第四章 疼痛を伴う真実

一 粉砕機

 防護服姿のスタッフは見えている限りで三人おり、各々が克死患者を乗せたストレッチャーを押してやってきた。

 克死患者たちは、一人ずつストレッチャーの上に拘束されていた。彼らは運ばれてきている間も、各々の叫び声やよくわからない言葉を呻き、もがいている。

 スタッフたちはエントランスの一定の位置まで進んでくると、ストレッチャーを置き、何かを操作する。すると、ストレッチャーの台の部分は跳ねるように起き上がり、彼らの手足を拘束していた枷が外れる。自動的に、克死患者はエントランスの床の上に投げ出される形になる。ダンプカーのような仕組みだ。

 スタッフは克死患者を下ろせたことを確認すると、すぐにストレッチャーを引いて外へと出る。そして、また別のスタッフが別の克死患者が乗っているストレッチャーを押してやってきて、克死患者を下ろして去っていくという作業の繰り返しだ。彼らの手つきは手慣れており、迷うところがなく、作業が完全なるルーティーンになっていることが窺えた。

 その様子を見ながら、俺は二階の廊下でまだ迷っていた。

 克死患者の搬入作業が仮に一日に一回だとすると、彼らが搬入作業をしているところにたまたまでくわしたのは、またとない幸運だ。この機会を逃すと、危険な克死院内で、また明日の作業を待たねばならない。克死院から脱出することを考えると須藤さんを追いかけた方がいいが、かといって聖やゆめちゃんをおいていくわけにはいかない。

 俺が逡巡している間に、須藤さんの声が響いた。

「すみません、そこのあなたたち。待ってください。助けてください!」

 須藤さんは一階までたどり着くと、転がっている克死患者の体を乗り越えて進んでいく。エントランスに立っていた何人かの克死患者は須藤さんに反応しているが、須藤さんの移動速度は、人間の体の山という障害物に阻まれているとは思えないほどに早い。彼が克死状態のときに、院内中を走り回っていたのではないかという聖の憶測は、おそらく本当だったのだろう。

「ちょっと、すみません。すみません。僕を一緒に外に出してください」

 須藤さんは、どんどんと出入り口に向かって進む。そうして、ストレッチャーで新たに解放された克死患者の手が届きそうな距離になったとき。

 出入り口で動きを止めたスタッフのうち一人の行動に、俺は異変を感じた。

「ダメだ、須藤さん! それ以上近寄るな!」

 二階の廊下から、声の限りに叫ぶ。

「すみません、助けて、助け……」

 須藤が上げ続けていた声をかき消すように、ひどく大きな銃声がエントランス中に響いた。銃声は一発ではなく、何発も続く。奥で様子を見ていたスタッフの中の一人が、小型のアサルトライフルのようなものを撃っていた。俺のいる近くの手すりにも弾丸が当たった甲高い音がして、咄嗟に身を屈める。

 俺は、頭を抱えて縮こまっていることしかできなかった。


 暴力的な銃声が止み、その残響が消えた後も、俺は、しばらくその場でただただ震えていた。俺の意識が正気を取り戻したのは、出入り口の鉄板が閉まる音を聞いてからだ。

 須藤さんの身の安全が気に掛かり、すぐさま立ち上がって駆け出した。階段を下り、エントランスにたどり着く。その広い空間に、立っている人影は一つもなくなっていた。すべての克死患者は床に倒れ伏し、蠢いている。叫びとうめき声が木霊する空間に、小さく、意識の通った人の声がする。

「助け、て……」

「須藤さん!」

 俺はその微かな声を頼りに、肉の塊のようになっている克死患者の山を乗り越え、出入り口付近へと進む。そして、先ほど姿を確認していたあたりの場所で、須藤さんを見つけた。血の海だ。

 彼は他の克死患者の上に倒れたまま、近づいてくる俺の姿を追って、視線を動かす。

「いま、いずみさ……ん。いた……い。たすけて」

 俺はその横に膝をつき、伸ばされた手を取り、握る。

「須藤さん。しっかりしてください」

 彼の体は、銃撃によって大きく損傷していた。片足と、腹部の辺りがまとめて吹き飛んでいる。複数の銃弾が当たったのだろうということはわかるが、それにしても、これは日本の警察などで使われているような一般的な銃の威力ではない。スタッフの持っていた銃の形状から言っても、戦場などで使用されるべきものだ。克死患者を近づけないように装備しているものなのだろうか。

