第二章
ぐるぐると巻き付けた紐が固く結ばれるのに必要なモノは空気力学やら物理学の知識をひけらかす事も無く自明であり、ただ流れゆく時間である。おそらく現代科学で解明されていない神秘なのは相違ないが、忌々しい紐の束は履かれていないというだけでキツく結ばれてしまう。
裏を返せばこの原理は至極便利なもので、手元にある一組のバッシュは二足同士の紐を結び合わせて持ち運びに適した形に改良されており、ソイツを片手でやじろべえのようにぶら下げたまま僕は練習光景を眺めていた。
分厚い鉄格子の外側からである。
暫くして、正確には位置についてから数分経たずして、一人が気が付き駆け寄ってきた。
「そこで何してる?」
「オマエを待ってたんだろ」と僕は全身から被害者オーラを出しながら言った。
「なんで中に入らない?」
「入れる訳ない」
そう言うと奴は待っていたように笑い、持ってきたシューズを鉄格子の隙間を通して受け取った。"二足履き"なんてのをするのは奴を除けば他に居ない。
「なあ。挨拶してけよ」
何時までもふざけるソイツを気にせずにその窓を離れようとして、すると奴は屈んでまでして僕を引き止めた。体育館の下に付いてある地窓から外に居る人間は中が普通に見えても、向こう側では足元まで屈まないと外が伺えないからである。
「ちょっと待て」
引き止められた僕は数メートル先の自販機と友人への義理とを勘案して、ヒトとして大事な方を思い出した。
「じゃあとりあえず、外に出て来いよ」
ぼくが言い終わるのを待つやいなや、彼は窓からすぐに離れて汗を垂らしながら靴箱の方へ走っていった。僕は何というか、アイツのこういう潔い所が好きなのだ。
彼は――友人らには
「なんだよ」
「いや、用があるなら」僕は裏手にある食堂を顔だけで振り返りながら続けた。「お駄賃くらい貰ってもいいだろ?」
「部活中だぞ、オレは」
なるほど、財布の持ち合わせが無いと言いたいらしい。
「それじゃあ、ツケだな」
ガコン、という音は数百グラムの液量が自由落下した合図だった。食堂の中のまだ片付けられていない飲料メーカーのロゴの入った長椅子に仲良く座ると、二宮はまず僕の個人的問題を
「そういえば、向こうでもやらかしたんだって?」
「何にも知らないんだろ」
「ああ、何もな。確か、受注がどうとか…」
「なんで知ってるんだよ」
「そんな事よりさ」奴は表面のざらついたベンチを軋ませながらこちらを向き直った。
「散々で惨めな和田クンに、一つ良いハナシがある」
「興味ない」と口を衝いて出た。勧誘と上手い話は断るに限る。
「まだ何も言ってない」
「切り出し方が下手クソすぎるし、まさか、"貴重な"放課後に見合う話だったりするのか?」
「どうせ暇なクセに」
おかげ様で。
「だけど、これはお前に関係ある事だぞ」と二宮は意味ありげに言った。
「例えば?」と僕は先を促したが、大した期待はしていない。
この流れで意味深長な話になった試しがあるだろうか?
◆
三宮がまたあくせくと食堂を出て行くのを見送ってから、僕は重い腰を起こした。だけれど何か性急にやらなければならないコトだったり、必要に駆られて立ち上がったのではない。背景もなく漠然と立ち上がる、まあそういうのも学生の本分に違いないだろう。そしてこの場合は座って駄弁る相手もいないのにそのままでいるのは生産的でない、という合理的思考の為である。
学生服の裏地から
「アレ?先輩じゃないですか」
彼女は目ざとくこちらに気が付き近づいてくるが、ぼくは言い訳を用意してあったので焦りを見せる事なく少女と対峙した。
――『少女』というのは、実際言葉の通りで、彼女は大分小柄で声も態度も、言っちゃ悪いが容姿からも高校生らしい成長期途上のカンジが見られない。可愛らしくない、という話では無いけれど、トゲトゲした口調と態度は一体何人の不興を買ってきたのだろうか。
だが僕は彼女を大いに気に入っていた、それはある意味憧憬と言っていいかもしれない。彼女は現状と自身のプライドをしっかり自覚して、その狭間を巧みに進みゆく舵手だった。それは胸と顔が豊かで複雑な同級生(最低だが事実である)やご高名な生徒会長なんかよりよっぽど魅力的で、自己研鑽と自己否定を履き違えた僕らより遥か遠くを進んでいる。
色々言葉を取り繕いはしたが、彼女なりの魅力に惹かれているというのは否定できない。
それか気安く話せる相手のコトを勘違いする思春期特有の病の一種だろう。
「部活終わったの?」
「まだですよ。先輩こそ何してるんですか」
「何してると思う?」
「もういいですから」と彼女は大きな業務用カゴを僕の完全なる意識の外のどこかから取り出して、こちらに渡してきた。「手伝って下さいよ」
「申し訳ないけど、出来そうにない」
彼女は大昔のカートゥーンの如く手足から怒気を発散させながら説教を始めた。
「今度もサボろうったって、そうはいきませんよ」
「他の子は?」
「みんなはまだ部室に居ます、けどそうじゃなくて!」
鋭い怒りの矢印を受け止めながら、ぼくは答案を提出するように続けた。
「部長から聞いてない?一応休むって伝えておいたんだけど」
「本当ですか?」
「うん、聞いてないの?」
彼女はすん、となって少し考え込むと、急に頭を下げた。
「ごめんなさい。きちんとは確認してなかったです」
そこまでの話だろうか。こちらが申し訳ない気もするが、先に頭を下げた方が負けであるから意地でも謝りはしない。
「伝達ミス、なんてことがあるんだねえ」
