兵庫きのさき温泉きみ待つ診療所(整形外科医南埜正五郎追悼作品)

南埜純一

第1話 三宮交差点での出会い 


   

 両親が離婚してからというもの、素直に心から笑えた日は数えるほどしかなくて、嫌な日の印象ばかり記憶に刻み付けられ心に残っているが、その中でも最悪といってよい一日が今日だった。春休みの印象まで根底から覆されてしまった。

 

十年近く小学校の教職に就いてきて、ゆったりと心やすまる、それでいてうきうきと高揚もする安堵に満たされるのが春休みだった。夏休みは期間こそ長くあるが、プールの監視や平和登校等さまざまな雑事が組み込まれているので落ち着いて休暇を楽しめない。それに較べ春休みは大きな行事もなく、学年が断絶することもあって、ささやかではあるが安息と躍動の喜びに満たされるお気に入りタームだったのに‥‥‥。

 

―――もう、茂樹には会えないのだろうか。

 

高架下の赤信号をにらんで、千明はぎゅっと下唇を噛んだ。両腕と胸に息子の温もりが残っているのに、それらが蟻地獄へ吸い込まれるがごとく、体から抜け出していってしまう感覚に襲われるのだ。

 

―――心だけでなく、感覚まで病んでしまっているのか!

 

首を振り、目をつぶって雑踏を瞼から消し去ると、千明はハンドルから手を離して、両腕で体を抱いて茂樹の感触を胸と腕に呼び戻したのだった。

 

六時を過ぎてしまうとビルの谷間に点々とネオンが点り始め、キラキラとまばゆい光の中で、JRと阪急三宮駅から吐き出される大勢の乗客がフロントガラスの向こうで交差する。ぼんやりと人の波を眺めていると、


「ちょっと、おばちゃん! 助けて、助けてえな!」

 

急に歩道から人影が飛び出してきて、いきなり助手席のドアを開けた。付けまつげに青く塗りたくったアイライン。真っ赤なワンピースも、幼子の面影残す整った丸顔と不釣合いだった。


「ちょっと、アナタ! 何よ。―――ね、ね! なんなのよ!」

 

千明が驚いている間に、少女は助手席のシートに体を沈めウィンドウの視界から隠れてしまった。


「おばちゃん。車、早う出してや! ウチ追われてんやさかい。早う、早う!」


「早う、早うってったって、困るわよ。本当に、‥‥‥ねぇ、降りてよ」


「何ゆうてんの。ウチ、追われてるて言うたやろ。早う行ってや。ほら、信号、青に変わってるやんか」

 

追われているという言葉に嘘はないようで、少女の表情には切迫感が漂い、眼差しは忙しなく車外を探っていた。


「もう!」

 

無理にでも降ろしたかったが、後続車のクラクションに急かされ、仕方なく千明はアクセルを踏んだ。


「おばちゃん、おおきに。ホンマに助かったわ」

 

国道四三号線へ下りるまではシートを倒し、両手の隙間から車外を窺っていたが、三宮駅から距離を置いて安心したのか、少女は助手席から人懐こい笑顔を向けた。


「あのねー、さっきから気になってたんだけど、私はまだ三十二で、アナタに『おばちゃん』て言われる年ではないと思ってんの。大体アナタ、年いくつなの? そんな格好してるけど、よく見ればまだ中学生じゃないの!」

 

ハンドルを握りながら、千明は少女を一瞥しフロントガラスに声を荒げた。少女を睨み付けたかったが、若葉マークの運転技量が許してくれなかったのだ。


「なに言うてんねん。ウチ、大学生やで。ちゃんと学生証もあるんやで。嘘やと思うんやったら、見せたろか」

 

中学生との判断が余程心外なのか、少女は膝の上のグッチのショルダーを開けて、中をのぞき込んで学生証を取り出そうとする。


「いいわよ、ニセの学生証なんか見たくもないから。それより、誰かに追われてると言ってたけど、一体、誰に追われてるのよ」

 

ただでさえイライラが嵩じているのだ。職業意識も手伝い、真相というか、背景事情を問いただしたくなる。


「‥‥‥うん」

 

