どうせ捨てるなら頂戴よ

ささみ

第1話 再開

「捨てんなら、俺に頂戴」


 空を飛ぶ飛行機の音、ザワザワと騒ぎ立てる風の音、横を走る車の音、下を流れる水の音。それら全てをかき消して、まるでないように、この世に自分を邪魔する音など存在しないような態度で彼は告げた。

 何が起こったのか分からない。けれど、今まで耳の奥を駆り立て、何度叫ぼうと消えなかった雑音が今は一つもなかった。奇跡のような静寂を作り出したのは紛れもなく目の前に立つ彼である。


「──」


 橋の欄干にかけていた手を離し、思わずといった様子で振り返る。ざらりと感じる感触は、欄干についていた砂埃か何かだろう。きっと手のひらを汚して、灰色の炭をつけている筈だ。

 そんな炭が服につくのも構わず、ズボンの裾を掴みながら彼の顔を見つめた。決して知り合いではない。こんなにも整った顔をした友人など、今まで一人もいなかった。

 不良のような格好をして耳にいくつも穴を開けておきながら、ぶら下げた片手にはいちごミルクのパックが収まっている。ストローが刺さったまま、零さないように並行を保っている所を見ると、まだ飲みきっていないのだろう。むしろ飲みながら話しかけてきたのかもしれない。

 見たところ鞄も持っていない。見える範囲に膨らんだポケットはなく、財布を持っている様子がない。ならばここは、彼にとっての生活圏内なのだろうか。その手に持っているいちごミルクだけを求めて外に出たのか。


──そうして不運にも、橋の上に立つ真冬と出会ってしまったのだろうか。


「……耳、聞こえねぇの?」


 暫く黙り込んでいた二人であったが、彼の方から行動を起こす。いちごミルクを持っていない方の手で自分の片耳をトントンと叩き、聴覚の有無を確認した。

 話しかけられておきながら、何も反応を返さない真冬に思うところがあったのだろう。何度か単語を分けながら「耳」という言葉を告げてくる。


「……ごめん、聞こえてるけど」

「なら返事しろよ。どっちなの」

「……いや、何が」

「くれんのか、捨てんのか。どっち」


 我慢の限界だったのだろうか。少し乱雑な言い方で問いかけたあと、ズズといちごミルクを吸い上げる。勢い良く飲まれたパックの中心はべコリと凹み、中身が空になったことを示す。

 ストローから口を離した彼は力任せにパックを握り潰すと、そこら辺に捨てるような素振りを見せて、考え込み、真冬を見た。


「これは捨てていい?」

「……ポイ捨てってこと?」

「ん」

「駄目」

「あっそ」


 そう言うと、彼は握り潰したパックを真冬の方へ放り投げる。空になった紙パックは中身が飛び散ることはないけれど、刺さったままのストローが少しばかり不衛生だった。咄嗟の対応で投げられた紙パックを掴んだが、すぐに眉をしかめて彼を睨みあげる。

 彼は何でもないように真冬を見つめており、睨んだ視線など意に介していないようだった。


「ねえ」

「ん?」

「いらない。投げるよ」

「ポイ捨ては駄目って知らねぇの」

「は、なに、喧嘩売ってる?」

「まさか」


 飄々としたその態度に苛立ちが湧く。どこで買ったのかも知らないが、既に握りつぶされている紙パックを更に強く握りつぶした。


「いらない。返す」

「俺にくれんの?」

「意味分かんないこと言わないで。今そういうこと考えられる余裕ない」

「捨てんの?」

「環境汚染する気はないから」

「くれんの?」

「ああ、もう、うるさいな! あげるよ!」


 苛立ちのまま投げつけてやろうと腕を振り上げたが、パックは投げつけられずに終わる。彼の表情に目を奪われたからだ。それは、まるで野球でホームランを打てた少年のようだった。もしくは、クリスマスプレゼントを開ける幼子のよう、いや、捜し物を見つけ出した瞬間のような表情で、目を輝かせた彼の表情に魅入られる。

