその力はなかった。
私は挫けずに、それならばソーマタージ以外で一番聖女様に奉仕できる存在になりたいと思った。
偶然にも私の家は代々書記官の家柄だった。
私は家業を継ぐという建前ではなく本気で、聖女様を守るソーマタージを管理指導するという仕事に全人生を賭けようと決意した。
ちょうど5歳の時だった。
それから私は最短で書記官になるために猛勉強を続けた。
一日の大半を先祖代々受け継がれている書庫で過ごした。
食べる暇、寝る暇を惜しんで、歴代の書記官たちが記した1000年分のソーマタージの記録――列聖伝568巻を命をかけて暗記した。
10歳になる頃には、分厚い眼鏡がなければ本が読めなくなっていた。
しかし、私は誇らしかった。
その不自由さが、少しずつ聖女様に近づいているというこの身に刻まれた証に思えたのである。
私は15歳で書記官登用試験に合格した。
史上最年少だった。
着任式は10年前に一度訪れたきりの贖罪の揺籠の前で行われた。
列聖機関の現職書記長、書記官たちはもちろん、当代のソーマタージも居並ぶ厳粛な式典だ。
なぜ聖女様の前で行われるかといえば、書記官は列聖伝の執筆のためにソーマタージに仕える役職である。
そして、その仕える対象の最上流にいるのが聖女様である。
そうした理由により、この場が選ばれるのが伝統となっていた。
そしてこの時はじめて、幼い頃に私がここを訪れた理由が分かった。
あれは当時の書記官長であった父の離任式での出来事だったのである。
ふたたび私は、幼き物知らぬ少女ではなく書記官として聖女様の目の前にいる!
自らの10年の努力が実を結んだことへの胸に込み上げてくる歓喜と、再会した聖女様の麗しくも清貧な美しさに打たれた恍惚とが私の全身を支配した。
身体の奥を熱くさせる疼きと、気を抜けばこの歳にもなって失禁しそうなほどの感動に打ち震えながら、私は書記官への着任と聖女様への生涯の忠誠を誓った。
それからさらに15年。
その間、私は書記官として歴代最多の列聖伝を上梓し続けた。
列聖伝は単なるソーマタージの言行録ではない。
人々の規範として教会で用いられる教典の一つでもある。
ただの日誌や記録とは一線を画した格調高い表現が求められるのだ。
私は暗記した568巻の列聖伝の知識を総動員して仕事にあたった。
過去の優れた列聖伝の典故を踏まえながらも、独創を忘れず、曲筆を避けた筆致は高く評価された。
私の書いたことが模範とされ、ソーマタージのみならず、人々の倫理と道徳を向上せしめ、
世界の秩序と繁栄に寄与する。
これ以上の聖女様への奉仕があるだろうか。
私は書記官を天職として邁進し、眼鏡のレンズは更に分厚くなっていった。
そして気がつけば29歳。
独り身のまま女の盛りは過ぎ、普通であれば良き伴侶と家庭を築き、子どもさえいるだろう歳になっていた。
しかし私は後悔など微塵もしていない。
いまや史上最年少の書記長として、すべての書記官とソーマタージを管理監督し、列聖伝を編集校正する座に着いたのだから。
数代前の書記長であった私の父も使っていた、執務室の重厚な木製のデスク。
長年のインクが染み込み漆黒と化したその天板は、数多のソーマタージと聖女様の物語を紡いできた歴史の重みそのものである。
私が!
私こそが!
この世界で一番聖女様に奉仕する存在となったのだ!
私は革張りの椅子に腰掛けながら、25年の歳月をかけた達成感に陶然としていた。
その時である。
最悪の報せが入ったのは。
「H&S合衆帝国――U.S.Eからの渡航者に祝福の水晶球の反応が出た」
私は夢見心地から一転、冷や水を浴びせられたような気分になった。
U.S.Eとは魔法も奇跡も行使出来ない、神に見捨てられた土地であるアンフェールに建国された反魔法主義国家だ。
彼らは「純粋魔法批判」という口にするのも汚らわしい邪悪な教典を崇拝する。
その思想は、魔法と奇跡を人が堕落する悪と決めつけ、科学こそが人を進歩させるというものだ。
そのような、聖女様が贖罪の揺籠にその身を捧げて築き上げた、魔法と奇跡の理性的制御が秩序と繁栄をもたらすという、このフェリシタシオンの安寧を否定し、冒涜する思想は唾棄すべきである。
そして、そんな聖女様への崇拝の一欠片もない国の蛮族から、聖女様の守護聖人であるソーマタージが生まれることなどあり得ない!
