とっておき

とてい

第1話

 二〇二三年十一月。俺は天使に出会った。


 少し肌寒く、冬の到来を予感させるような日だった。最近何かと忙しくてできていなかった読書のために、スマホで近くのカフェを探した。いつもはそんなこと思わないのだが、なんとなくその時の気分で行ったことのないカフェに行きたいと思い、コーヒーの種類が豊富だと評判のカフェに入った。店自体は広くも狭くもなく落ち着いた雰囲気で、店内には読書の邪魔にならないちょうどいい音量でジャズミュージックがかかっている。ブレンドコーヒーとフレンチトーストを頼み、カバンから文庫本を取り出す。小さいころは活字の集合を毛嫌いし本など一度も読んだことがなかったのだが、とあるきっかけで一冊の本を読み、俺はその本に救われた。それがきっかけで読書の魅力にどっぷりとはまってしまった。今では純文学、エンタメ小説、エッセイからビジネス書までなんでも読むようになった。今日の一冊は少し前に買った大好きな作家のエッセイ。

「お待たせいたしましたー」元気で溌剌とした声と同時に、俺の右太ももに熱湯がかかった。

「あつッ!」思わず反射で大きい声が出てしまった。実際それはアツアツのホットコーヒーだったのだが、今はそんなことどちらでもいい。ホットコーヒーをこぼしてしまった女性の従業員はすいません、すいませんと慌てて謝罪を繰り返した。彼女は急いでテーブルの上にあったおしぼりや紙ナプキンで俺の右足、コーヒーをこぼした所を何度も何度も拭いてくれた。

「大丈夫ですよ」本当はひりひりと痛いほど熱くて全然大丈夫ではなかったのだけれど、強がって紳士に対応した。彼女は依然しゃがみこんでずっと俺の右太ももを拭いてくれていた。最初はパニックになるほど熱かったが、思ったより早く熱は冷めていき、今では目を潤ませながら上目づかいであやまる目の前の女性を可愛いと思えるくらいには落ち着いてきた。やがて店の奥から店長らしき男性が両手いっぱいにおしぼりと紙ナプキンを持って駆けつけてきた。入れ替わるようにして、女性の従業員は肩を落とし背中を丸めキッチンの方へ歩いて行った。その背中を眺めているとなんだか申し訳ない気持ちになった。

 早く着替えたかったが出された食事を残す気にはなれず急いで平らげたころには、もう熱さは微塵も感じられなかった。その代わりに湿ったズボンから発生するコーヒーの匂いが体全体にまとわりついていた。普段なら心地よくて落ち着くコーヒーの香りも、この時ばかりはそうは思えなかった。コーヒーをこぼしてしまいひどく落ち込んでいた彼女のことが心配だったが、店の奥の方にいるのか、はたまた今日はもう上がらされたのか、一度も姿を見ることはなかった。

 伝票を持ってレジに向かうとさっきの店長らしき人が対応してくれた。ちょび髭の生えた優しい顔で申し訳なさそうに何度も謝ってくれた。ご厚意で代金を無料にしてくれて、クリーニング代までいただいた。おまけに五食分のセット無料券までいただきなんだか得をした気分だった。たまたま事故でこのようなことが起きてしまったが、お店や従業員の雰囲気自体はとても気に入っていた。無料券もいただいたことだしまた近いうちに訪れよう。そんなことを思いながら少し重量感のあるドアを押し店を出たところ、後ろから声をかけられた。

「本日は大変申し訳ありませんでした」振り返るとコーヒーをこぼしてしまった女性の従業員が深々と頭を下げていた。

「大丈夫ですよ。もう全然熱くないし」

「あの、今度なにかお詫びさせてください」

「いいよいいよ。クリーニング代も、無料券までいただいちゃったし。何なら得したくらいだよ」俺は気を遣わせないためにわざと明るく言ってみた。少しの間の後、彼女は思い切った様子で口を開いた。