少女はしばらく迷っていたが、未熟ドライバーに親近感を覚えたのか、ふくれっ面をフロントガラスに向けて口を開いた。


「皓(こう)ちゃんいうたら、ヤーさんつかまえてきたりして。ホテルでシャツ脱いだら総スミ(総入墨)やんか。シャーワー浴びてる間に逃げよと思たんやけど、感づかれて、もうちょっとで捕まりそうになったんや。生きた心地せえへんかったで」

 

さすがに怖かったのか、話し終えて、ほっとワンピースの胸をなで下ろしたが、子供っぽい仕草からは想像もできない話の中身だった。


「アナタ! まさか売春してんの!?」


「ちゃうちゃう。ウリ(売春)やなしてへんで。病気うつされたら恐いやろ。治らん病気やったら最悪や。ウチはな、客がシャワー浴びてる間に料金持ってとんずらする役やねん。ウリやなしてると思わんといてや」

 

口を尖らせ、少女は運転席を向いて吐き捨てた。


「いずれにしても美人局(つつもたせ)か詐欺まがいのことをしてんじゃないの。そんなことしてると仕舞いにひどい目に遭うわよ」

 

何もかも学校や教師のせいにされたら堪らないのだ。問題が起こる度に、父兄とマスコミの責任追及合唱。そんな現状への不満も手伝い、千明は赤信号手前で助手席を睨み付けてしまった。


「おばちゃん、まだ動いてんのに横向いたら危ないやんか。ウチを道連れにせんといてや。―――ところで、いま言うた美人局て、一体なんやの?」

 

運転技能未熟はとっくに見抜かれていたのだ。少女の指摘はありがた迷惑だったが、知的レベルの低さは千明に身近な優越感を生み出してくれた。美人局の意味も知らない子供だと思えば、受け持ちの生徒たちと同じマニュアルで対処可能だった。


「あなたのような女性がね、悪い男とグルになって、間抜けた男性を脅したり、お金を巻き上げたりすることよ。‥‥‥でも、美人局の意味も知らないで、よくまあ」

 

大胆極まりないと、千明は呆れてしまう。


「ふうーん。分かったような、分からんような説明やな。ま、何でもエエやんか。それより、おばちゃんもウチと一緒に仕事をせえへんか。ヘタ打たへんかったら、よう儲かるで。そしたらこんなボロ軽四に乗らんと、ベンツかベンベー(BMW)買えるやんか」

 

美人局の意味を聞いても、少女は意に介する風もなく、先輩ぶって千明を仕事仲間に引き入れようとする。


「何てことを言うのよ! それに大きなお世話よ、ボロの軽四で悪かったわね。文句があるんだったら、降りてよ! それとさっきも言ったように、おばちゃんて言うのは止めなさい! ‥‥‥ほんとにもう、アッタマくるんだから」


「ゴメン、ゴメン。そんなに怒りなや。ほな、何て呼んだらエエの?」


「私の名前は藤井千明だから、‥‥‥藤井さんとか、千明さんとか呼べばいいでしょう」

 

呼び名の指示に、千明は一瞬口ごもってぎこちなかった。頭の片隅に、「藤井先生」と呼びなさいと言いたい気持ちがあったのが分かって、自身、妙な不快感に襲われてしまったのだ。


「ちあき‥‥‥て、まさか、千と秋と書くんと違うやろね」

 

少女は千明の軽い動揺には気づかず、名前の字に苦虫をかみ潰す顔で吐き捨てた。


「違うわよ。千と明るいの、千明よ」

 

怒気を含む問いかけに、千明は自分でもおかしいくらい構えてしまった。本名は千秋なのに、勝手に千明と名乗っているのを見抜かれた後ろめたさがあった。


「‥‥‥ふーん。千と秋の千秋ちゃうんやったらエエわ」

 

少女は漢字の説明には頓着せず、千と秋の千秋でないことだけを三度も確認した。


「ウチの名前が千秋やねん。一日に秋が千回も来るような思いで、ウチの生まれるのを待ち続けてたなんて言いやがって‥‥‥、ようも、あんな嘘つけるで。新しいオバハンと結婚して、ウチのこと見向きもせんで、オバハンの子ばっかり大事にしやがって」

