記憶を失った幼馴染兼レンタル彼女
「「小瀬川 凛音は、記憶を失った」」
時が止まったようだった。
誰もが言葉の意味をを理解している。
だが、この場にいる3人には言葉で表現できない重みがあった。
それは、辛さや悲しみではなく、喪失感がこの場を支配しているからだと思う。
「詳しい話は院長に聞こう。特別に待ってもらっているんだ」
終電もないこの時間に、院長がいらしているとは相当な大きな出来事なのだろう。俺は覚悟を決め、病院に足を踏み入れた。
◆◆◆◆◆
「要するに、記憶がなくなったんです」
町外れにある病院。
窓の外には大きな月が輝いて見える。
夜間診療に行き、案内されたのは病院の奥にある1つの部屋。その扉を開けた先には、院長が深刻な顔をしてパソコンと向き合っていた。
俺が小瀬川 凛音の幼馴染である涼であることに院長が気づくと、何から話そうかと迷う仕草を見せた。
俺は意を決して聞いた。
「小瀬川 凛音は本当に記憶を失ったのですか?」
院長は深刻な顔をして、告げた。
「残念ながら、そういうことです。この病院にある最先端の技術で彼女の脳の状態を調べました。外部からの刺激を受けた影響で、彼女の記憶を保存しておく場所に不具合が発生してしまいました。要するに、記憶がなくなったんです」
「こちらの動画を御覧ください」と前置きの上、院長に見せてもらった動画が映されたモニターを見る。
その動画には俺が想像していた何倍も状態の酷い凛音の様子が映し出されていた。
映し出された部屋には、医師が数人深刻な顔をして、椅子に座っていた。
「小瀬川 凛音様ですね。ではこちらにどうぞ」
手を出し、座るように院長が促す。
凛音は抵抗することなく、椅子に座った。
すると、
「どうやら、椅子に座れるようだな」
「今までのデータを見ても、若年性認知症の可能性は低そうですね」
と医師同士でこそこそと話していた。
院長が
「小瀬川様、凛音様のお父様から診察のお話とこれまでの経緯について全てお話を訊いています」
院長は続ける。
「まず、若年性認知症の検査を行います。ではこちらのカードを見て、数式の問題の解を答えてくださいね」
と言うと、【30×10】と書いたカードを出してきた。
凛音はすかさず、「300」と答えた。
続けて院長は
【46×44】
という問題を出してきた。
これは俺もさっぱりだ。
だが、凛音は
「2024じゃない?これはインド式計算を使えば簡単よ」
と言ってきた。
正直言って、インドの国旗も曖昧だが、早く解ける方法があるらしい。
そして院長は最後の3枚目の紙を出し、
【∫ log x dx の不定積分、定積分を求めよ】
と書かれた積分の問題まで表示してきた。
それでも凛音は
「Cを積分定数とした時、x log x-x+C でしょ。簡単すぎるわ」
院長が悔しそうな顔をしている。
そして隣にいる医者に
「これであの機械を使わなくても若年性認知症って診断したかったのに...」
と呟いていた。
どうやらこの動画には院長の聞いてはいけない愚痴も混ざっているが俺は聞かなかったことにしよう。
それにしても院長が言ってる「あの機械」って何だろう。
凛音が考えていることが全て分かる機械とかかな?
よくわからないが、最先端の技術があるこの病院なら凄い機械があることだろう。
「認知症の『に』の字も見当たりません。こうなってしまってはしょうがないので、特別に開発中の機械で検査を行ってみましょう」
院長はそう言うと、「着いてきたまえ」と言って、部屋から出ていった。
動画はここで終わってしまった。
院長は「続きがある」といい、別の動画を流す。
院長たちは無言で凛音を別室に連れて行った。
その別室には謎の機械が置いてあった。
「この機械は?」
俺が院長に尋ねると、
「これは、脳の病気を無人で診断する機械です。最近、地方に医者がいなくて問題になっているから開発を進めている機械なんです。そろそろ製品化しようと思っていたところだからちょうどいいと思っていて。」
凛音は院長に「そこに座って」と指示され、言われるがまま、席に座った。
そして、「今からX線を使用するので、この部屋から一度出ていてください」と言った瞬間に動画は終わった。
動画が終わり、院長が深刻な口調で語る。
「この後検査結果が出たんです。それによると、脳の記憶障害を持っている可能性が高くなりました。念のため、小瀬川 凛音さんの所属している会社の社長、蒲生 健さんが持っている家族情報について色々な質問をしてみましたが、案の定、全く覚えていませんでした」
そんな...。
嘘みたいなことを俺は信じられない、いや、信じたくない。
凛音に「嘘だよ」って言ってもらいたい。
「凛音に...もう夜も遅いですけど逢わせてもらえますか?」
すると院長は悩む素振りを見せたが、「いいですよ」と許可してくれた。
院長室の隣にある部屋に案内された。
扉を開けると、質素な空間が目に入った。
6畳ほどの大きさの部屋には白いカーテンに、病院によくあるベッド。背もたれ付きの丸椅子と机だけが置かれていた。
そしてそのベッドの上で凛音が横たわっていた。
「凛音!!」
俺は思わず叫んだ。
しかし彼女は振り返らない。
院長が小さく「もう彼女は自分の名前すら思い出せないんだ...」と嘆く。
凛音、思い出してくれ。
一緒に咲希と楽しく過ごした今までの記憶も、辛い時も苦しい時も、一緒に乗り越えてきた過去も、そして
凛音のレンタル彼女をやっていた目的も。
彼女は俺たちが入ってきたことに気づいたのか、こちらを見る。
その仕草は全く凛としたものではなく、別人のようにも思えた。
「覚えてるか、俺、涼だよ!!凛音の幼馴染だよ!!」
俺は必死に訴えた。
きっとこの時だったと思う。表面張力ぎりぎりまで張っていた水面が、途端に破れて溢れ出したのは。
それでも現実は悲しいものだった。
「あなた、誰?」
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