先輩後輩、ザルと下戸

先輩後輩、ザルと下戸

 師走のある夜、関東某所。

 乾燥した空気がビルの隙間を吹き抜けている。

 マフラーが風に乗ってひらりと踊り、首元の隙間から冷気が入り込んでくる。

 思わず身を震わせ、隙間がなくなるようマフラーをしっかり締め直す。

 ここは駅近くの交差点。私はいま、目の前の信号が赤から青に変わるのを待つ人の群れの中にいる。

 この時間帯は仕事帰りのサラリーマンで歩道が埋め尽くされている。かく言う私もその内の一人、仕事帰りだ。


 信号が青く灯り、皆一斉に歩き始めた。

 向かいの人とぶつからないよう、人波をかき分けるようにしながら進む。

 ベージュのコートを着た初老の男性、ミニスカートでやたら足を露出し寒そうに見える女性、派手な金髪にMA-1ジャンパーを着たヤンチャそうな青年。

 様々な人達を視界の隅で受け流しつつ歩いていると、前方にやたら背が高くガタイの良い男性が目に留まった。

 なんだか見覚えがあるような。

 ふとその人の顔に目をやると、相手もこちらを見ている。

 そしてその顔にはやっぱり見覚えがあった。

「あれ?省吾くん?」

「あっ、やっぱり明日香センパイじゃないですか!」

 交差点の真ん中で立ち止まってしまった。交差点を渡る人々が、邪魔な私達二人を避けて歩く。

 彼は大学時代のサークルの一つ下の後輩だ。学生時代から、バスケ選手かのような背の高さとプロレスラーかのような体格の良さで一際目立つ存在だったが、その存在感は今でも変わってなかった。大学を出てから四国の企業に就職したという話を人づてに聞いていたが。

 久しぶりだね、などと一言二言口にしたところで、信号が点滅を始めてしまった。慌てて残りの横断歩道を渡ると、彼も私について来た。

「こんなところで会うと思ってなかったからびっくりしちゃった。どうしたの、出張とか?」

「そうです、取引先の企業がすぐ近くにあって。さっき商談が終わって今からホテルに帰ろうってところです」

「そうなんだ。しっかし、大学を卒業してからもう五年経つけど省吾くんは全然変わってないね。目立つからすぐ分かっちゃった」

「そう言うセンパイも昔のまんまですね。どこの女子高生かと思いましたよ」

「……うるっさいなぁ……」

 私は元々童顔なのに加えて身長も低く、昔から実年齢よりかなり若く見られていた。学生時代、周りの女子からは羨ましがられたり無意味に頭をよしよしされたりしたし、男子からはこいつに手を出す奴がいたらそいつはロリコン間違いなしなどとイジられたものだ。

 彼とはお互い連絡先を知らず、ここ五年間一度も会うことはなかったが、それでも会えば一瞬のうちに昔のように会話が弾む。

 私と彼は単なる先輩と後輩というだけの関係ではなかった。

 二人ともある共通の悩みであり秘密を抱えていたから。


 ついつい路上で話し込んでしまいそうになったが、吹き付ける風の強さに二人とも身震いした。

 彼がカタカタと小刻みに震えながら

「明日香センパイ、もう晩メシ終わってます?」

 と尋ねてきた。

「まだだけど」

 と私も震えながら返すと

「せっかくの再会ですし、どっかメシ行きませんか?」

 と提案してきた。幸い、この近くには歓楽街があり、食事をする場所には困らない。

「そうだね、どっか行こうか」

 と返すと彼はニカッと歯を見せて笑い、

「行きましょ!こっちです!」

 などとズンズン歩き始めてしまった。私の方が土地勘があるのに、なんで先導されているんだと思いつつ後を追いかけた。


 そして。


 私は目の前で机に顔をうずめている彼を真顔で眺めていた。

 どうせならちょっと飲みたいっす、などと言い彼が居酒屋に入ろうとした時に思い出しておくべきだったのだ。彼は見た目に反して致命的にお酒に弱い、いわゆる下戸だということを。

