生卵はお早めに

@katarinbo

第1話

 このお話は、私が四歳の頃、我が家で起きた大変な出来事です。当時、私は、父と母、父方の祖父母と家族三世代五人で暮らしていました。

  

 十月半ばのある日のことでした。

 朝、私が目を覚ますと、家の中は薄暗く、しーんとしていました。家中のカーテンは閉まったままで、私の他に起きている人は誰もいませんでした。

 その頃、私は、祖父母と川の字で寝ていました。が、祖父も祖母も、布団に入ったままで、起きようとしませんでした。

 離れた部屋で寝ている父も母も、いつもなら仕事に出るはずなのに、やはりベッドから起きてきませんでした。

 祖父は、私を枕元に呼び寄せると、苦しそうに言いました。

「本家に行って、神谷さんを呼んでもらって」

 我が家は分家で、本家というのは祖父が生まれ育った家で、我が家の隣に建っていました。敷地はつながっていて、普段から私もよく行っていました。

 それから神谷さんというのは、隣町の町医者のお医者さんのことでした。当時私は体が弱く、保育園を皆勤した月がほとんどないくらい、ほぼ毎月熱を出しては、神谷さんにかかっていました。ですから私にとっては馴染みのあるお医者さんでした。

 しばらくすると、神谷さんが往診にやってきました。いつもは医院でみる神谷さんが、家にいるのがなんだか不思議な気がしました。

 神谷さんは、家族をひとりずつ診た後、祖父の肩に、後にも先にも見たことのない太い注射を打ち、帰って行きました。

 その日は、車で一時間半かけて、母方の祖父母がやってきて、私の面倒をみてくれました。

  

 翌朝、私は、明るい日差しのもとで目を覚ましました。目を覚ました瞬間「あれ?」と思いました。いつもは、窓のない仏間で寝ているので、お日様の光が差し込んでくるなんてことはありません。

 ねぼけまなこで顔を横に向けると、私の隣には、本家のおばさんが寝っ転がっていました。辺りを見回すと、私たちはどうやら、居間の縁側に近いところに寝ているようでした。これは一体どういうことでしょう。

 戸惑っていると、私が起きたことに気づいたのか、隣で寝ていたおばさんが、目を覚ましました。

「みんなね、夜中に救急車で病院へ行ったよ」

 この日も、母方の祖父母が来てくれました。私は祖父母と共に、祖父の運転する車で、市民病院へ向かいました。家族が救急車で運ばれた病院です。

 病院でようやく、家族全員がダウンした原因を知ることができました。原因は……食中毒でした。食中毒の原因となったのは生卵でした。前の晩に食べた、とろろかけご飯に混ぜ込んだ生卵が原因だったのです!   

  

 その当時、生卵を混ぜ込んだとろろかけご飯は、我が家の定番メニューのひとつでした。

 その日の夕方、仕事から帰ってきた祖父は、上機嫌で、すり鉢とすりこぎを使って長芋をおろしました。すりおろしたとろろに、生卵を落とし、混ぜ込んで完成です。これをご飯に乗せて食べるのが、我が家のとろろかけご飯でした。

 母が仕事から帰ってくると、祖父と祖母と私と四人で食卓を囲みました。とろろかけご飯は祖父の大好物でした。祖父は、おいしそうにとろろかけご飯を頬張りました。

 一方私は、とろろかけご飯が好きではありませんでした。「好きではない」というか、何となく手が伸びないというか、食べたいと思えなかったのです。一度だけ食べたことはありましたが、やはりその日も食べる気になれませんでした。

「とろろ、食べないの?」

 祖母に聞かれました。私はこくんとうなづきました。食べないからといってとがめられることもなければ、無理に食べさせられることもありませんでした。私はとろろがかかっていない白ご飯とおかずを食べました。

 父は仕事から帰ってくるのが遅く、毎晩、後からひとりで晩御飯を食べていました。その日も、仕事から帰ってくると、作ってあったとろろかけご飯を食べました。

 こうして翌朝、生卵入りとろろかけご飯を食べなかった私を除いて、家族全員がダウンしてしまったのです!