 

苦々しげに吐き捨てると、少女はフロントガラスを睨み付けた。


「えっ! あなたも千秋だったの‥‥‥」

 

千明は思わず助手席をのぞき込んでしまった。彼女も父から同じ言葉を何度も聞かされたが、結局、彼は自分と母の元から去って行った。少女は、母が彼女から離れて行ったが、父に裏切られたという意味では同類だった。


「‥‥‥ね。どうする? 私のアパートへ寄っていく? それとも武庫之荘の駅前で降ろそうか」

 

武庫川に沿う県道を北に上りながら、千明はしんみりと問いかけた。境遇を知ってしまうと、このまま別れるのは何となく心残りで、不思議な縁を感じてしまう。それに、今夜は少しでも長く人と一緒に居たかった。


「そやね、ちょっと寄っていこか。三宮へ帰ったらヤーさんに会いそうやし。帰っても、今夜は皓ちゃんとこへクー子が泊まりに来るさかいオモロないし」

 

ボーイフレンドの名前をだして、少女は傍目にも可笑しいくらい幼児的仕草のふくれようだったが、


「やっぱり、寄っていくわ」

 

決心がつくとこぼれる笑みを浮かべ、運転席の千明に吸い込まれる黒目勝ちの瞳を向けた。


「それじゃ、ケーキでも買っていこうか」

 

駅前のロータリーの木陰に車を止めて、千明は向かいのシャヒロでイチゴショートを六つも買う。四つにしようか迷ったが、少しでも少女と長く居たい気持ちが数を増やしたのだった。


「六つも買っちゃった」

 

照れ笑いを浮かべ、店名の入ったカラフルなケーキボックスを少女に手渡すと、千明は軽やかに右足でアクセルを踏んだ。阪急武庫之荘駅から北へ五百メートルばかり走って、小さな川を跨いで右へ折れる。大きな居宅が数軒続くが、その奥に古ぼけた板張りの水色アパートが建っていて、これが千明の住み処だった。


「いやぁー、何ちゅうボロアパートやの。皓ちゃんのアパートでも、もうちょっとましやで」

 

へこみとキズだらけの軽四から降りて、少女は呆れ顔で二階建てのおんぼろアパートを見上げた。


「あんまり大きな声で言わないでよ。今年の十月に取り壊されることになってるんだから」

 


一月末の解体予定が立っていたが、強引ともいえる銀行主導の債権回収に小口債権者たちが猛反発し、座り込み阻止行動に出たため、解体が十月まで延びてしまった。広い庭の南側半分には、大型建設機材が置かれたままで、住民は洗濯干し場に往生していた。


「何人くらい住んでんの?」

 

玄関前で千明に追いつき、少女は声を落とした。


「私を入れて三人よ」

 

大半の住人が解体予定前月の昨年十二月末までに引っ越したので、残っているのは解体反対派、といえば聞こえは良いが、引っ越し先の見つからなかった三人だけだった。


「‥‥‥何ていう名前なんかな、このアパート」

 

玄関ガラスドアに書かれた名前を見たくせに、少女は見なかった振りをして照れ笑いを浮かべた。


「‥‥‥」

 

ぎこちない仕草から、千明はとっさに少女が漢字を読めないと判断した。教師歴十年ともなると、この程度の観察眼は養われるものである。

 

―――やっぱり、漢字が読めなかったんだ。

 

この結論に至ると、出会ってからの不可解だった少女の言動が、すべて辻褄が合う。


「敬藍荘っていうの。家主さんが藍好きだったんで、藍を敬う意味で敬藍荘って名前を付けたらしいの。建ってずいぶん経つから、タデ科の一年草の藍の濃い青緑から、今では薄い水色に変わっちゃってしまったの。イメージから離れ、しかもこの藍の字は難しいけど、敬の字は分かるでしょ、敬老の日の敬の字だから」

 

漢字の説明をしながら、千明は少女の反応を注意深く窺う。教職に携わる者として何とも複雑で、少なからざるショックを受ける。


「ふぅーん、敬藍荘か。エエ名前やんか。さあ、早う入ろうや」

 