「自虐ですか?」
「まさか」と言ったけれど、確かに咄嗟に出たにしてはひどく皮肉である。「それじゃあ。頑張ってね」
そして彼女を置き去り足早に、だけどなるたけ自然にその場を離れた。
◆
特別教室の棟に入り、階段を上がっていくとついさっきの後ろめたさは消え去っていた。自分の能天気ぶり、というより板に付いた嘘吐きぶりには感服モノで、今頃彼女も部室で更に怒り狂っている筈だ。でもまだ誤魔化し様はあるし、彼女を再び怒らせたいというほの暗い欲望以外に部室に近づきたい理由は持ち合わせていない。
階段を二階に上がって右手には理科講義室があり、お隣には定石通り準備室が設けられている。そしてその奥にはぴったり二教室分ほど壁ばかりで、完全に何も無い。
学園に眠る七不思議、とはよく言ったものだが、準備室に一旦入る機会があればそのカラクリは判然とする。僕は臭くないのが却って恐ろしくなるような古い木棚を通り抜け、乱暴に白いマスキングで上書きされた『演劇部』の扉を開けた。
エンマ居るかなー、なんて少し勘繰られればおおよそ準備してきた言い回しなんだろう、と分かってしまう声の調子はそれほど部屋全体には届かず、入り口近くに居合わせた一人以外には殆ど無視された。
「ワダさん?」
「うん」と僕は素直に返事した。
「勘弁してくださいよ」と彼は僕の顔を見て泣き崩れるように言う。「もうずっと野次馬が来てるんですから、冗談はやめて下さい」
「いや、冗談じゃなくてね…」
「部長がここに居ないコトなんて分かり切ってるでしょ?」
「まあね」
僕は扉を静かに閉めると、後輩の肩を掴んで声を抑えるようなジェスチャーを見せつけながら部屋の奥に引っ張った。
「何ですか、知ってる事でも話せって?」
「ホントにうんざりしてるみたいだ」
「想像通りですよ」後輩は確かに疲れ切っているようだった、下校時間間近という時間帯を含めて考えてもだ。「でも、あの人はぼくらの部長ですから。分かって貰えますよね」
「もちろん。アイツの事はよく知ってるし」大袈裟に息継ぎをして続けた。「それに、ここで迷惑をかけたくはない」
「それなら、申し訳ないんですけど。今日は…」「だからこそ」
後輩は"冗談だろ"とこちらを向き直ったが、勿論冗談ではない。
「ぼくは
「だから?」
「だけどまだ返ってきていない。つまり、親愛なる友人としてぼくは、彼の部屋を荒らす権利がある」
「別の日に、本人に頼んでくださいよ」
「あのね。これは急を要するんだ、何せ明日に授業があるんだから」
人の好い、悪しげに言えば流されやすい後輩の為に『頼むよ、今度さ…』と付け加えるのを忘れなければ、倉庫兼部長室に入ることなど容易いモノだ。
◆
奥の部屋に入ると、想像通り埃っぽくて堪らない。僕は急いで運動場側の窓を開け換気が始まるのを見届けると、さっそく実況見分に移った。
「生徒会がこの部屋に入ったりした?」
「なんですか、やっぱりその話ですか」
「いやいや、折角この部屋に来たんだから。それに、アイツとは一応クラスメイトなんだから」
近藤クン(良い奴だが生憎下の名前は憶えていない)は何か少し感じ入るところがあったようで、『まあクラスメイト、ですもんね』と納得した様だった。
部屋の中央に据えられた長机の上に乱雑に転がる書類ケース、筆記具、それに紙、紙、紙。演劇のドコに紙を使っているか分からないが、素人目には資源の無駄としか思えない。そして壁に立て掛けられたセットと長物の小道具。結構な代物だ。
「生徒会の人たち、やって来はしましたけど。"無理です"って言ったらあっさり引き下がってくれましたよ」
「へー」
「あの。聞かれたから答えたんですけど」
「そうだね」と隅に纏められた台の山の上にある原稿らしきを眺めながら返事した。「教えてくれて、どうもありがとう」
数分探して回ったが、それらしき物は見当たらない。そこで先程はあしらってしまった後輩に聞いてみることにした。僕は見繕った適当な物に目を落とすフリをして会話を切り出す。
「それでさ、さっきの続きだけど」少し待っても相槌が無いが、まあ続けるしかない。「
近藤クンはしぶしぶと――顔は見ていないけどそうに違いない――返事した。
「そうですね、数か月前は前の話です。それにアレは生徒会にも関係がありますし」
「そうなの?」
「秋冬にかけての予算割で、演劇部は二割は削られました。あの騒ぎはそのデモストですよ」
「そうなんだ」
「知らなかったんですか?」
本当に知らない。
「けどさ、一般の生徒が分からない話って、それってデモストの意味ある?」
「まあ…、そこは確かに問題でしたけど」
だがエンマのことだ、面白そうなら理由が何でもやるだろう。
「というか、アイツの私物無いな」
「そうなんですか?」
「まあ、見たとこは」
「じゃあ無駄足でしたね」
「アイツが持っていったのか?」
「見てた限りは、多分違うと思うんですけど」
だが元から無かったとは考え難い。それはいつかアイツに授業ノートをせびりに訪れた時にはそこいらの机からひょっこりノートが取り出された記憶があったからだ。
「まあ、ありがとう。助けにはならなかったけど」
「はいはい。そんな事言ってもチャラにはなりませんよ」
「そんなにみみっちいと思われてる?」
後輩は笑いながら続けた。
「でも、嘘吐きではありますよね」
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