「いたい、いたい……たすけ、て、いまい、ずみさ……」

 俺の目からは熱い涙がこぼれ落ちていく。彼が途方もない痛みを感じていることはわかる。しかし俺には、彼をその苦しみから解放してやる術はない。この世界に、死は存在しないのだから。

 須藤さんの手を握ったまま、もう片方の手で血まみれの包丁を握り締めて。苦しみの表情が見ていられなくて、俺は俯き、視線を外す。


 彼の苦しみの声を聞き続けて、どれほどの時間が経っただろうか。彼の声が聞こえなくなり、俺は須藤さんの顔へと視線を向ける。

 彼は一文字に口を閉じ、どこか虚空を見ていた。すると突如として、モゾモゾと不自由な全身を激しく動かし始める。もし彼が五体満足であれば、そのまま走り出していたに違いない。

 須藤さんは、この場にいる他の克死患者と変わりないものとなった。

「須藤さん、すみません。本当にすみませんでした」

 謝罪の言葉は自然と漏れた。彼が昨日言っていた、家族がいるという声が脳内にこだまする。俺がここまで導いてこなければ、彼はこんな姿になることはなかったのだ。

 彼の自意識がなくなったことで、縋り付くように握られた手は離されていた。もはや、須藤さんの瞳は俺を見ていない。須藤さんに渡していたリュックを彼の体から取り外し、ゆっくりと立ち上がる。

 あのとき、二階にいる俺にまで聞こえていた須藤さんの声が、すぐそばにいたスタッフに聞こえなかったわけがない。つまり搬入作業をしていたスタッフは、須藤さんが助けを求める声を聞いてなお、彼を撃ったのだ。

 克死患者が自律的な言葉を発することがないということを知らないのか。はたまた、克死院内部にいる人間は、どんな者であっても克死患者だという認識が徹底されているのか。理由はわからないが、搬入作業をしているスタッフに助けを求めることは不可能だ。彼らは、俺たちのことを人間だと認識していない。

 あたり一面に広がる、あらゆる箇所が欠損した人間の体。赤黒い塊。とんでもない悪臭。呻き声。絶叫。ここは、紛れもない地獄だ。

 半ば呆然としていると、視界の隅で、なにか白いものが浮遊した気がした。正体を確かめようとして、血飛沫が派手に飛んだ壁に視線を移す。そこに掲示されているポスターが、自然と視界に入った。

 ポスターは、ここが藤薪病院だったときのものだ。写真がふんだんに使われ、内容がわかりやすく纏められている。藤薪病院のB棟の屋上には自家発電装置が設置されており、非常時には、病院内で使用するすべての電気を賄えるという。

「自家発電装置」

 視覚から入った情報を口に出して呟いたとき、俺の脳内で閃きがあった。災害時備蓄倉庫で見かけた、大量のポリタンクの映像が頭をよぎる。

 もし自家発電装置が使えたら、外部からの電力供給がなかったとしても、院内に電気を取り戻すことができる。電気が通れば、外部に電話をかけることができる。搬入作業に来ているスタッフは、克死患者とそうでない者を区別する判断力がない。ならば、その判断力を有する、他の者に助けを求めれば良い。さまざまな可能性が頭に思い浮かんで、失った意欲が僅かながらも湧いてくるのを感じた。

 聖を追いかけるため、リュックを背負って来た道を戻る。道といっても、少し掻き分けただけの克死患者の山であることは変わりない。途中、克死患者から足首を掴まれた。その力はあまりにも強く、幾度足を引いても、手を振り解くことができない。もたもたしている間に、さらに別の場所から手が伸びてくる。今度は上体を支えるためについた腕を掴まれた。