  

 ずいぶん後になって母から聞いた話ですが、発症したその日、家族は高い熱や猛烈な下痢、激しい嘔吐に悩まされたそうです。

 朝方家族が発症すると、父はすぐに生卵に当たったのだと分かったそうです。そして自分だけ遅れて食べた分、遅れて発症することも察しました。元気なうちに、母の実家に電話をして、応援を頼んだとのことでした。

 そして父の読み通り、遅れて食べた分、やはり時間差でひとり遅れて発症したそうです。

  父が機転を利かせてくれたおかげで、発症したその日、車で一時間半かけて、母方の祖父母が来てくれ、日中我が家で、家族を始め私の世話などをしてくれました。私は母方の祖父母が来てくれたことは全く記憶にありませんが、その日、私は何の不安も恐れもありませんでした。不自由をした記憶もありません。

  夜中に救急車を呼んだのは、下痢や嘔吐のため、脱水症状を起こしたからでした。

「救急車を呼んだのは誰だったかしら? お父さんだったんじゃないかしら?」

 母が自分のことでいっぱいいっぱいだったのに対し、父は気丈に行動してくれたそうですが、救急車に乗る時、父の血圧が低く、自分よりも容体が悪いことを知り、驚いたそうです。

 救急車へは、四人全員を担架で運ぶことができず、症状の重い祖父と父が担架に乗り、祖母と母は、歩いて救急車に乗ったそうです。

 家族全員が病院へ行ってしまうと、幼い私をひとり家に残すことになってしまい「(一晩、私に)ついていてほしい」と、本家のおばさんにお願いしたそうです。が、おばさんが私のそばにやってきたのは、朝方になってからだそうで、私が目覚める前だったようです。  

 四歳の私は、ぐっすり眠っていて、真夜中のこの騒動で、目覚めることはありませんでした。何も知らず眠ったまま、たったひとりで夜を過ごしたのでした。

  

 こうして、私を除く家族全員が入院してしまいました。

 そうなるとやはり、母方の祖母が駆けつけてくれました。入院したその日から、私も母方の祖母も、病室の簡易ベッドで寝泊まりするようになりました。こうして一家で、病院暮らしが始まったのです。

 入院した当初、家族は、それぞればらばらの部屋へ入りました。しばらくすると、祖母と母が二人部屋で一緒になりました。二人のベッドの間に簡易ベッドを置き、母方の祖母と私は身を寄せ合って寝ました。

  朝が来ると簡易ベッドを片付け、そこに点滴がおかれました。祖母と母は毎日毎日点滴を受けていました。点滴を受けている間は静かにしているようにと言われました。私は全く覚えていませんが、母は気分がすぐれず、私が母のベッドに触ると「触らないで」とよく怒っていたそうです。

 私にとっては、本当に長い長い病院暮らしでした。当時私は保育園へ通っていましたが、送り迎えできる人がいなかったので、保育園は休むしかありませんでした。保育園へも行けず、ずっと病院で過ごしました。

 

 同じ病院に、交通事故で入院している若い奥さんがいました。奥さんは、よく私の話し相手になってくれました。奥さんの病室でおしゃべりすることもありましたが、青空の下、秋の空気の心地よさを感じながら、病院の屋上のベンチに座っておしゃべりするのが、一番の楽しみでした。

 奥さんには小学二年生の娘さんがいました。娘さんは、毎日学校帰りにランドセルを背負ってやってきました。奥さんの病室で、娘さんとも一緒に遊びました。でも娘さんと遊ぶより、奥さんとおしゃべりしている方がずっと楽しく感じました。

 ある時、奥さんは、お見舞いでもらったりんごを娘さんのためにすりおろしました。一緒に遊んでいた私にも食べさせてくれました。りんごをすりおろして食べたのは、初めての経験でした。こんな何気ないことも、忘れられない記憶として残っています。それほど病院暮らしはつまらないものでした。

 私にとってこの奥さんの存在はとても大きなものでした。もしこの奥さんがいなかったら、私の病院暮らしはどんなに耐え難いものだったろうと思うと、本当にありがたい存在でした。

  

 またある時は、何もすることがなく暇を持て余し、病院内をうろついていました。今では考えられないかもしれませんが、病院の廊下で針を拾いました。注射針でしょうか? それとも点滴の針? 廊下の隅の壁際に落ちていたのを見つけたのです。ちょうど看護師さんたちの詰所のそばだったので「落ちてました」と拾って、そのまま詰所のカウンターに置きました。今ならそもそも落ちていることも問題でしょうし、勝手に拾うことだって許されないかもしれません。こんなどうでもいいことを覚えていたりします。

  

 生まれて初めて銭湯にも行きました。ずっと付き添ってくれている母方の祖母に連れられて、何度か行きました。

 家族が入院した病院は市民病院で、市内で一番大きな病院でした。今は市の外れの、のどかな場所に移転していますが、当時は、市街地にあって、商店街の中に病院はありました。夜、銭湯へ行くために外へ出ると、商店街のオレンジ色の灯がいくつも明るく光っていました。その中を歩いて、商店街にある銭湯へ行きました。