聞けばその祝福の水晶球に選ばれたのはまだ年端もいかない少女だという。
しかし、そんなことは関係ない。
U.S.Eの邪悪なる教えに、指先ほどでも触れたのならば、それはこの世界での罪であり、聖女様への許しがたい侮辱なのである。
生まれながらにして清く崇高たる聖女様に、生まれながらにして卑しく不敬たる蛮族が関わることは万死に値する。
生きていることが聖女様への不遜である蛮族など、最高の奉仕者たる私が絶対に否定してやりますわ!
列聖機関書記長オルグイユの名にかけて、私はそう心に固く誓ったのである。
◇
早いもので、ビジューに拉致(だってそれ以外に言いようがないし)されてから一ヶ月が経ってしまった。
故郷のおばあさん、おじいさん。
私、レヴリー・O・マルシャンはなんとか元気にしてるよ!
はぁ、と虚しさにため息が出る。
空元気でも、そう自分を奮い立たせなければやってられないというのが今の状況である。
エクリによれば、このフェリシタシオンでソーマタージといえば下にも置かぬVIP扱いをされるという。
けれど私はいま、ビジューの首都ディアマンの端も端、率直に言ってスラム街と言って良い区画の廃教会に住まわされている。
オルグイユの嫌がらせで、「ソーマタージ見習いかつ聖女様への不敬を働くU.S.Eの蛮族に住まわせるサンクトゥアリウムはございませんわ!」ということらしい。
逆恨みもここまでくると清々しい。
というか、私はもともとビジュー国民だ。
三年前。
私が両親とともにビジューから合衆帝国へ向かう鉄道渡航の途上、私たちは魔法至上主義者の秘密結社である通称「魔法ギルド」によるテロに巻き込まれた。
乗客は私の両親を含めて全滅。
私だけが唯一の生存者だった。
ちょうどビジューと合衆帝国との国境線付近でテロが起きたため、唯一の生存者である私は合衆帝国側で保護された、というのがおじいさんが話してくれた経緯だ。
実のところ、私自身の記憶はこのテロの時に失われてしまって覚えてはいないんだけどね。
そうしたわけで、私は元を辿れば立派なビジュー国民なのだ。
もっとも狂信者であるオルグイユにはそんな理屈はまったく通じない。
…本当やれやれだわ。
でも、彼女がなぜここまで聖女に固執しているのか?
それは、彼女の胸元に揺れる琥珀色の宝石をあしらったペンダントを見ればわかる。
おじいさんから託された私の実の母の形見であるペンダントと同じものだった。
このペンダントは教会でも列聖派と呼ばれる、聖女を特に信仰する宗派の者たちが身につける信仰の証なのだ。
その中でも彼女は指折りの狂信者といえるだろう。
(まさかあんなのが沢山いるわけないわよね…。)
その琥珀色の宝石は、聖女が封じられている贖罪の揺籠をモチーフとしている。
その意味するところは、ペンダントを見るたびに聖女を揺籠に封じた人類の罪を思い出し、懺悔するためなのだという。
私個人としてはなんとなく後ろ向きで好きになれない教義だ。
私自身は物心ついたときから無宗教の合衆帝国で生きてきたので、信仰心など持ち合わせていない。
オルグイユを生理的に受け入れられないのはその性格だけでなく、そうした宗教的な生き方をする人間へのある種の嫌悪感があるのだと思う。
そしてそれは、彼女から見た私にとってもお互い様ということなのだろう。
…彼女の話はもう止そう。
いくら分析してもあの狂信は変えられないだろうしね。
もっと建設的で楽しいことを考えた方が人生は上手くいく。
おばあさんもよくそう言ってたし!
さて、今日も元気にやってきますか!
私は思考を切り替える。
まずは朝ごはんから、ということで私は準備に取り掛かる。
この廃教会で、なんと私は自炊生活を始めたのである。
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