 俺は、包丁を握った右手を振り上げた。

「すみません」

 謝罪の言葉が口をついて出てくる。

 まずは、腕を掴んでいる手首を切り落とす。本体から離れた手はすぐさま力を失い、俺の腕から離れていく。次に、足首を掴んでいる手首の根本に包丁を突き刺す。そのとき、包丁が刃の腹の辺りから真っ二つに折れた。

「くそ……っ」

 柄に残っている残りの刃で手首の切断を試みるが、うまくいかない。最終的には、残っていた包丁の刃も突き刺した上で無理矢理足を動かし、克死患者の手首を引きちぎるようにして外した。

 人の体を傷つけてしまった罪悪感を覚えながらも、俺は克死患者の山を越え、エントランスを抜ける。階段を駆け上り、聖が走っていった方へと向かう。

 聖が向かった先にあるのは、奇しくもB棟につながる渡り廊下だった。


 こちらの渡り廊下には、搬入口が近いというのに、なぜだか克死患者の姿はない。ただ、ビニル張りの床の上に、発生源不明の血の跡があった。

 そこで足を止める。

 血の跡は鮮やかな赤色をしているが、血溜まりというわけではない。何か血の出るものを引きずっていったような痕跡だ。幅は二メートル程度とかなり広く、B棟の奥からきて、渡り廊下の途中で折り返し、またB棟へと戻っていっている。

 その意味深な跡を見て、俺の心臓は早鐘を打ちはじめる。

 血の跡は、Uターンするような行き帰りの跡のせいで、廊下の幅いっぱいにまで広がってしまっている。だがしかし、その上に足跡がない。意を決し、足裏に滑った感触を覚えながらも渡り廊下を走り抜ける。足元を確認すれば、そこには俺の足あとがくっきりと残る。

 背筋が凍った。聖は、この血の跡の上を歩いていない。

「聖! ゆめちゃん! 返事しろ!」

 B棟の二階は、俺が入院させられていたA棟の五階よりもさらに、奇妙なほどに静かだった。当然のように返事はなく、俺の発した声は廊下に反響しながら消えていく。

 血の跡は、廊下の奥へと続いている。俺は直感めいたものを感じて、その跡を辿っていくことにした。跡の幅的に、血を出しながら引き摺られているものは、人の体ではないということはわかる。では、これは何が引き摺られた跡なのか。その先に良からぬものがあることはわかるが、背を向けるわけにはいかない。

 廊下は左右を病室に挟まれ、それぞれの病室の扉が閉まっているため、とても薄暗い。光源は唯一、突き当たりに設けられた窓だ。そこから差し込んでくる外からの光もオレンジ色に染まっていて、夕暮れが近いことがわかる。

 血の跡を辿って薄暗い廊下を進んでいると、今まで感じたことのないような不安が立ち上ってくるのを感じた。克死状態を脱してから、俺はすぐ聖に助け出された。それ以来、聖とはずっと行動を共にしており、克死院の中で一人でいるのは初めてのことだ。一人でいるということが、これほどまでに心細いとは思わなかった。

 嫌な予感を抱えながら、慎重に廊下を進み続ける。と、目の前の曲がり角から、突如人影が現れた。その者は、ミイラと見まごうほど痩せ細った老人だった。ベージュの股引とシャツを着ている。自宅で寝ていたところをそのまま連れ出されたといった風貌だ。裸足であったため足音がせず、接近するまで気づくことができなかった。

 いまの俺の手には武器もなく、もはや逃げ出すこともできないほどの距離。他になにができるわけでもなく身構えたが、老人の克死患者は俺に目をくれる様子もなく、ふらふらと左右に蛇行しながらも、俺の横を素通りしていった。

 無意識に、詰めていた息を深く吐き出す。血の跡は、その老人がやってきた方向へと続いていた。気を引き締め直し、再度血の跡を追って歩き続ける。と、角を曲がったところで、すぐに前方の異変に気がついた。

 ある一室のドアが内側から破られ、廊下にドアが倒れている。そして、血の跡はドアの上を通り、病室の中へと続いている。よくよく周辺の廊下を観察すると、乾燥してこびりついたドス黒い血の跡が、そこかしこに付着している。