ハンディを悟られるのを嫌って、少女は漢字の話題から意図的に逃げてしまった。


「ここが部屋なの。狭いとこだけど、入って頂戴」

 

玄関を入って右手の二つ目が千明の三号室で、一つ目の部屋には管理人兼住人が住んでいたが、すでに空き室となって久しかった。千明の向かいが二号室で、ここの住人も昨年末に引っ越していた。現在の敬藍荘住人は一階奥七号室と、千明の真上の十四号室の三人だけだった。


「結構きれいにしてあるやんか」

 

千明の後から部屋へ入ってきて、少女は驚いている。


「レディの部屋ですからね。それに、あと半年の命だから、綺麗にしたげないと部屋に申し訳ないでしょ」


「うん。それそれ。ウチ、そういう人に弱いねん。借りはちゃんと返す。そう、仁義に厚い人にな。おば―――いや、千、明さん、気に入ったわ」


「それはそれは、ありがとう」

 

千明は皮肉たっぷりに頭を下げた。なにを隠そう、そこはかとなく漂う少女の名状しがたい不思議な魅力に感じ入って、千明も少女が好きになりだしている。


「さあ、ケーキを食べましょう」

 

奥の六畳間中央に置かれた小さなテーブルに腰を下ろし、向かい合ってケーキと熱い紅茶を飲む。少女はケーキを頬張りながら、自慢げにボーイフレンドや仲間たちのことを語っていたが、千明が家族や学校のことに水を向けると、


「エエやんか、そんな事はどうでも。うっとうしい話は止めとこや」

 

顔をしかめて話題を逸らせるのだった。


「ね、今夜ゆっくりできるんだったら、ここへ泊まっていかない? 私も春休み―――いえ、二、三日空いているから、アパートに居るし」

 

春休みと言おうとして、千明は慌てて理由を差し替えてしまった。教師に対し良い印象を持っていないとの漠然とした判断からだったが、これは間違っていなかった。


「泊まってもエエけど、千明さん、ウチと違う趣味持ってへんやろね。ウチ、前にいっぺん、一緒の布団に寝ぇへんかって、中年のおばちゃんに迫られたことあんねん。」


「えっ! ―――まあ、なに言ってんのよ。あなたに迫ったりなんかしないわよ!」

 

考えもしなかった指摘に、千明は赤くなりながら少女の懸念を払拭したのだった。


「でもケーキを三つも食べると、さすがにお腹が一杯になるわね」

 

紅茶もおかわりしたので、少食癖のついた千明はすでに十分満腹の域だった。


「お客さんが来ると、やっぱり食が進むのかな」

 

敬藍荘に住んで一年余りになるが、教職員名簿には神戸市兵庫区の夫の住所が書かれてあるので、生徒の親が訪れたこともなく、目の前の少女が文字通り初めての訪問客だった。


昨年の春休み、夫に別居を持ちかけたのは千明だった。義母が勝ち気な人で、容易に生活様式や態度を変えてくれず、イライラが募る毎日であった。家庭内には緊張の糸が張りつめ、険悪なムードに覆われて、団らんとは程遠い日々の生活だった。


別居を持ち出せば、夫が困って義母に泣きつくだろう。義母に軟化を促し、家の中をゆったりと明るくしたい。そのために、少し脅かす意味でも実際にアパートを借り、決意のほどを分からせた方がよい。深慮遠謀とはいわないまでも、それなりの思考を巡らせ尼崎へ引っ越したが、解体間近のアパートへ移った嫁の魂胆は義母に見透かされていた。彼女はますます態度を硬化させ、ここぞとばかり無理難題を吹っかけてきた。


「‥‥‥ええ、離婚も視野に入れています」

 

売り言葉に買い言葉の連鎖が続くと、仕掛けた千明は後へは引けず、より強硬な態度を余儀なくされ、気が付くと離婚届けに判を押していた。


「ええ、それで結構です」

 

冷静な判断によるものとは到底考えられない、月一回の息子との面会条件も呑んでしまった。それも今日で最後になった。夫が四月初めに再婚するからだが、


「茂樹が新しいお母さんに馴染むためにも、今日で最後にしてくださいな」

 

