11.ぴったりの場所

 八百屋の一家はコールハース家という。父が町の外に野菜畑を持っており、母は八百屋の主人。娘が店を手伝い、婿は弁護士として店の二階に自分の事務所を持っている。

 家族で三つも仕事を持って充実しているが、手が足りないと感じることがままあった。野菜の配達や、事務所に来る相談客の対応ができる人がもう一人いれば、と考えることが何度かあったという。

 そこへ現れたクレリアは、野菜の扱いを知っている上に、難しい文章の読み書きもできるので、コールハース家のお手伝いとしてぴったりな人材というわけだ。


「――というわけで、うちに住み込みながら朝は八百屋で配達の準備をして、昼は婿の事務所を手伝うっていうのはどうだね? 一日のお手当は、うちに寝泊まりする分を引いて……これだよ」


 ヘルダはメモ紙の端に金額を走り書きして見せてきた。正直に言えばクレリアはその日給が常識的に見て高いのか低いのか分からなかったが、一番左の桁が七から始まっているので、安くはないのだろうと想像した。それに、ヘルダもラウラも親切な人物だ、悪いようにはしないだろう。


「それで構いません」

「旦那には昼に聞いてみるけど、多分大丈夫。ほとんど決まったようなもんよ。またよろしく頼むよ、クレリア」

「はい」

「夫にあなたを紹介するわ。ついてきて」


 ラウラは早速クレリアを八百屋の二階へ連れて行った。外階段を上がった先に楕円形の看板がかかっており、『法律相談事務所』という文字が見えた。


「シモン。ちょっといいかしら?」


 ラウラがドアをノックすると、返事の前にドサドサと何かが崩れる盛大な音が聞こえてきた。


「どうぞー……」


 ラウラはクレリアと顔を見合わせて中へ入った。

 そこには、ファイルや書類が盛大に散乱した悲惨な現場があった。雪崩の発生源と見られる机の脇で、細身のスーツ姿の中年男性が呆然としている。


「まあ、ひどい」

「やっちゃったよ。今日来るお客さんのファイルを探してたら、こうなっちゃった」

「まさに棚をひっくり返したような有様ってやつね。あなたのここでの初仕事は地味なものになりそうよ」


 ラウラは苦笑する。シモンはそれを聞いて少し嬉しそうな顔になった。


「もしかしてその子はお客さんじゃなくてお手伝いさん?」

「ええ。この子はクレリアといって、ご両親を探す旅をしていて、旅費が必要なんですって。うちに住み込んでお手伝いをしてもらおうと思うの」

「それはいいね。異論ないよ。それで、早速僕の後始末に力を貸してくれるのかな?」

「八百屋の方はしばらくお客は少ないし、お昼まで特に用事もないから、クレリア、手伝ってあげてくれる?」

「分かりました」

「後で昼食前のおやつを持ってくるわね」


 ラウラはそう言い残して下へ降りていった。クレリアはシモンへ向き直ってお辞儀をした。


「よろしくお願いします」

「こちらこそよろしく。じゃあ、君はファイルをアルファベット順に棚へ並べてくれるかい? 僕は書類をファイルに入れ直すよ」

「はい」


 クレリアは言われたとおりに、ファイルを背表紙に書いてある名前を見ながら大きな戸棚へ収めていった。


「クレリアはご両親を探しているって話だったね。今後はどこへ向かう予定なんだい?」

「まだ何も決まってません。顔も名前も知らないし、手がかりは少ないので」

「そうなのか。それは難儀しそうだね」


 ファイルの数は、この事務所の窓から見える人と同じくらいではないかと思うほど多い。クレリアはそこで思いついた。


「あの、聞きたいことがあるのですが。生まれた子に魔除けのために悪い名前を付けるっていう風習について何か知りませんか?」

「魔除けに悪い名前を付ける……?」


 シモンは書類を床から拾う手を止めたが、考えた末に首を横に振った。


「分からないなぁ。君はそういう名前があったのかい?」

「おくるみにその名前が縫い付けられていたんです。私を育てた人が調べてくれたところによると、地域や家によってはその風習があるらしいんです」

「なるほど。それは少ないけれど大きな手がかりだね。じゃあ、お客さんが来たらついでに聞いてみようか? 商売をしてる人が多いから、そのツテで情報が集まるかもしれないよ」


 願ってもない申し出だった。


「すごく助かります。お願いします」

「任せてよ。格好悪いところばかり印象に残っちゃ嫌だからね」


 シモンは気さくに笑った。

 そこへドアをノックしてラウラが入ってきた。皿やカップを載せた盆を抱えている。


「おやつの野菜チップスよ」


 薄く切られてパリパリに乾燥したかぼちゃや根菜が皿に盛られている。ラウラがそれをソファセットのテーブルへ置いて、お茶の用意を始めた。


「あ、それ美味しいんだよね。僕のおすすめは――あ、痛っ」


 シモンが突然指をかばった。だがすぐに笑いを浮かべる。


「紙の縁であれしちゃった」

「ま、ドジなんだから。包帯巻くわよ」


 ラウラは勝手知ったる様子で机の引き出しから救急箱を出すと、ガーゼと包帯を出して夫の指を手当てした。

 クレリアはその光景をまじまじと眺めた。家庭の医術的手当てを見るのはこれが初めてだったのだ。修道院や聖宮ではちょっとの怪我にも惜しみなく秘術を使っていた。秘術の訓練も兼ねていたし、すぐに傷を治せるからだ。

 シモンは妻にお礼を言うと、平気な顔でおやつとお茶に取り掛かった。覆われているだけでまだそこにある傷のことが気になるのは、どうやらクレリアだけらしい。


「さ、クレリアもどうぞ」

「はい」


 隙を見てこっそり秘術で治してしまおうか、と考えながら、クレリアもソファへ座った。

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