うぐいすの夜

川辺いと / 代筆:友人

うぐいすの夜











 敷き詰められた鋪道の上に倒れていた。

 それが自分の影だと分かっていたのに、私は右手を差し出そうとしていた。

 たった四ブロックの頼りない地べたの一角に、角張っていることを知らない自分のシルエットが納まっている。

 不細工だった。草臥くたびれた街灯に照らされている自分という黒い物体が、その光った円の縁からはみ出すようにみっともなくへばり付いていて、吐き気がするほど惨めだった。

 この光の中にすっぽり入った時、誰かが落とし穴でも作ってくれていたら、そうしたら私は綺麗さっぱりこの世界の底へ墜落することができるのに……。どうして誰も、この歪んだアスファルトを壊してはくれないのだろう。



 今日、先輩から陰口を持ちかけられた。仕事が一緒になる時は、決まって誰かの愚痴が話題になるのだ。

 山崎やまざきさんですか……? と、私は気後れしながら聞き返した。聞き返すとすぐ、その人は私の顔を険しく覗き込む。


「そうそう、あの山崎さん。あの人、今日も指示してないのに勝手なことしてたのよ。すぐトイレにも行くし分からないくせに『分かった』って返事するし、はあ……ほんといい加減辞めてほしい」


 私は眉尻を下げて「はい」と小さく相槌を打った。そんなつもりではなかったが、それが共感と見されて、その人の目には内気だが好印象の私がインプットされた。

 どうでもいいと思った。心の底から。そう思った話題だったから、私は変に揉めたくないと保身を優先させたのだ。否定しても空気を悪くするだけだし、きっぱり肯定するのも躊躇ためらってしまって、私はどちらとも取れるように返した。キーボードを打っていた自分の指が止まっていることに気づいて、何事もなかったかのようにマウスに手を置いた。カチ、カチ。左クリックと右クリックを機械的に押した二本の指先が小刻みに震えていた。


「あの……ちょっと席を外します」

「うん、あとはこっちでやっておくから、そのまま休憩でもしておいで」

「はい……」


 私はマウスの横に置いていたハンカチだけを手繰たぐり寄せるように掴み、首からげた社員証をセキュリティにかざして逃げるようにオフィスを出た。

 気持ち悪い。また、吐き気が込み上げて来た。胸元を抑えながら、布を口に当てて胃液を呑み込む。苦ったらしい自分の唾液が喉奥に張り付いて息がしづらかった。


 私は私の耳が嫌いだ。こんなものがあるせいで、周りを気にしてばかりで、萎縮したように緊張してしまう。いっそこのまま自分の声だけが世界から消えてしまえば、返事も何もしなくて済むのに……。

 駆け込んだトイレの洗面台の鏡に血色の悪い唇が映り込む。その表情を見るのも嫌で顔を伏せると、滴る水は生ぬるくて、ひどく青みがかって見えた。うみを抽出したように唇からシンクへと垂れていく細すぎる本性が、再び顔を上げることを許さなかった。


 オフィスに戻ると、上司から顔色が悪いと言われた。私は「すみません」と呟いて頭を下げた。すると上司がおもむろにエクセルを開いて、画面を見ながら尋ねてきた。


「今朝の健康チェックには問題ないけど、これ、ほんと?」

「……」

告音つぐねさん?」

「あ、はい……本当です」

「ほんとに睡眠もちゃんと取れてる? 最近……というか、告音さんここのところよく体調崩してるみたいだけど」

「……はい、すみません……」


 言うと上司は「怒ってるんじゃないよ」と気さくに返してくれた。怒ってるんじゃない。もしかして仕事がきついとか悩んでるとかなんじゃないかって、心配なだけだから、と。

 私たちのやりとりを聞いていた別の先輩が歩み寄ってくる。何か言われるかもしれないと身構えたが、彼女は私の顔を覗き込むなり「早退?」と上司に問い掛けた。私は咄嗟に「違います」と両手を顔下に忍ばせる。


「いや、だって顔色悪いでしょ。無理して働く必要ないって」

「そうだな……。告音さん、進捗しんちょくレポートだけ更新したら、今日はもう上がって大丈夫だから。あとのことはこいつに任せて」

「──は? 私が!?」


 先輩は怪訝な反応をし、私をめつけるように一瞥いちべつする。ほんの一瞬だったが、突き飛ばされてしまうんじゃないかと怖かった。


「ほんとに、大丈夫です私。……座っていれば、そのうち良くなるので」

「帰った方がいいって。なに遠慮してんの。今に始まったことでもないでしょ?」

「……」


 すみません。口癖のように出てきた台詞がみっともないほど足元に転げ落ちる。先輩の白いエナメル柄のパンプスの先端がこちらを向き、上から「別にいいよ」と耳の奥底を締めつける。迷惑を掛けているのは自分なのに、自分の方が相手を嫌悪しようとしている。最低だという感情よりも、ただただ人間に生まれた自分が恥ずかしかった。




 会社を出た。夕方になった辺り一面には浅い雪が残っていた。真昼の晴天に溶かされた雪は水たまりとなって敷地に点在していて、冷たい空気が鼻腔を刺す。駐輪場へ向かえば、道中には蕾のまま絶えてしまった椿のいくつかが、雪の代わりに名残り落ちていた。

 夕日よりも紅いそれらが泥を吸って地面に潰れている。濡れて真っ黒なアスファルトと、真新しい駐輪スペース。ずらりと並んだ隅っこの方に、取り出しづらくなった自分の自転車が錆を孕んで倒れていた。ハンドルが水たまりに触れてきまりが悪く、起こしてみると、カラカラとチェーンが外れてペダルが馬鹿になっていた。