玄関先で義母、正確には元義母ということになるが、彼女に告げられ、息子を抱きながら千明は泣き崩れてしまった。


「‥‥‥千明さん。なに考えてんの? 悩みがあるんやったら、聞いたるで」

 

つい三時間ほど前の記憶が蘇ってきて、千明が俯いて目に涙を浮かべると、少女が眉間にしわを寄せ困惑顔でのぞき込んだ。


「―――ううん、いいの。‥‥‥ありがとう。一人になったときに、おもいっきり泣くから。―――本当にいいの。ありがとう」

 

少女の優しさが、今日の千明には心底身に染みる。


「ね、市場の近くに銭湯があるんだけど、一緒に行ってみない? 肌着は私ので間に合うでしょ」

 

人恋しさにかられ、千明は少しでも多く少女との接点を持ちたかった。


「そやね。風呂へ行こか。今日、むちゃくちゃ走って、汗一杯かいたしね」

 

ヤクザに追われ肝を冷やしたときのことを思い出して、少女はバツの悪い笑みを返した。


「さあ、行こう、行こう」

 

可笑しいくらいはしゃいで、二人分の着替えと洗面具をトートバッグとビニールの透明バッグに入れ、九時前に少女を促し部屋を出た。玄関の下足箱は1~6までが千明専用で、6の番号から黒塗りでピンクの鼻緒の下駄を出してやる。


「いやー! かっこエエ下駄で、ごっつう気持ちエエな」

 

カラカラと心地よい音を響かせながら、少女は二、三歩先から振り向いたが、両頬にえくぼが浮かびはっとするほど可愛い笑顔だった。


「ね、あなたを、何て呼んだらいいのかしら。千秋ちゃん、は嫌でしょう」

 

並んで歩きながら千明が微笑みかけると、


「うん。千秋は嫌や。みんなはウチのこと、マリーて呼んでんねん。マリーでええわよ」

 

くいとあごを上げ、仲間に認知されている名前を誇らしげに口にした。


「マリーか。‥‥‥私は真理の方が好きだから、真理ちゃんて呼んでいいかしら」

 

父が千秋の次に考えていた名前なので、少し抵抗があるが、マリーに似ていて、少女には違和感が少ないだろう。


「真理か、―――うん、それでエエよ」

 

気に入ったのか、それともどうでも良いのか、少女は呼び名に頓着しなかった。


「ここよ」

 

小さな公園を横切り、武庫之荘ニューヨーク温泉前で、モダンな名前とはかなり乖離のある、ひっそりと古びた公衆浴場を指さした。家庭風呂の普及で銭湯は衰退の一途をたどって久しいが、風呂のないアパート暮らしの千明には重宝でありがたかった。


「いやー! 広うて、綺麗な風呂やんか。―――ウチらの貸し切りみたいやな。‥‥‥こんなんで、やっていけるんかな」

 

広い脱衣場へ入るなり、真理は千明の受け持ちの小学生さながら邪気のない笑顔ではしゃぎ声を上げたが、番台の老主人に気づくと、首をすくめて声を落とした。普段、これほども入りが悪くはないのだが、県内での新型ウィルス変異株感染患者発生報道に恐れたのか、浴場に一人、ガラス越しの湯気に揺らぐだけだった。


「これ、タオル―――」

 

ブラウスを脱いだ真理にタオルを渡そうとして、千明は慌てて視線を逸らした。〈皓ちゃん命〉。見た目にも不快な右上腕の紅文字が目に飛び込んできたのだ。


「これ、下手やろ。クー子に彫ってもろたんやけど、もっとうまい子にスミ(入れ墨)入れてもろたら良かったわ」

 

真理は誇らしげに右上腕を正面ワイドミラーにさらし左手でたたくと、隣の千明に視線を移して屈託なく笑った。


「‥‥‥」

 

何と答えてよいか分からず、千明は顔を曇らせ、真理の後から浴室へ続いた。中央の湯船には、満々と湯が湛えられ、二人がつかると、ザーッと気持ちよく、青・白・黄のタイル張り円形湯船から湯が溢れ出た。


「‥‥‥な、千明さん。赤ちゃん産んだことあるんやね」

 