「もしご迷惑でなければ…」そう言って彼女は一枚の紙きれを差し出してきた。アルファベットと数字の羅列。俺の視線はその紙と彼女とを何往復かした。

「私のLINEのIDです」言ったそばから彼女の顔はみるみるうちに赤くなった。

こんなドラマみたいな展開が現実にあるのか。今度は俺の顔に熱が帯びていくのを感じた。どうしたものかと戸惑っていると

「ごめんなさい、こんな断りにくい状況で」卑怯ですよね…と苦笑いを浮かべながら彼女は紙を持つ手を引っ込めた。

「ううん、そんなことないよ」俺は気が付いたら彼女の手を取っていた。LINEのIDの書かれた紙を彼女の手からそっとはがす。夕日が二人だけを照らしてくれていた。目が合い二人で微笑みあった。その日初めて見た彼女の笑顔はまるで天使のようだった。


「おかえりー」

玄関を開けると五歳になる娘の有紗がお出迎えしてくれた。この一言で一気に夢からさめたような気がした。いいや、実際には家族のこと、主に妻の香澄のことはカフェから家に帰るまで何度も頭に浮かんでいたのだが、改めてもう一度気を引き締めようと思った。別にまだ悪いことしたわけじゃないのに。台所では香澄が夕飯の支度をするところだった。

「ただいま」

何千回と言ってきた言葉だが、少し力が入った。いつも通りの調子で言えただろうか。香澄はいつもの笑顔でおかえり、と返してくれた。ひとまずは大丈夫だろう。

 俺は手洗いうがいをさっと済ませてから部屋着に着替え、自室のベッドに腰を下ろした。ふぅ。思わず息が漏れてしまう。カバンの中の本を本棚に戻すよりも先に、スマホで彼女のLINE IDを検索した。スマホの画面には友達とのプリクラの写真と、麻衣という名前が表示された。喜びよりも不安の方が大きく、どうせならいたずらであってほしかったとさえ思ったが、気持ちは間違えなく高揚していた。思い切って“追加”をタップするが、もちろんそれだけでは何も起こらない。

 妻にばれないように紙を捨ててこの出会い自体をなかったことにすれば、これからも家族三人で平凡だが仲良く幸せに暮らせていける未来は保証されていただろう。しかし俺は彼女のLINEを追加してしまった。この時の俺の頭の中は、LINEを交換するくらい浮気にはならない、だとか、彼女はお詫びがしたいだけだから無視するのは失礼だ、といった言い訳ばかりが次から次へと浮かんできていた。

 とにかくLINEを追加してしまったのだから何かメッセージを送らなければならない。ああでもないこうでもないと悩んだ末に

『こんばんは。今日カフェでコーヒーをこぼされたものです(笑)LINE教えてくれてありがとう。返信待ってます』

というありきたりな文章を送信した。どっと一気に疲れが流れ込んできた気分になり、そのままベッドに倒れこんだ。間もなくドアがノックされ、俺が体を起こすのと同時にドアが開いた。そこに立っていた香澄としばらく目が合っていた感覚を覚えたが実際は一秒にも満たなかっただろう。

「省吾さん、夕飯できたよ」

「ああ、すぐ行く」

もうそんなに時間が経っていたのか。スマホで時間を確認すると一九時一〇分だった。彼女からの返信はまだなかった。


 夕飯は味がしない、のどを通らないとまではいかなかったが、どこか上の空だった。傍から見れば普通の家族団らんの風景に見えるだろうが、俺の頭の中は彼女のことばかりが支配していた。

「今日行ったカフェどうだった?」香澄が訊ねてきた。

「いいところだったよ。あまり人も多くなかったし落ち着いた雰囲気だった」俺は麦茶を一口飲みそう答えた。同じく読書好きな妻と俺にとっていいカフェの基準というのは、美味しい料理や映えるパンケーキがあるといったものではなくて、静かで落ち着いているか、それのみが重要だった。