 我が家は、市の外れにあって、三方が田んぼや畑に囲まれているような緑豊かな場所にありました。街灯も少なく、日が落ちると辺りは暗くなりました。布団に入ると、たまに車の通る音が聞こえましたが、夏の夜は、ウシガエルの鳴き声がうるさいほどでした。秋は虫の音が心地よく響きました。

 暗い夜しか知らなかった私にとって、病院の周りは、夜でもオレンジ色で明るくて、大勢の人の気配があることに驚きました。夜に銭湯に行くだけなのに、何だか別世界に来たようでわくわくしました。

 ある時は、銭湯に行くついでに、母方の祖母に、銭湯のそばにあるショッピングセンターに連れて行ってもらいました。肌着を買ってもらいました。退屈な病院暮らしをしていると、そんなちょっとした買い物ですら、とても楽しく感じました。

  

 祖母と母は、割とすぐに同じ二人部屋になりました。その病室で、私と母方の祖母も過ごしました。離れた部屋にいる、祖父と父には全く会えませんでした。

 会えない間、二人がどうしているか全く分かりませんでした。母ですら、父についての情報は全く入ってこなかったそうです。

 一度くらいは母方の祖母に連れられて、祖父の病室や父の病室へ行きましたが、父の病室はひどく遠く感じました。記憶が曖昧ですが、渡り廊下を渡って、違う棟の部屋にいたように思います。

 しばらくすると、ベッドが空き、祖父が斜め向かいの部屋へ入ってきました。本家のおばさんが、祖父に付き添ってくれていました。

 それから何日かして、ようやく父が、祖父と同じ病室へ入ってきました。こちらも二人部屋でした。ようやく家族が近くでまとまりました。

  

 祖父と父が近くに来ましたが、私は、二人の病室へはほとんど行きませんでした。というか行きたくなかったのです。

 なぜかというと、その部屋の端には、ベッドの長さの八割くらいもあったでしょうか、大きくて真っ赤な筒形のものが横たわっていたからです。取っ手とホースが付いていました。その正体を後から知ったのですが、それは「消化器」でした。その消化器をなぜか私は「真っ赤で危険な爆弾」だと思い込んでいたのです! そして「いつか爆発にするに違いない」と思っていました。

 ですからこの部屋に入ると、いつも落ち着かず、怖くてびくびくしていました。何の恐れも不安もなく過ごしていた私ですが、この「大きくて真っ赤な爆弾」だけは、なぜか怖かったのでした。

  

 この病室に来た頃にはもう、祖父はかなり体調が悪化していました。

 祖父の顔の周りは、ビニールで囲われていました。この部屋に入って怯えている私を見て「怖くないよ」と本家のおばさんが、ビニールに手をかけて、私に声をかけてくれました。私が怯えているのは「祖父の顔の周りのビニールのせい」だと思ったのでしょうか。

  

 ある日、私があの仲良しの奥さんの病室で、娘さんと一緒に遊んでいると、コツコツ。ノックの音がしました。ドアの外にいたのは、ガウンを羽織った私の父でした。

「ゆり、ちょっと」

 父が私の名前を呼び、手招きしました。私が奥さんの病室から廊下へ出ると、父は扉を閉めて言いました。

「おじいちゃんが死んだよ」

 父は沈んだ声で、一言言いました。そして父も私も沈黙したまま、私は父に、祖父の病室へ連れていかれました。

  病室のドアを開くと、いつもとは違うただならぬ雰囲気が漂っていました。祖父が白いベッドに横たわり、そのベッドに突っ伏して祖母が泣いています。それを取り囲むようにして、白い服を着たお医者さんや看護師さんが立っていました。

 そうです。祖父が亡くなったのです。

 私はその光景をぼーっと見ながら、しばらくの間、呆然と立っていました。気がつくと、頬に涙がつーっと伝わり、それからとめどなく涙があふれてきました。「死」というものを理解したわけではありませんし、四歳の子どもに理解できるはずもありません。が、いつの間にか、祖母の隣にあった椅子に座って、声も出さずに泣いていました。

 祖父の直接の死因は、食中毒ではありませんでした。「糖尿病」のせいでした。

 後に母から聞いた話で、食中毒の治療には「糖」を点滴で体に送り込むのだそうです。しかし祖父が糖尿病であることを病院側に伝えていなかったそうです。それゆえ糖尿病の人には送り込んではいけない「糖」を体内に送り込んだため、一時食中毒は改善したものの、糖尿病が悪化し、それが元で亡くなったのでした。

  