初老の先客が出て、自分たち二人だけになってしまったのに、真理は千明に体を寄せて耳元でささやいた。


「ええ、そうよ」

 

苦笑しながら、千明は帝王切開の傷痕に視線を落とした。


「せやけど、よう見たら千明さんてなかなか美人やんか。テレビのCMによう出てる、木村‥‥‥なんていう名前やったかな。あの女優にそっくりやん。ホンマ、よう似てるわ。ホンマのええ女ちゅうのんは、時間が経てば経つほど良うなってくるて、皓ちゃんが言うてたけど、千明さん、ホンマにエエ女やなぁ」

 

湯船にしゃがみ、湯に口までつけて目をくりくりさせ、千明に見とれている。


「ありがとう。あなたも可愛いわよ。化粧なんかしなくても十分ね」

 

じっと見つめられると照れてしまう。同じように肩まで湯につかって真理の視線を逸らした。両親が離婚して以来そうなったと記憶しているが、千明は風呂に心の安らぎを求めるようになった。ゆっくりと湯に浸かっていると一日の疲れが体から溶け出して行き、わだかまりまでも心から洗い流してくれる、そんな安息の場所が浴室だった。

 

―――義母との葛藤が、どれほど和らいだことか。

 

茂樹と湯につかっていると、義母とのいさかいが湯に溶け出してくれるような錯覚に浸れるほど、千明は心が和むのだった。


「久しぶりに、いい湯だわ」

 

こんなに安らいだ感覚は本当に久し振りだった。真理の視線から逃れるためにも、千明はぎこちない笑みを浮かべ湯船から立ち上がった。


「ウチも頭洗うわ」

 

追うように湯船から出た真理と並んでシャンプーの後、背中を洗い合う。


「体の線も崩れてへんし、胸も綺麗やし、―――男がようけ寄って来るやろ。ホンマにエエ形や」


「キャー! やめてよ!」

 

後から乳房をつかまれ、千明は悲鳴をあげてしまった。


「もうっ! そっちの趣味はないって、言ったでしょ!」

 

振り向いてにらみつけると、


「ゴメン、ゴメン。あんまりエエ体してるさかい、ちょっと触ってみたかったんや」

 

友達とよく戯れ合うのか、真理は悪びれる風もなくにこっと笑った。


「ホンマにピタッと合うわ。身長はウチの方が五センチほど低いけど」

 

浴場から出て肌着をつけ終えると、真理は千明の横に並んで目の前のワイドミラーで確認している。身長は160センチ弱で千明より若干低いが、体型も体重もほとんど変わらなかった。ただ胸の張りの差は如何ともしがたく、真理の胸はわずかの動きでゴムまりのように弾んで憎らしいほど可愛かった。


「な、千明さん。ウチ、千明さんが美人やてなかなか気がつかへんかった理由、やっと分かったわ」

 

鏡の中の千明に真理が言葉を継ごうとすると、


「色があまり白くないからでしょ」

 

千明が苦笑いを浮かべ、答えを先取りしてしまった。子供のとき、祖母から何度ため息交じりに告げられたことであろうか。「ほんとに、もう少しだけ色が白かったら、お母さん以上の美人だったのにね」と。幼児期は、祖母の遠慮のない娘自慢に少なからず傷ついたが、今では気を取り直して、

 

―――すぐ目立つより、しばらく経って気づかれるほうが‥‥‥。

 

奥ゆかしくて気品があるのではないか、と思い始めている。


「さ、出ましょう」

 

二人が女湯から出るのと、男湯から倉岡が出てくるのが同時だった。


「あ、今晩は」


「‥‥‥え! ええ。今晩は」

 

いつものように、千明は二階の住人によそよそしい。男性と天井板を隔てただけの―――狭い空間を共有しているだけでも気恥ずかしいのに、風呂上がりの体を見られたと思うと、千明は耳たぶまで赤くなってしまう。浴場での悲鳴と会話まで、倉岡の耳に届いている可能性があるのだ。


「それじゃ」

 

倉岡は千明と真理に軽く会釈すると、星空にカラカラと下駄の音を鳴らしながら大股で帰って行った。


「―――な、千明さん。ごっつう、エエ男やんか」

 