「じゃあ読書も捗ったみたいね」

「ああ、だいぶ集中できたよ」

「いいわね。今度は私と有紗も一緒に連れてってよ」

「やったー。ありさもいく」有紗はおはしを持ったまま右手をあげた。目からは嬉しさがにじみ出ている。

「ああ」この流れで断るのも不自然だと思い曖昧に返事をした、と同時にポケットの中のスマホが震えた。


『メッセージ送ってくださりありがとうございます。今日は本当にすいませんでした』麻衣からの返信だった。夕飯を食べ終えた俺は自室で返信を打った。

『ほんとに気にしなくて大丈夫だよ(笑)』

『今度夜ご飯ご馳走させてください。何か好きな食べ物はありますか?』

『うーん、お寿司とかどう?』

『お寿司!私も大好きです』

『今日の帰り道にたまたまおいしそうなお寿司屋さん見つけたんだ!そこに行こう!』

『ぜひ!行きましょう!』

場所や日時が決まった後も会話はテンポよく続いた。

 俺はメールやLINEよりも電話派、もっと言えば直接会って話したいと思う人だった。メールやLINEだとその人の表情や温度感、雰囲気などが伝わってこないから。しかし今の俺にとっては逆にありがたいことなのかもしれない。一回り近く年齢の離れた女の子とのメッセージのやり取りだけで、こんなにもドキドキしているのが伝わらなくてすむのだから。学生時代の青春をもう一度体験しているみたいでわくわくした。


 俺にはもったいないほどの妻の香澄、元気で明るく愛おしい有紗。そこそこのやりがいとそこそこの給料をくれる仕事と3LDKのマイホーム。これ以上に何も求めるものはなかった。しかし人間は馬鹿で欲深い生き物である。今目の前にある幸せに慣れてしまい、それは気づかぬうちに当たり前や普通といった言葉で片づけられるようになる。そして新しい幸せとやらを探しに外に出る。しばらく探し回った後ふと振り返ってみると、元々手にしていて自分が当たり前だと思っていたものが、キラキラと美しく光り輝く尊いものに見える。それこそが本当の幸せだったんだと気づいたときにはもう遅い。どれだけ追っても追っても、再びそれを手に入れることはできない。


 約束の日。俺が十分早く店に到着すると麻衣はもうすでに待っていた。淡いピンクのトップスに黒のロングスカート、コートを羽織っているが寒そうに手をこすり合わせていた。以前会ったときはカフェの制服姿で髪も結んでいたのだが、その時とはまるで雰囲気が違った。胸くらいまでの長さの艶やかな黒い髪には緩くウェーブがかかっていて妙に色っぽかった。まだ彼女の年齢も正確に把握していないが、二十四、五歳くらいのOLにも見えたし、一九歳の大学生にも見えた。

 彼女が俺の姿に気が付いたので小走りで駆け寄った。

「ごめんね、待った?」

「いいえ、私もついたばかりです」

「よかった」

「お客さん多いですね。まだ六時半前なのに」

「大丈夫、予約してあるから」

俺たちは暖簾をくぐり、その店唯一の個室の席に案内された。靴を脱ぎ、掘りごたつの座席に腰を下ろす。本来は四人用なのだろうか、二人で使うには十分な広さだった。おまかせ十貫握りを二つと一品物をいくつか注文した。麻衣がレモンサワーを頼むので俺も生ビールを注文した。元々お酒は大好きだったが、子どもができてからは控えるようになり、最近はそれほど飲んでいなかった。今日も飲むつもりはなかったが、まあ一杯くらいはいいだろう。ほどなくして注文の品が運ばれてくると、麻衣はぱっちりとした大きな目を輝かせた。