 振り上げた腕をガシリと掴んで、彼は真冬を見つめる。隠しきれない笑みを浮かべる彼の口元には鋭く尖った八重歯が見えた。高揚した様子の彼はグイと真冬の腕を引く。


「んじゃ、もらってやる」


 あどけない少年のような無邪気な笑みを向けられた真冬は、困惑の一言も発せずに混乱していた。


「着いてこい、真冬!」


 強く腕を引かれる。有無を言わせない力の強さに、暖かく感じたのは一瞬。彼が向こうを振り向いた瞬間、真冬の背筋がゾッと冷えた。

 途端、脳裏を埋め尽くすのは過去にされた暴行の数々。狙われるのは腹か、顔か。火傷の痕もまだ消えていないというのに、また何かを強要させられるかと震え出す。


「──ッ!」


 真冬は渾身の力を込めて腕を振り払う。彼から一気に距離を取ると、恐怖心から肩を震わせ、息を取り乱し、身を守るように己を掻き抱いた。その際に髪が揺れて、肌が見える。そこには決して消えない煙草の痕が隠されていた。

 その痕を見た彼は驚いたように目を見張り「おい」と真冬に一歩近づく。視界の端に足先が見えると、真冬はふるりと首を横に振った。


「……来ないで」

「真冬」

「来ないで。……一歩でも近づけば、もう、橋から飛び降りる」

「は、なに」

「元々そのつもりだった。……見るのが嫌なら、早く、どっか行って」


 眉を顰める彼の表情は厳しいものだ。

 先程の笑顔と比べて、真冬は嘲笑う。誰かにそんな顔をさせるのはもううんざりであった。見たくもないとまた一歩欄干へ足を寄せる。

 再び手のひらにザラリとした砂の感触が戻ると、真冬は癖のように唇を噛み締めて、今度こそ覚悟を決める。


「……」

「……」


 しかし、いざ身を乗り出そうとした時、横目に彼の姿が目に入った。彼はその場から一歩も動かず、ジッと真冬を見つめている。


「……なんで、まだいるの」

「いちゃ駄目か?」

「飛び降りるって言った」

「来ないでとは言われたけど」


 今度は真冬が眉を顰める番だ。

 乗り出そうとした身を引き、彼の方に体を向ける。


「言葉の真意が分からない?」

「言われたことは守ってる」

「そうじゃない」

「じゃ、なに?」


 真冬は思わず息を吸う。言いたいことはあった。口にしようとすると支えて出てこない。悪い癖だ。物言いたげな視線だけが彼に向けられる。

 彼は“真冬に言われた通り”に、それ以上は近づくことなく、けれど去ることもなく、真冬の側から離れない。


「分かった。じゃあ、もう、どこか行って」

「なんで?」

「だから、飛び降りるから。飛び降りたいから、そこにいられると邪魔だから!」

「俺がここにいると、飛び降りれない?」

「そうだってさっきから言って──っ!」

「なら俺はここから退かない」


 真冬の目が大きく見開く。彼はそんな真冬の表情を見て、少しだけ満足したように笑みを浮かべた。

 彼は少し迷ったように思考し、やがて思い切って引かれた筈の境界線を踏み越える。真冬のすぐ目の前にやってくると、欄干を握る真冬の手に自分の手を重ねた。


「飛び降りられたら困る」

「……は」

「濡れるのはごめんだ」


 彼は真冬の手を握ると、その手についた砂をぱっと払ってやる。長袖の下に切り傷が隠れていた。真冬は腕を背の後ろに隠しそうとする。


「いい、見せろ」

「……嫌だ」

「痛いようにはしない」

「違う。……その顔が嫌だ」


 彼は「顔?」と目を見張り、手で頬を触る。「硬い顔をしてたか」という問いかけに、真冬は喉を震わせながら頷いた。

 そして、また、自分の感情が表に出ていることに気がつく。言いたくても出てこなかった想いが、初めて表現できていることに胸が震えた。どうしてだろうかと、彼の前では自分の感情がコントロール出来ないと困り顔を浮かべた。