真理は倉岡の後ろ姿に見とれている。自分の周りの男たちとはタイプがまったく違った。長身で、たくましく頑丈な骨組み。太い眉の下の、涼やかな瞳。アニメで見た若武者に出会った気分にさせられてしまうのだ。


「‥‥‥そうかしら」

 

並んで歩きながら、千明は気のない返事だった。倉岡を異性として意識したくない。二階で酒盛りをされたとき、ムキになって抗議したこともあって、倉岡の顔を見るたび、気まずい思いが込み上げてくる。もっとも彼は意にも介しておらず、


「うるさかったら、遠慮なく下から怒鳴ってください」

 

玄関で千明と顔を合わすと、思い出したように笑顔で頭を下げる。


「ね、何してはんの?」

 

真理は倉岡に興味津々である。


「柔道の先生をしてるんですって」

 

七号室の香川民子が好意に満ちた笑顔で語ってくれたので、倉岡三四郎のことはよく知っていた。三四郎の父は知る人ぞ知る著名柔道家・倉岡治五郎で、長男に三四郎という名前をつけて、幼少時から柔道を仕込んできた父子鷹だった。


息子三四郎も中学二年の時、73キロ級全国大会でベスト8まで勝ち進む非凡な才能を見せつけたが、体が出来上がる前に強豪と対戦せねばならない早熟な者の宿命であろうか。三四郎も怪我に泣かされ、高校・大学と無冠のままで終わっていた。


「大会に出るのは今年でお仕舞いにするんやって。三四郎ちゃんも、千明さんと同じで三十二やろ。お父さんが、『早く、結婚しろ』って、うるさいらしいんや。それに、三四郎ちゃんも言うてたわ。『教えることに興味が向くようじゃ、現役の柔道家としては終わりだよ』って。去年から近くの県立高校のコーチしてるやろ、そこにすごい素質のある子がいてるんやって」

 

庭で、ジーンズを竿に干す手を止めて、民子が事細かに、三四郎の生い立ちから今に至るまでを、たっぷりと時間をかけて語ってくれたのだった。


「三四郎ちゃんのこと、よう知ってるやろ」

 

さすがに喋りすぎたと思ったのか、話し終えてから、民子は苦笑しながら肩をすぼめた。三四郎は彼女の大のお気に入りで、阪急塚口駅裏手にある『バー民子』へ友人たちとよく飲みに訪れる、客とママの間柄でもあったのだ。


「へぇー! ホンマに、柔道の先生してんの。そいでやね、ごっつう強そうに見えたんは。先公は嫌いやけど、柔道の先生やったらエエわ」

 

真理の言葉に、千明は眉をひそめてしまった。〈聖職〉などという時代錯誤感覚は持っていないが、さすがに〈先公〉は応える。


「‥‥‥そんなに、先生が嫌いなの?」


「ああ、嫌いやね。先公の顔見たら、ムカムカしてツバ吐きかけとうなるわ」

 

真理は公園に顔を向け、しかめっ面で吐き捨てた。


「ムカつく話、止めとこうや。それより、さっきのお兄さん、千明さんにホの字とちゃうん」

 

真理は急に千明に体を寄せて、彼女の左腕を抱いた。


「ちょっと! 何、言い出すのよ。―――もう、怒るわよ!」 

 

不意を突かれ、千明は夜目にも頬が赤く染まった。同じことを民子にも告げられ、その時も可笑しいほど狼狽したが、今回の動揺ははるかにそれを上回った。


「もう! そんなこと言うんだったら、今夜、泊めてあげないから」


「ゴメン、ゴメン。分かったって、もう言わへんから、そんな怖い顔して睨まんといてや。―――せやけど、千明さんの赤うなった顔、めっちゃセクシーで、可愛いわ」

 

真理のすることは千明には予測がつかない。今度も急に千明の体を抱いたかと思うと、胸にギュッと、姉妹か母子のような自然な仕草で顔を押しつけてきた。


湯上がりの石鹸とシャンプーの匂いが心地よく、突然、言い表しようのない愛しさが込み上げてきて、千明は鼻の奥につーんと痛みが走り、あわてて夜空を仰いだ。またたく星がぼーっとかすんで頬を伝った。

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