こんなおいしそうなお寿司初めてです、と無邪気に喜ぶ麻衣と乾杯をして寿司を食った。

「省吾さんはお寿司だと何が好きですか?」

「うーん、やっぱりマグロかな。赤身が好き」

「あたしもです!」

「奇遇だね。まだ食べないの?」俺は麻衣の皿の上の赤く光り輝くマグロを指した。

「はい。これは最後に食べるんです」

「麻衣ちゃんは好きなものは最後に取っておく派か」

「はい。楽しみは最後まで取っておきたいんです。省吾さんは最初に食べる派ですか?」今度は麻衣が俺の皿を見てそう言った。

「うん。いつも最初に食べちゃう」

「すぐに食べちゃったら楽しみがなくなっちゃうじゃないですか」

「また頼めばいいじゃん」

「それは反則ですよ」

二人の笑い声が個室内に広がった。久しぶりに飲むせいか早くも酔いが回って楽しくなってきた。麻衣の方もほんのりと頬が赤くなっている。麻衣がレモンサワーをおかわりするもんだから、俺も二杯目を頼んでしまった。お酒のせいもあるのだろうか、麻衣はおとなしそうな見た目とは裏腹によくしゃべる女の子だった。大学三年生の二十一歳で心理学を専攻しているという彼女は、勉強が難しくて大変だとぼやいていた。学費は奨学金とバイト代ですべて自分でまかなっているらしかった。「大変だね」とその場に適した相槌を打てばよかったものの、その時の俺は「ご家族は?」などと余計なことを聞いてしまった。麻衣は一瞬だけ暗い顔を見せたが、その後すぐに笑顔になった。がんばって作った笑顔に見えた。

「九歳のころ父を亡くしたんです。それがきっかけで母は精神を病んでしまって働けなくなってしまって…生活は両親の貯金がありましたがそれも限りがあるので、中学に入学してからは早朝に新聞配達のバイトを始めました。そこからはずっとバイト三昧です」そう話す麻衣の表情からは悲しさよりも、むしろ強ささえ感じた。

「そうだったんだ。それは大変だったね」

「今は母も元気になって二人で暮らしてるんですけどね」麻衣はそう言い笑って見せた。逆に俺の方はというと、感動し目を潤ませ、悲しい顔になってしまった。なんて健気で前向きな女の子なのだろう。この子とあわよくば、という気持ちが少しでもあった自分が情けなかった。

「ごめんなさい。こんな話してしまって」

「ううん。話してくれてありがとう」

「逆に省吾さんはどんな子どもだったんですか」麻衣は切り替えるように明るく訊ねた。

「俺は別に普通だったよ。可もなく不可もなくって感じ」

「部活動とかは?」

「親が厳しかったから勉強ばっかりさせられてたよ」

半分本当で半分は嘘だった。麻衣は洗いざらい過去を話してくれたのだから、俺も包み隠さず話すべきだと思ったが、すべては話せなかった。

 こんな感じでお互いの話をしているとあっという間に二時間近くが経過していた。麻衣はお酒が強く、たくさん飲んで頬は赤かったがそこまで酔ってはいないようだった。それは俺にとっては救いだった。もし酔っ払った麻衣に甘い声で言い寄られたりしたら、俺は断る術など持っていない。というか、そんな状況をきっぱりと断れる男などこの世に存在するのだろうか。男の理性などあてにはならない。しかしとにかくこの日はホテルどころか二件目に行くこともなく解散となった。


 今日は会社の同僚と飲んでいた。会社の同僚と飲んでいた。そう自分に言い聞かせて玄関の扉を開いた。不自然にならないように、いつも通りを意識して、ただいまを言った。

「おかえりなさい」香澄はソファーでテレビを見ていた。普段通りの妻に見えて一安心した。

「あら、飲んできたの?」俺の顔を見て香澄がそう言った。香澄には、夜ご飯はいらないとしか伝えていなかった。

「ああ、会社の同僚と飲んできた」

「あなたが飲むなんて珍しいね」

「うん、確かに久々に飲んだよ」別に何かを咎められたわけでもないのに、少しだけドキリとしてしまった。俺はぼろが出ないうちにそそくさと自分の部屋へ移動した。スマホを見ると麻衣から一件LINEが入っていた。