 改めて、口の中に溜まった唾液を嚥下した。病室の前に立つと、中を覗き込む。しかし、中は廊下よりも暗く、何があるのかはまったく見えない。

 おかしい。夕暮れになっているとは言っても、窓からは太陽の光が差し込んできている。そして、病室の壁一面は、窓が広く設けてあるはずだ。いくらカーテンが閉まっていたとしても、病室が廊下よりも暗いなどということは、考えられない。

 いったい、中には何があるのか。

 リュックに入れていた懐中電灯を取り出し、入口から部屋の中を照らし出す。

「うっ……」

 目に映った光景に、思わず口元を手で覆う。いままで、克死院の中で数多くのとんでもないものを見てきたが、この病室の異質さは他のどれよりも群を抜いている。光に照らし出されたのは、部屋の中を埋め尽くす、赤黒い肉塊だった。

 エントランスを埋め尽くしていたのは、体を大幅に損傷した人間の肉体。それに比べて、ここにあるのはミンチ状になっており、もはや原型をとどめていない人間の肉だ。しかも、それらが壁や天井にまで、余すところなくびっしりと貼り付いている。おかげで窓からの光が入らず、病室の中は暗闇に沈んでいるのだ。

 よくよく見れば、それらの肉塊は全体が細波を打つようにウネウネと蠕動している。この量の肉塊であれば、元になった人間の数は一〇や二〇では止まらないはず。だが、それはまるで、一つの大きな生き物の体内のようだ。

 俺は圧倒され、後ずさると、踵を返そうとした。そのとき、病室の中へ向けていた光の角度が少し変わった。

 キラリと光ったのは、肉塊の中に埋もれる、見慣れた長い金の髪。

「聖!」

 俺の体は、考えるよりも前に、弾かれたように病室の中へと突っ込んでいった。幸いなことに、金髪が見えているのは病室の入り口近くだ。

「聖! 聖! しっかりしろ」

 そばに駆け寄ると、呼びかけを繰り返しながら肉塊をかき分ける。と、肉塊に包まれていたせいで血に染まっている聖の顔が見えてきた。しかし、意識を失っているようで、ぐったりとしたまま反応をしない。さらにかき分ける作業を続ければ、彼の上半身までは掘り起こすことができた。

「聖、頼む。俺のことを置いていかないでくれ」

 呼びかける声が震えていることを自覚する。いまさっき目の前で須藤さんが克死状態に戻るのを目にして、さらに聖まで失うことが、俺には耐えられそうになかった。

 聖の腕を掴み、渾身の力で引っ張るが、彼の足のあたりは肉塊に強く絡みつかれているようで、完全に抜き去ることができない。引き抜く力を少しでも弱めると、まるで飲み込まれるように、再度肉塊の中へと引き摺り込まれてしまう。彼がどのようにして肉塊に取り込まれていったのかがわかる光景だった。

 聖の顔が肉塊に埋もれないよう、精一杯の力で引き続けるが、事態は硬直している。それどころか、俺の力が尽きるのは時間の問題だ。

「なあ、聖。いったい、どうしたらいい」

 焦る気持ちのままで、聖に語りかけるように呟く。

「搬入口が近いにもかかわらず、付近に克死患者の姿が少ないのは、すべてこの肉塊に取り込まれたからだと考える方が自然だ。そうだろう?」

 肉塊は、表面に触れていれば取り込もうという蠕動をし、すでに取り込んだ聖を離そうとはしない。しかし、離れて立っていれば、不思議と俺を取り込もうとはしてこない。しかし聖がこうなったということは、聖は渡り廊下を移動しているところを襲われたのだ。

「俺と聖の違いは何だ」

 そう言葉を口にしたとき。先ほど、俺の横を素通りしていった克死患者の姿を思い出す。あの老人は、どうして肉塊に取り込まれていないのか。彼と、俺の共通点は——。

「裸足か」

 そうだ。克死患者の知覚は、肉体に依存する。目を失えば視覚を失い、耳を失えば聴覚を失う。では、人としての形状のすべてを失った肉塊が得られる感覚といえば、床に響く振動くらいのものなのではないか。