 祖父はお酒が大好きでした。飲むために働くという人でした。

 我が家からは三河湾が近く、隣町は海に面していて、今もタコ漁が行われています。祖父は、自分の工場(こうば)を持ち、タコ漁で使われる蛸壺用の縄をなっていました。それ故祖父は「なわやさん」と呼ばれていました。

 自分の好きなペースで働き、夜になれば、毎晩仲間たちとお酒を飲んでいました。お店に行って飲むこともあれば、飲み仲間がうちにやってきて飲むこともありました。

 祖父が飲み仲間と、我が家でお酒を飲んで和気あいあいと楽しい時間を過ごす時は、私も祖父の膝の中で、一緒にその雰囲気を楽しんでいました。祖父を訪ねる人が多く、祖父が生きていた頃の我が家は「賑やかな家」でした。

 私の中の祖父は、一升瓶を抱えているイメージです。実際には日本酒だけでなく、ビールやウイスキーも飲んでいたそうですが。

 お酒が大好きな祖父でしたが、実は「糖尿病」を患っていました。けれど病院にかかることもなく、食事制限をすることもなく、好きなように飲んで生きていました。

 祖父が「糖尿病」ということは、祖父も祖母も分かっていましたが、母に至っては「(祖父が)糖尿病って聞いたことあったかしら? あったかも?」というくらい曖昧なものでした。

 糖尿病だと病院側に伝えていれば、適切な処置が行われたはずですが、残念ながら祖父も祖母も伝えなかったために、祖父は命を落とすことになってしまったのでした。

  

 祖父が亡くなり、翌々日が葬儀でした。近所のお寺で葬儀が執り行われました。やってきた人たちがそれぞれ、祖父に花を手向けました。これも初めて経験することでした。

 火葬場で、祖父が白い骨になって出てきたのを見た時には、それはそれは衝撃を受けました。ついさっきまで祖父の体があったのに、いつの間にか白い骨になってしまったのです。

「これがおじいちゃんだよ」「骨を拾ってあげて」と言われても、四歳の私は受け止めることができませんでした。ただ怖くて、どうしても骨は拾えませんでした。みんなが骨を拾うのを見ながら「人は死んだら白い骨になるんだな」と思いました。

 家族は仮退院で祖父の葬儀を済ませると、また病院へ戻り、再び入院しました。さらに翌々日に家族揃って退院し、ようやく私も家に帰ることができました。

  

 随分大きくなってから、何歳の時だったかは忘れましたが、保育園の出席帳を見返したら、ちょうど十日間休んでいました。「たった十日だったのか」と衝撃を受けました。私にとっては本当に長い長い十日間でした。いろいろなことがあった十日間でした。こんなにもいろいろあった十日間は、私の人生の中で、他にありません。

  

 両親は共に小学校の教師でした。先生が十日間も休むなんて、なかなかないことでしょう。  

 母は、祖父の葬儀のための仮退院で、太い注射を2本くらい打ってもらい、葬儀後に、勤め先の小学校に出勤したそうですが「無理して来なくていいよ」と帰されてしまったとのことでした。

 退院後も、食欲がなかなか戻らず、体調もすぐれず辛かったようです。

  

 家族の入院中、私は家に帰った記憶がありません。母方の祖母は、看護と私の世話のため、結局ずっと私と一緒に、病院で寝泊まりしてくれました。自分の家のことを顧みず、仕事も投げ出して。母の実家では「どうしてお前がそこまでやるんだ」と、非難ごうごうだったそうです。母方の祖母が不在の十日間の間に、飼い猫もどこかに行ってしまったとのことでした。

 いろいろあって本当に大変な十日間でした。が、私が不安を感じたりしたことはありませんでした。あの赤い大きな爆弾をのぞいて。トラウマもありません。たぶんそれは、母方の祖母が、ずっとつかず離れず私に寄り添っていてくれたからではないかと思います。大好きな母方の祖母とずっと一緒にいられたことは、嬉しいことでもありました。母方の祖母へは、本当に感謝の気持ちしかありません。

  

 退院後、祖父のいない日常が戻ってきました。祖父がいなくなったと同時に、我が家を訪ねる人もいなくなってしまいました。和気あいあいとした宴が開かれることは、もう二度とありませんでした。急に家は静かになってしまいました。

「おじいちゃんが夢に出てきた」と祖母は、しばらくよく泣いていました。ただ静かなだけでなく、何となく重い空気が、我が家に立ち込めていました。

 私は祖父が大好きでした。おじいちゃん子でした。教師をしている忙しい両親には構ってもらえず、祖母は私の世話をしてくれるだけでした。祖父が私にたっぷり愛情を注ぎ、かわいがってくれました。そんな祖父を亡くし、私の心にも大きな穴が空いたのだと思いますが、四歳の私にはそんなことまで分かりませんでした。