『今日はありがとうございました。とてもおいしかったし省吾さんとも話せて楽しかったです。私がお詫びをする予定だったのに結局ご馳走になってしまってごめんなさい。今度こそ私にご馳走させてください(笑)』

“今度”という言葉に思わず顔がゆるむ。自室に移動していてよかったと胸をなでおろした。その日も夜遅くまで楽しいLINEのやり取りは続いた。


 二回目のデートは二週間後、思っていたよりも早く決まった。麻衣とのLINEは毎日続いていて、その話の流れでイタリアンに行くことになった。今度は麻衣が店を予約してくれていた。前回と何ら変わらない晩ご飯だけのデートのはずだった。前回と違ったのは、麻衣に「もう少し一緒にいたい」と言われ、二件目にバーに行くことになったという点だった。初めて行ったバーだったがここでも個室を案内してくれた。これはもしかしたらもしかするかもしれない、という浮ついた気持ちでいると、やはり麻衣の方から仕掛けてきた。注文を終えスタッフが個室の扉を閉めると、対面に座っていた麻衣は立ち上がり俺の左隣に座りなおした。急にそんなことをするもんだからドキッとし顔を見ると、麻衣は下からとろりとした目で笑って見せた。うす暗い照明が麻衣のピンク色の頬を照らした。二人の間に隙間はなく、肩が、太ももが、お尻が密着していた。触れ合っている部分から麻衣の体温が伝わり、それはやがて体全体にまで広がっていった。

「もしかして迷惑でしたか?」麻衣は俺の左手に右手を絡ませてきてそう言った。

「全然。迷惑だなんてそんな」俺も麻衣の手を強く握り返した。

「えへへ、そうだと思ってました」麻衣はそう言いながら俺の左手薬指から指輪をそっと抜いて、それをそのまま俺のズボンのポケットに押し込んだ。俺の股間のあたりに小さな火が灯った。ドリンクが届いて乾杯をしてからも二人の体はずっと密着しあったままだった。俺の腕をまくってべたべたとくっついてきたり、足を絡ませてきたりした。シャツの第一ボタンを外し首にキスをされた時には俺の理性は跡形もなくどこかに吹っ飛んでしまっていた。一度冷静になるために席を外しトイレに行った。その間に妻に帰りが遅くなることを連絡した。個室に戻ると麻衣は元の席、俺の対面の席に座っていた。

「そろそろ行こうか」俺は店を出る準備をしながらそう言った。

「もう少しだけ待ってください」そう言う麻衣の表情にどこか違和感のようなものを感じた。

「大丈夫?」

「少し確認したいことがあって」

「どうしたの?」

「正直に言ってほしいんですけど、何か私に隠していることないですか?」

「え、隠してること?何もないけど」突拍子もない発言に動揺しながらもそう答えた。初めて麻衣と会ったカフェでのあの日から今までのことを頭の中で振り返る。これまでの会話やLINEの内容もできる限り思い出してみたが何もわからなかった。麻衣の顔を見てみると彼女の表情から色が消えていた。少し前までのお酒に酔った甘い表情は一ミリもなく、能面のような、絵画のような無表情でただこちらを見ていた。

「そうやって嘘をつくんですね」喜ぶときも悲しむときも慌てるときも感情表現豊かな麻衣だったが、今の彼女は何を考えているのかまるで読めなかった。初めて見るその表情に不気味さを覚えた。

「嘘なんかついてないよ。少し飲みすぎておかしくなっちゃったんじゃない?」空気を変えるために少し声のトーンを上げてみたが、個室内の空気は静寂に凍り付いたままだった。

「実は私、十二年前にあなたと会っているんです」そう言われ、俺は今から十二年前の記憶を手繰ってみた。十六歳の頃、当時の俺は物心ついた時からずっと受けてきた親の厳しい教育に耐えかね、反発し、道を踏み外していた時期だった。その時のとある出来事が真っ先に頭に浮かんだ。それは友人にも妻にも言っていない、俺が一番触れてほしくない出来事だった。俺が何も言えずに黙っていると麻衣は一度大きく息を吐いた。