「はぁ……」


 良いことなんてひとつもない。私の毎日は、愚痴を聞くか謝るか、俯いてパソコンを黙々と操作しているだけの置き物だ。つまらないものだと思う。自分でつまらない毎日だと決めつける毎日に、心の底から悔しくなる。

 握ったハンドルからコートの袖間を通る泥水が肘の辺りまで流れてきたが、拭けば何かがドッと溢れてくる気がして、必死に堪えながら外れたチェーンを引きずって帰った。


 歩幅に力が入らない。そのせいで、気づけば暗くなっていた。月が昇っていた。すぐに視線を下げた。月明かりが美しく見える人になりたいと思った。

 時折行き交う車両に追いやられた排気ガスの夜風が、足元を通り抜けるたび視界を滲ませてくる。鼻を啜ってみたところで、自分の匂いはどこにもなかった。濁った吐息に口元のマフラーは結露して、顔さえ埋めることを許さない。頼りにしていた自転車のライトも、電池切れになりかけてしぼんでいた。


「──おー、お疲れ告音ちゃん!」

「え」


 突然呼ばれた方を振り向くと、アナログ式の助手席のドアを開けながら笑っている山崎さんの姿があった。車内なのに帽子を被って、老眼を集中させてこちら側へ身体を寄せている。私は驚いて、急いで会釈を返した。


「早退したんじゃなかったんか? なんでまだこんなとこ歩いてんだ」

「あ……、いえ、ちょっと自転車が、」

「もしかしてチェーン外れたか? 直し方は」

「……あの、すみません、気にしないで下さい」


 そう告げている間に、山崎さんは車を降りてペダルを回し始めていた。

 地黒な肌に刻まれた皺がまた、白髪の似合う笑い声をあげる。


「手が汚れるから押して帰ってたのか。それともまだ体調が悪いね?」

「いえ、……よく、分からないです……」

「かっはは。なんね良く分からんて。こんな寒いのに、早よ家帰らんと風邪引くぞ」

「はい……すみません」

「謝る体力があるなら、ほい、これ持って照らして」


 グイと下から伸びてきたゴツゴツとした手が、携帯用の懐中電灯を差し出す。思わず受け取って垂れ下がったチェーンを照らすと、そこじゃない、ワシの手元。と帽子の鍔を軽く浮かせた。

 勇ましい手だと思った。深爪の中に入り込んでしまったチェーンの油が、汚いもののはずなのにかっこよく見えた。汚れてしまった両手を、首に巻いていたタオルで払い、異常がないかペダルをゆっくり回している。その目は微笑んでいるように優しくて、時々見えづらいのか険しくなる。


「告音ちゃん、まぶしい」

「──あ、すみません、」


 明かりを手のひらに閉じ込めた山崎さんは立ち上がり、私の目をじっと見つめてきた。田舎だからって夜は危ない。街灯も少ないし、自転車のライトも切れかかっている。そう言って返そうとした懐中電灯を再び私の方へと押し込む。私はお礼のつもりで謝ったが、「ありがとうございます」とすぐに言い直した。そしたら、山崎さんはただはにかんで、──春になりなさい。と言った。


「春……ですか?」

「そうだ。告音ちゃんを春は待ってるぞ。暗闇から早く逃げろって」


 山崎さんは車に乗り込んで、私の背後を指差しながら自身の右耳をトンと叩いた。

 うぐいすが鳴いていた。夜の縁から誘うように、少し下手くそに歌っていた。


「ありゃあオスだ。間違っても鳴き真似だけはしないように」

「?」

「求愛行動の一種だから」

「//////」


 途端に赤面した私を見て、ドアの閉まった車内から盛大な笑い声が響く。発進した車のバックナンバーを無意味に眺めながら、私は再び歩き出した。


 春を告げる鳥、春告鳥うぐいす

 うぐは『奥』という意味で、いすは『出ず』

 転じて、この鳥は谷の奥から人里に出てくるという意味があるとされている、ということを、山崎さんは言い残して去って行った。新しい春を迎える人に、愛を伝える生き物なんだ、と。



 私は右手を差し出そうとしていた。たった四ブロックの頼りない地べたの一角に、角張っていることを知らない自分のシルエットが納まっている。

 不細工だった。草臥くたびれた街灯に照らされている自分という黒い物体が、その光った円の縁からはみ出すようにみっともなくへばり付いていて、吐き気がするほど惨めだった。

 この光の中にすっぽり入った時、誰かが落とし穴でも作ってくれていたら、そうしたら私は綺麗さっぱりこの世界の底へ墜落することができるのに……。どうして誰も、この歪んだアスファルトを壊してはくれないのだろう。

 

 こんな寂しい夜に死ねたら、私は笑えるようになるのだろうか。人をさげすむ誰かの口元を見ることもなく、卑怯な返事を返す口さえ閉ざされて、耳も目も、全部笑って消えてくれるのだろうか。






 塞ぎ込むと、両手が顔の目の前を覆っていた。

 屈んでいる自分がいた。

 背後で、自転車の後輪が回転したまま横になっていた。

 音なんてものは、とっくに聞こえなくなっていた。






 ────────……────…………──────……



 ────""""──……"────────……ッ"────……






 暗くて聞こえない。耳を塞いで叫んでいるから、みにくい自分の泣き声しか聞こえなかった。










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うぐいすの夜 川辺いと / 代筆:友人 @Kawanabe_Ito

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