 真冬は彼を見つめる。同じくらいの身長で、真冬より髪が短い。いいや、真冬の髪が長いだけだ。風が吹くと、真冬の髪はサラリと流れる。


「……“僕”が、飛び降りたいって言ったら」

「自慢の髪が濡れてもいいなら、別に」

「……さっき、濡れるのはごめんだって」

「意見は変わらない。けど、真冬が飛び降りるなら、俺も飛び降りなきゃなんねぇから」

「……ふ」


 真冬は自分の視界が歪み始めたことに顔を飛車曲げる。思わず地面に膝をつき、ボロボロと溢れてくる涙を両手で覆った。

 彼もまた、優しい手つきで真冬の髪を耳にかけてやる。


「泣くなよ」

「……っ、僕だって、泣きたくなんか……」

「じゃあ、泣け」

「っふ、……なにそれ」

「お前は嘘つきで天邪鬼だ。出会った時から知ってる。多分これからも振り回されるだろうけど、泣きたくないなら、泣けばいい」


 ボロボロと、ボロボロと、真冬は顔を振る。


「……もう、無理だって、思って」

「……」

「母さんが、いないことに耐えられなくて」

「……叔母さんの最後は」

「知らない。見てないんだ。あれ以降、会えてない。それが、ずっと、すごく……辛い」


 風がまた真冬の髪を靡かせる。

 肩を震わせて涙を流す真冬の背を撫でながら、とある提案を持ちかける。

 彼にとっては、二度目の提案だ。一度目の惨敗した記憶が彼を蝕むけれど、意を決してもう一度唱える。


「うちに、来れば」

「……え?」

「養子になるのはどうだ。養子縁組の用紙を提出すれば、……まあいざこざは起きても、親戚関係だ。上手くいく。それが嫌なら、寮がある。俺と同じ学校にすれば、少なくとも……辛い、生活からは逃れられる」

「……それって、さっきの言葉の、続き?」


「着いてこい」だなんて乱暴な台詞で、考えていたのはそんな真面目なことだったのかと、真冬は彼を見上げた。彼は気まずそうに口を紡ぐと、諦めて息を吐き、コクリと頷く。

 真冬はクツクツと腹の底から笑いが込み上げて来る感覚に襲われた。溢れ続けた涙が収まったのは、笑顔のせいである。


「そんなに」

「ごめんってば……っふ、はは!」

「……別に、俺じゃない。母さんが」

「伯母さんが? 僕に?」


 真冬は「手紙を送っただろう」と彼の言葉に首を傾ける。ここ最近はポストなんて確認していないと告げると、彼は目を見開いて大きくため息をついた。

「どうりで返事が来ないわけだ」と文句を垂れる彼の手を握り、真冬は立ち上がる。心が温かい。晴れるような気持ちになりながら、真冬は彼から手を離した。


「……ありがとう。元気が出たよ」

「欄干に未練はないか」

「ないよ。もう、ない。……でも、君の申し出は断らせてもらう」

「……そうか」

「勘違いしないで。嬉しかった、すごく。でも……父さんを一人に出来ないんだ」


 真冬の言葉に彼は意味深な表情を向ける。

 どうやら彼は気づいているみたいだ。真冬の体に残る痣や火傷の痕は、全て、真冬の父親が原因だということに。

 それなのに何故、戻ろうとするのかと彼は言いたげな顔をしている。


「だって……父さんにとって、僕はたった一人の息子だ。同時に、僕にとっても父さんはたった一人の父親だから」

「それが理由か?」

「そうだよ」

「……そうか」


 何も言わない、言えないのだろう。彼の優しさが身に沁みて感じて、真冬は泣きそうになる。彼の家に行けたらどれほど嬉しいだろう。親戚とはいえ、過去に何度か会った程度。顔見知りとも言えない間柄なのに、もう家族のように大切に思えてしまう。

 それでも、真冬にとっては父親も大切な家族だった。唯一残された、肉親である。見捨てるわけにはいかない。たとえどれだけ、辛い所業が待ち受けていたとしても。


「……本当に、ありがとう。そろそろ帰らなきゃ、なんか不思議な気分だ」

「真冬」

「ん?」

「俺の名前、覚えてるか?」


 真冬は目を見張る。彼とは親戚の立場で、過去数回顔を合わせた程度の関係なのは承知の上、真冬にとって強い印象は残っていない。

 けれど、それならば何故、彼の姿を視界に映した時、「彼が親戚だ」と分かったのだろうか。顔見知りでも友人でもないと分かっていながら、真冬は彼のことを覚えていた。


「──手招き坊やの夏生くん」

「懐かしい名前」

「久しぶりに言った」

「あの頃の俺とは違う」

「成長したんだ?」

「当たり前だろ。嘘つき人形の真冬め」


 二人は並んで歩き始める。

 川のせせらぎは、騒音に思わない。真冬は気持ちよさそうに髪を撫でながら、過去に思いを馳せた。


「もう“お願い来て来て”は使わないんだ」

「辱めたいならそう言えばいい」

「違うよ。……いや、そうかも、恥ずかしがる顔が見てみたい。すまし顔じゃなく」

「絶対、嫌だ」

「はは、そういう顔だよ」


 記憶の中では、夏生が真冬を手招いて、まだ見ぬ空間へ探検していた。小さな探検だ。大人にとっては可愛らしいもの。けれど、壮大な冒険であった。

 家の中を巡り、二階から屋根裏部屋へ。物置小屋の玩具を破壊して逃げるように飛び去ったり、ボールを高く蹴り上げてフェンスを乗り越えてしまったり。公園の奥に並ぶ木々を通り抜けて、小さな森の中を探索した。