「聖。必ず助け出すからな」

 俺は一度、聖の腕を離した。肉塊は奇妙な蠕動を繰り返し、聖の体を再度ゆっくりと飲み込んでいく。その姿を見届けることなく、俺は奥歯を噛み締めて踵を返した。

 廊下に出ると、素早く隣の病室のドアを開け飛び込む。

 そこは、ごく一般的な大部屋の病室だった。だが、俺が奇妙に感じたのは、そこに置かれているベッドに、克死患者が一人も拘束されていないことだった。ベッドが使われた形跡がない、ということではない。誰かがそこにいただろうと感じるのに、姿だけがないのだ。その原因には、あの肉塊の正体と繋がりがありそうだ。

 しかし、いまの俺に深く考えている時間はない。部屋の中に素早く視線を巡らせると、手近な位置に置かれていた車椅子に手をかけた。さらに、部屋の中に放置されていたモニターを複数台持ち上げ、車椅子に積み上げるようにして乗せると、廊下に戻る。

 狙いは、廊下の突き当たりだ。車椅子の手押しハンドルを握り、数回揺らして軌道を確認してから、勢いよく車椅子を押し、ついでに蹴り出した。車椅子は真っ直ぐに進んでいき、狙い通りに廊下の突き当たりに激突すると、積んでいたモニターを落としながら派手に倒れる。その衝撃の振動は、俺の足裏にまで響く。

 次の瞬間。暗闇に沈んだ病室から、肉塊の一部がウゾウゾと這い出してきた。一部と言っても、大きさは直径おおよそ二メートル。高さも一七〇センチほどはあり、小山が動いているような印象だ。肉塊の動きは意外に俊敏であり、すぐに振動の発生源である車椅子の元まで到達していた。

 俺はその隙に、肉塊のいた病室の中へと侵入する。中にはまだ肉塊は残っているものの、外に分離していったため質量が減っていた。そして、肉塊に覆われ完全に隠れていた、ミンチになっていない複数体の克死患者の一部が露出している。彼らは体をもがくように体を動かしているが、自力での脱出は不可能なようだ。

 その中に、聖の姿もある。頭頂部まで埋もれかけていた先ほどと比べ、体が腰の辺りまで外に出ている。

「聖!」

 呼びかけを続けながら聖の腕を引き、今度こそ完全に引き抜くことに成功する。

 俺は力の抜けた聖の体を抱え上げ、部屋を出るために振り向く。部屋の片隅に、大掛かりな機械が設置してあったことに気がついた。肉塊に塗れているのでよくわからないが、地下の映像で見かけ、老人の体をミンチにしていた粉砕機のようである。

 俺は眉を顰めながらも気を失ったままの聖を連れ、まずは来た道を戻った。聖の体を背負い直して、三階につながる階段の前に立つ。肉塊の中にもいなかったし、渡り廊下からここまでにも姿は見えなかった。ゆめちゃんはおそらく、この階にはいない。であれば、探しに行くのならば三階に行かなければならない。

 俺が三階の様子を伺うように視線を上へと向けたそのとき、踊り場に人影が現れた。俺はそれがゆめちゃんであることを期待したが、希望は一瞬で打ち砕かれる。

 現れたのは、やけに大柄な男だった。作業着のような形状の服を着ていることはわかるが、全身が血まみれで、その詳細はもはや窺い知れない。彼は大きな呼吸を繰り返すように肩を上下している。だが、その肩の上に乗っている頭部が半分に割れていた。頭頂部から斧にでもかち割られたかのようだ。顔が左右に分かれ奇妙なズレ方をしているが、顔のパーツは一応それぞれに機能している。その異様な姿を見て、ゾッとした。

 だめだ。気を失った聖を背負ったまま、なにがいるかも知れない場所に進むことなどできない。

「おおぉぅぁああああああ」

 男が、裂けた口から異様な叫びを上げながら足を一歩踏みだした瞬間。俺はすぐさま踵を返した。男に追い付かれないよう、可能な限りの全速力で走る。足裏には、背後から大柄な男が走り寄る振動が響いている。さらに視界の端には、男の立てる振動に誘き出されたか、肉塊が蠢いているのも見えた。

 俺は、安全が確保できているA棟の地下に戻ることを余儀なくされた。足を止めることなく、ただ走り続ける。

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