第4話 運命の相手

時計の針はテッペンを疾うにすぎ、もう2時近くになろうとしている。

しかし、言われた仕事はまだ半分も終わっていない。


――お前がちゃんとサボらずに仕事してるか監視しとくからな。スイッチ切ったりしたら明日どうなるか覚えてろよ!


そう言って、上司は僕の机が見える位置にペット用の見守りカメラをセットして意気揚々と帰って行った。


昼休みも食事を摂らずに仕事をやっていたというのに、いつの間にか仕事が増やされていた。

誰もいなくなった社内で一人、山積みになった仕事を片付けていく。

明日の朝、仕事が終わっていないということになればどんな目に遭わされるか……想像するのも恐ろしい。


だから、やるしかないんだ。

赤い録画ボタンに見つめられ、目の前で上司に睨まれている気がしてびくつきながら仕事に手を伸ばした。


それからしばらく食事を摂る時間どころかトイレに行く時間すら惜しくてひたすら仕事と向き合っているけれど、全く終わる気配のない量にため息しか出ない。


終わらせられるんだろうか……。


お腹は空きすぎてしばらく前から鳴ることもなくなった。

どうやら飢えのピークは過ぎたらしい。


終わるかどうかの不安に身体を震わせながら、とりあえず眠気覚ましにコーヒーでも飲んでやる気を出そうと立ち上がった瞬間、目の前が真っ暗になりフラフラしてそのまま床に倒れ込み、僕はとうとう起き上がることすらできなくなってしまった。


まだ仕事が残っているのに倒れるわけにはいかない!

あの上司に怒られる。

せめて言い付けられたこの仕事だけでも終わらせなきゃ!


そう思うけれど、身体がちっとも動かない。


それどころか目の前に現れた暖かな光にいざなわれて、僕はそのまま眠り込んでいた。



――レオ……あなたは生きるべき場所を間違えていました。これからあなたはたくさんの愛に包まれて幸せになるのです……。あなたが初めてキスを交わした相手があなたの運命の相手です。それを忘れないように……。




眩い光に包まれながら、僕はその言葉を頭に叩き込んでいた。


初めてのキスの相手が……僕の運命の相手……。


そして、僕は夢の中の心地よい腕の中に包み込まれた。



<sideヴィクトル>


いつも通り仕事を終えてから、彼を起こさないように静かに寝室に向かうと、いるはずの彼の姿はどこにもなかった。


「え――っ!」


なぜだ?

いつもならば、私のベッドで可愛らしい寝顔を見せてくれている時間だというのに。

あの小さな塊がベッドにも、そして寝室のどこを探してもいない。


もしかして、もう会えないということなのか?

フレディが話していた神の悪戯と彼は違うものだったのだろうか?


ああ、なんということだ……。

昨夜が彼と過ごした最後だったとは……。


そうとわかっていたならば、せめて最後に彼の柔らかな唇に口づけをしたかったのに。


私は深い悲しみに沈みながら、眠ることもできずに寝室で一人で寂しい夜を過ごしていた。


昨夜まではこの腕の中に愛しい重みを感じられていたというのに。

彼の寝息も、温もりも、鼓動も、もう感じることはできないのか……。


彼との夜を過ごすようになって2週間にも満たないというのに、もう彼がくる前にどうやって眠っていたのかも思い出せないほど、私にとって彼との時間は途轍もない大切な時間になっていた。


ああーーっ。


もう彼に会うことはできないのか……。


大きなため息を吐いたその時、寝室に眩い光がどこからともなく差し込んできた。


「なんだ? 一体どうなっているんだ?」


驚きのあまり声をあげた私の腕に馴染みのある重みを感じた。


「え――っ?」


光が消え、見れば私の腕の中に彼がいた。


ああーーっ、神よ。

彼をまた私の元に授けてくださったのですね。


よかった……。

もう二度と会えないと思っていた。


これが最後だと思いたくもないが、後悔もしたくない。


黙ってすることは悪いとは思いながら、どうしても己の感情を抑えることができず、私は彼の唇を奪った。


小さく形の良い唇は思っていたよりもずっと柔らかかった。

一度溢れ出た感情はもう抑えが効かなくなった。

こうなれば彼の唇を全て味わい尽くそうと上唇も下唇も甘く噛みながら、舌で舐め尽くすと彼の唇が少し開いた。


その隙を逃さぬようにスッと舌を差し込んで小さな舌に吸い付くと、今まで味わったことのない甘露のような味がした。

まるで媚薬のようなその甘露に誘われるように舌に絡みつき唾液を吸い尽くした。


「んんっ……んぅ……っ」


彼の可愛らしい声にさらに興奮しながら、口内を味わっていると


「んっ…んっ……」


と苦しげな声をあげる。

流石に眠っていても苦しいのは感じるのかと名残惜しく思いながら、唇を離すと青白かった頬にさっと赤みがさし、ゆっくりと瞼が開いていく。


「――っ!」


彼の美しい漆黒の瞳に私の顔が映った。


「よう、やく……ようやく、だな……」


彼の瞳に映ることがこんなにも嬉しいとは……。

人前で泣くことなどしたこともない私の目に涙が滲む。


「あ、あの……僕……」


「ふふっ。想像よりもずっと可愛らしい声をしているのだな」


「えっ……可愛らしい、だなんて……そんな……」


「私に其方のことを教えてくれないか? ずっと聞きたかったんだ」


「あ、はい。あの、でも……その前に」


少し恥ずかしそうに私をチラチラと見てくる。

その視線が気になっていたのだ。

何か気になることでもあったのだろうか?


「どうした?」


「もしかして……僕、あなたと……その、キス……しましたか?」


「キス?」


「いや、あの……くち、びるを……」


「ああ、口づけのことか。したが……嫌だったか?」


「いえ、あの……嫌とかじゃなくて……その……」


「何かあるのなら教えてくれないか?」


「その……初めてキス、いや、口づけした人が僕の……その、運命の相手なのだと……言われたので……」


「――っ!!」


私が、彼の……運命の相手?


そうか。

そうだったのか……。


ならばもう絶対に手放しはしない。


私はもう一度彼の小さな唇に深い口づけを与えた。

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