 水筒を掲げて、リュックを背負って、虫取り網を手に木の幹へ飛びつく。靴下を脱いで、裾を捲って、川の中に足を突っ込んだ。


「川の石の話、俺はまだ許してない」

「え、なんのこと?」

「川はずっと流れてて、水は留まることをしらない。菌も汚れも流されていく。だから、川の中にある石は綺麗なままで、舐めても大丈夫だって」

「……僕が言った?」

「お腹を壊したのは誰のせいかな」

「馬鹿馬鹿しい話を信じた君のせいだ」

「なんだと!」


 夏生の「あれ以降、川が苦手だ」と憤慨する様子に真冬は苦笑する。謝っても許してもらえないなら、いっそのこと開き直ってしまえと言わんばかりに夏生の背を叩いた。


「嘘つきエピソードはまだまだある」

「……辱めるつもり?」

「熊と木の実、雪と水、風とブランコ、砂とだんご虫……それっぽい理屈ばっか並べて」

「ううん、覚えてない」


 真冬が覚えているのは「手招き坊や」だけだ。両手を前に差し出して、相手の服の裾を掴み、クイクイと引いて興味を移す。相手が手招き坊やの方を見ると、手招き坊やは喜んで指を指す。その先には、手招き坊やのお宝が隠されているとか。


「お菓子の山だった」

「お宝はお菓子か。子供らしい」

「チョコとクッキーのお菓子が多かったな」

「きのこかたけのこか」

「たけのこ」

「うわ、戦争だ。……ははっ、一回やってみたかった。楽しいな」


 真冬は笑顔を浮かべて前を見る。

 少し先の曲がり角を左に行くと、真冬の家があるのだ。するりと切り傷の隠された袖を擦り、切り傷を上から握り締める。


「……もう、ここまででいいよ」

「……そうか」


 夏生は足を止めて、真冬と向かい合わせに対面した。言いたげな口元は閉じられたまま、悔しそうに拳を握りしめている。


『真冬、真冬、今度は向こうで遊ぼう』


 夏生が真冬の手を引いて。真冬は夏生を揶揄って、笑って、駆け抜ける。過去の幸福な思い出は、真冬の傷を埋めてくれた。

 それだけで、十分だった。


「会いに来てくれてありがとう」

「……」

「じゃあ、バイバイ」


 夏生から目を逸らして背中を向ける。しかし曲がり角にまで差し迫った時、後ろから真冬の名前が呼ばれた。

 ぱっと振り返って夏生の方を振り返る。すると夏生は腕を振りかぶり、何かを真冬へと放り投げた。


「わ」


 咄嗟に受け取る。放り投げられたのは、新しい、バナナミルクの紙パックであった。どこに仕込んでいたのだと夏生の方を向くと、彼はポケットを指し示す。


「それ、捨てといて」

「……、ポイ捨てってこと?」

「ん」

「駄目」

「あっそ」


 淡々とした口調でありながら、二人の表情は楽しそうだ。口元が弧を描くのを抑えきれず、真冬は肩をすくめて告げる。


「じゃあ、いらなくないから、貰っとく」

「いちごミルクの次にオススメ」

「へえ、楽しみ」


 真冬は待ちきれずにストローを刺して飲み始めた。せっかちな性格ではない。ただ、家に持ち帰れば飲まれてしまうかもしれないから。

 口の中には濃厚な甘さとバナナの風味が広がる。悪くない。好きな味だ。満足気な表情を浮かべる真冬を見て、夏生も笑みを浮かべた。


「じゃあ真冬、またな」

「……!」


 ひらりと手を振って、夏生は背を向ける。

 夏生の言葉は真冬の心を癒やしていく。傷も痣も火傷も、全部全部なかったことのように治癒されていくようだった。

 また、再開しよう。

 また、遊ぼう。

 なんでもない言葉が今の真冬には深く刺さる。嬉しくて、苦しくて、涙が溢れて止まらない。


 それでも幸せな気持ちだけが真冬の心を満たしてくれた。

 



 

 








 

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