「あなた、人を殺したことがありますよね」全身に悪寒が走り、体が硬直した。冷静さを取り戻すためテーブルの上の氷水を一気に飲み干した。

「今から十二年前、私が九歳のころ、私の父親はあなたに殺されました。私と父はコンビニに行ってて、その帰り道を二人で歩いていました。その時道端で揉めているあなたたちに出会いました。正義感の強い父は、私が気づいたときにはもうすでに走り出し、ケンカを止めに行っていました。仲裁に入った父を押し倒したのがあなたでした。押し倒された父は頭から血を流し動きませんでした。立ちすくむあなたを見ていた私に気が付き、あなたはその場から逃走。父は打ち所が悪くそのまま亡くなってしまいました」

俺の頭の中に浮かんでいた出来事と麻衣が話した内容は同じだった。

「俺がそんなことしたって証拠どこにもないだろ」俺は早まる鼓動を懸命に抑えながら言った。

「首のほくろと手のあざです。当時からずっと忘れることなく憶えていた犯人の特徴です」

「いつから気づいて―」言い終わる前に、突然頭に鈍い痛みを感じた。頭の内側から殴られているような痛みに襲われた。

「あなたがカフェに来た時からです。私は犯人のことをずっと殺してやりたいと恨んでいました。しかしいつまでもとらわれていてはだめだと思い、前を向いて生きていくことを決めました。そんな時にあなたが私のバイト先のカフェに現れました。犯人である確証はありませんでしたが、もしかしてと思いあなたに近づきました。不自然に思われないように慎重に調べて、今日あなたがあの時の犯人だと確信しました。これは神様が私に課した宿命だと思いました」

「あの時、コーヒーをこぼした、のも?」頭痛に加え息苦しさにも襲われた。必死に呼吸をしながら言葉を発したが、俺のこの問いには麻衣は何も答えなかった。

「麻衣のやりたいようにやりなさい。父が私によく言ってくれた言葉です。なので私はあなたを殺します。あなたがトイレに行っている間に水に大量の薬を入れました。少しおかしな味はしませんでしたか?一気に飲み干したのでそろそろ効いてくるころじゃありませんか?」麻衣の言う通り意識はどんどん遠のいて行っていた。そんな俺をよそに麻衣は抑揚のない声で淡々と続けた。

「あなたには奥様と娘さんがいるみたいですね。二人には私や母親のように悲しい思いや苦しい思いはしてほしくありません。なのであなたを殺した後、心苦しいですが二人も殺しに行きます。そして私は警察に自首しに行きます。」

混濁する意識の中最後に聞いた言葉は絶望そのものだった。



 俺は死んだ。死はもちろん初めてだった。死んだ俺はどこかわからない部屋で横になっていた。死後の世界はこんな感じなのか。まるで明晰夢のようだった。意識はぼんやりとはしているが確かにあり、手足も動かせた。体を起こしてみると一人の女性の姿が目に入った。

「おはようございます」状況が理解できず、思考は完全に停止してしまった。麻衣がそこに立っていた。

「私のとっておきのサプライズはどうでしたか?絶望の中死にゆく感覚はいかがでしたか?」

なにがなんだかわからないが、懸命に脳を働かせ、情報を整理しようと試みた。俺はこの女に殺されたはずだ。何とかそれだけは思い出せた。

「大量の睡眠薬を飲んだのでまだ頭が回らないのでしょう」目の前の女の発言は俺をさらに混乱させた。睡眠薬、だったのか。

「妻と娘は?」働かない頭で最初に浮かんだことを口にした。

「安心してください。何もしてません」この言葉に俺は心の底から安堵した。

「どうして俺を殺さなかった」この問いに麻衣はふふっと笑みを浮かべてこう答えた。



「すぐに殺しちゃったら楽しみがなくなっちゃうじゃないですか。楽しみは最後まで取っておきたいんです」

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とっておき とてい @suika_kabocha

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