20. 押しかけ女房

 先生の助手サラさんは医師だった。そういえば、お母様について病院へ慰問にいくと、同じ制服をきた女性がたくさんいた。あれが看護師! メイドかと思っていた!


「私、本当に何も知らなくて恥ずかしいわ。どうやったら看護師になれるのかしら?」


「専門学校があるんですよ。試験に受かれば、誰でも入学できます」


「そうなのね! 私でもなれる?」

「もちろん。ただ、奥様は働くような身分には見えません。学校は全寮制ですし、ご夫君が許可しないと思いますよ」

「そうなのね。彼のお手伝いができたらいいなって思ったのに」


 もしそうなったら、先生は私を助手にしてくれるかしら? サラさんみたいに、一日中ずっと先生のそばで仕事を手伝える?


「ご夫君を、愛しておられるのですね」


「え?」


「すみません。随分と年齢が離れているので、政略結婚なのかと。貴族にはよくあることですから。ジルベルト様に望まれて、その、ご実家のために……」


 なるほど。そういう見方があってもおかしくない。貴族はたいてい政略結婚で、歳が離れている場合は特別な事情があることが多い。没落貴族の令嬢が裕福な平民に金銭援助を求めて結婚するという図式は、確かに一般的だ。


「残念ながら、どちらかと言えば押しかけ女房なんです。私が望んで一緒にいるの。だから、彼の役に立ちたいんだけど、何もできなくて。この本を買うわ。言語を選べるかしら? 国際語じゃなくて、できれは母語がいいの」


「お調べしましょう。ジルベルト様が羨ましいですね。こんなに美しい奥様に、これほど愛されているのですから」


 マルセラはそう言うと、とても優しく微笑んだ。そして、私の国の言葉で書かれた入門書を探して、購入してくれた。


「お金を払うわ」


 お母様から少しだけお小遣いをもらっていた。私が使うのは国民の税金。自分で働いて得たものじゃない。これが自分で稼いだお金だったなら、先生も私を見直すかもしれないのに。

 


「これはプレゼントさせてください。二人のお幸せの記念に」


「まあ、ありがとう! じゃあ、あとでお茶をごちそうさせて。有名なカフェに行ってみたいの」


「分かりました。では、そちらはお言葉に甘えることにします」


 書店を出てから、私たちは周辺の伝統工芸品店を見てまわった。その中でも、黒い雄鶏をかたどった木彫りにカラフルな模様つけた雑貨が、特に目を引いた。


「これは奇跡と幸運のシンボル。ガロと言います。巡礼者を無実の罪から救った伝説の雄鶏の丸焼きがモチーフなんですよ」


「かわいいわ! これはコルクの飾りになっているのね。飲みかけのポートワインの栓にするのにピッタリ。これがあれば、ジルも飲みすぎないかもしれないわね」


「奥様は、本当にご夫君のことばかり考えていらっしゃるんですね」


「そう? そうかな。彼のこと、とても好きなの。でも、なかなか気持ちが伝わらないわ」


「そんなことはないと思いますよ。ほら、あちらを」


 マルセラが目で指したほうを見ると、先生がこちらに向かって走ってくるところだった。もう起きちゃったのね。ゆっくり寝かせてあげたかったのに。


「ティナ! 探したよ。心配したぞ。大丈夫だったかい?」


「おはよう、ジル。もっとゆっくり寝ていてよかったのに。お疲れなんでしょう」


 私はバックの中からハンカチを取り出すと、先生の額の玉の汗を拭った。急いで走ってきてくれたのかな。この辺りは治安が良さそうに見えるけど、そんなに心配することあったのかしら?


「起こしてくれればよかったのに。君を一人してしまって、すまない」


「一人じゃないわ。マルセラが案内してくれたの。執事さんのお孫さんよ」


 私がそう言うと、先生は初めてマルセラの存在に気がついたような仕草をした。そして、私の手を取って自分のほうに引き寄せると、私の腰に手を回してぐっと抱き寄せた。えー、何? なんでこんなに密着するの?


「君がマルセラか。妻が世話になったね。困ったことはなかったかい?」


「いえ。周囲の眼をうっとおしいくらいに楽しませていただきました」


 何の話? 誰か私たちを見てたっけ? 気が付かなかった。ああ、そうか、マルセラに憧れる女性から睨まれてたのかな。こわいこわい。


「そうだろうな。申し訳なかった。ここはもういいから、屋敷に戻ってくれ」


「ジル、マルセラとカフェでお茶をすることにしているの。観光案内のお礼に」


「奥様、それは結構です。邪魔者は退散しますよ。どうかごゆっくり」


 マルセラはそう言うと、さっとお辞儀をしてから去っていってしまった。引き止める暇もない。あんな風に逃げなくてもいいのに!


「お茶くらい一緒に飲んでほしかったわ。別に邪魔じゃないわよね?」


「ティナ、君にはもう少し教えなくちゃいけないようだね」


 先生の声が、いつもより少し低かった気がした。何も悪いことしてないのに、なぜか背筋がゾクッとした。

 

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