 ただ「人は死ぬといなくなるんだな」と実感していました。

  

 幸いなことに、そんな重い空気は、程なく打ち破られました。母に赤ちゃんができたのです! 一瞬にして、我が家に光が差し込みました。ぱあっと明るくなりました。母のお腹はまだぺちゃんこで「赤ちゃんがいる」と聞いても全然分かりませんでしたが、私は嬉しくてたまりませんでした。それは私だけでなく、家族みんながそうだったことでしょう。

 後に母に「どうして私と妹は年が離れているのか」と尋ねた時に、祖父が亡くなり家の中が暗くなってしまったので「赤ちゃんをつくろう」と母が父に持ちかけたからだ、と返ってきました。

  

 私は人形が大好きで、いつも片手に人形を抱えていました。その人形に「まり」と名前をつけていました。「まり」という名前も大好きだったのです。母に赤ちゃんができたと知って、母のお腹に向かって「まりちゃん」としょっちゅう呼びかけていました。

「祖父の生まれ変わりだから男の子だよ」と、周りの大人たちに言われましたが「絶対女の子がいい」と私は譲りませんでした。

 出産予定日を翌月に控えた頃、七夕の短冊に「絶対に女の子にしてください。男の子だったら捨てます」と書きました。母は、私の様子を見て「男の子だったらどうしよう」と不安になったり気を揉んだりしたようです。

  

 臨月を迎え、いよいよ生まれるという時、私も母と共に、母の実家に来ていました。

 朝方五時に陣痛が来ました。私も起こされ眠い目をこすりながら、母方の祖父の運転する車で、母方の祖母も一緒に病院へ向かいました。

 待合室のベンチでうとうとしていると、七時過ぎに無事に赤ちゃんが生まれました。生まれてきたのは、私が待ちに待った女の子でした。母は女の子が生まれたと分かり「ほっとした」そうです。

 妹は家族会議の末、私が呼んでいた通り「まり」と名付けられました。「名前は『まり』にしたよ」と聞いた時には、飛び上がるほど嬉しかったです。

 妹が生まれると、私は大好きな人形はそっちのけで、妹に夢中になりました。私だけではありません。家族の誰もが妹に夢中になりました。私は保育園から家に帰るのが楽しみでなりませんでした。愛らしい妹と、産休を取った母が家にいるのですから! 

 妹はただいるだけで、我が家の希望でした。きらきら輝く存在でした。妹が生まれてきて思いました。「人というのは、生まれてきて、そして死ぬんだな」と。「それなら『生きる』というのはどういうことなのだろう?」

 4歳から5歳になる、わずか8ヶ月の間に起こった一連の出来事は、得難い大きな経験となりました。


 その後、とろろかけご飯が、我が家の食卓に上がることはなくなりました。卵かけごはんはよく食べていた記憶はありますが、退院後も食べていたかどうかは覚えていません。

  

 食中毒は、原因によって症状の重さが違いますが、生卵は特に重いそうです。

 生卵の食中毒を引き起こすのはサルモネラ菌です。発熱、下痢、嘔吐などの症状が出ます。発症率は低いものの、発症すると症状が重く、稀に小児や老人など死者も出るそうです。ネットニュースなど検索すると、死者が出ると記事になるようです。我が家はニュースにはなりませんでしたが。

  サルモネラ菌は、殻についていたり、卵そのものが汚染されて中に入っていたりします。購入後は、常温で保存せず、冷蔵庫で保存したほうがよいとのこと。

 防ぐポイントは

 ・生卵で食べる場合は賞味期限内に食べる。

 ・生卵は食べる直前に殻を割り、すぐに食べる。

 ちなみに我が家では、卵屋さんから直接買っていましたが、保存は常温でした。そして、祖父の作った生卵入りのとろろは、作ってから二、三時間、常温でそのまま置いていました。

 その間に、菌が繁殖してしまったのでしょう。

  

 私自身が辛い目にあったわけではないので、とろろもとろろご飯も、生卵も抵抗なく食べられます。ですが、この時のことを教訓に、生卵はいつも「なるべく早く食べなければ」という気持ちになります。

  

 四歳の私が(家族と同じように)食べていたら死んでいた、とお医者さんに言われたそうです。命拾いしたと言っても過言ではないでしょう。私の命は「生かされた命」なのだと今なお思います。

「生きるということはどういうことなのか」もいまだによく分かりませんが、何事もなく平和に幸せに生かしてもらっていることに、日々感謝するばかりです。

  

                終わり

  

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