 店に入ってとりあえずのビールを一杯、そしてジントニックを半分ほど飲んだ時点でこの有様だ。

 そんな酒の弱さにも関わらず、学生時代から一貫して居酒屋大好き飲み会大好きだというのだから謎だ。破滅願望でもあるのか。


「あんたねぇ……。いまだに自分のお酒の弱さを自覚してないの?」

「いやあ……そんなことないっすよお……ちゃあんと、わきまえて飲んでますって。それに、こんなのまだ酔ってるうちに入らないです」

 酔っ払いの「まだ酔ってない」ほど信用できない言葉はない。現に目は焦点が合ってないし顔は見事に真っ赤になっている。

「そういう明日香センパイは相変わらず酒好きっすねえ」

 一方、私は私で見た目に反してめっぽう酒に強く、いくら飲んでも顔色ひとつ変わることがない。今ではアルハラで問題になるような学生時代の無茶な飲み会でも、散々飲まされたにも関わらずほんの少し気分が良くなった程度で済み、酩酊状態に陥ったことなど人生で一度もない。

「私はただ単に飲もうと思えば飲めるってだけだよ。普段は別にお酒飲まないし」

「ふだん飲まないっていうのはアレですか、買う時に必ず年齢確認されて、身分証明書を見せなきゃ信じてもらえないのが嫌だからっすか」

「……それだけ酔ってても私のことをイジる時は頭が回るんだね。すごいなあ」

 苦笑しながら三杯目の生ビールジョッキを空けた。

 ちょうど店員が近くを通りかかったので注文のため呼び止めた。ぱらぱらとメニューをめくる。

「ししゃもと椎茸バター焼き、あと焼きナスと……いいちこをお願いします」

「まぐろ黒胡椒ステーキとおこげおにぎり、それとレモンサワーください」

 私の後に続けて彼も注文を入れる。

「ジントニックがまだ半分残ってるけど、もう次の飲み物頼むの?」

「だいじょうぶですよ……届くまでに全部飲みますから……」

 そう言いながら彼はメニュー立てにメニューを戻そうとするが、よく見えていないのか何度も何度もメニューがスコスコと空振りしている。

「そんなペースで飲んだらホントに倒れちゃうでしょうが」

 彼の分もまとめてメニューを片付けた。


 箸でつまんで口に運ぼうとしたたこわさが直前でぬるりと箸の間から逃げ出してテーブルに落ち、それを拾い上げるために無表情で箸をカチカチやる彼がなんだか面白くてそのまま眺めていた。

 しばらく箸を使って格闘した後、とうとう観念したのか指先でつまんで食べてしまった。

 無言でお手拭きを差し出す。

「ありがとうございます。うまいっすね、これ」

 大柄な男が真っ赤な顔をして背中を丸めて小さなお手拭きで指先をチマチマ拭いている絵面がどうにもおかしく、ブフッと吹き出してしまった。

「? どうかしましたか」

「いや、別に……なんでもない」

 下を向いて肩をプルプル震わせているところに店員が来た。

「レモンサワーといいちこです」

 飲み物を受け取りながら、空いたグラスと皿を店員に渡した。レモンサワーは私の手元に置いておく。

「あ、センパイ。そのレモンサワー俺のっす」

「分かってるよ。結局そのジントニック全然減ってないじゃない。グラスが空いたら渡してあげるから」

「保護者みたいっすね」

「お店で酔い潰れてもらっても困るんだよね。ちゃんと管理してあげなきゃ」

「保護者みたいっすね」

 同じことを言っている。顔色ひとつ変えず、真顔で。


 店に入って最初のうちしばらくはお互いの仕事の話などをしていたが、彼がすぐにこの状態になってしまったので、大学を出て以降どうしていたのかなどはよく分からないままだった。

 焼酎をくいと一口飲んで尋ねてみた。

「省吾くんさ、大学の時に付き合ってたあの人とはまだ続いてんの?」

 ジントニックを減らすことに挑戦してちびちび飲んでまたうなだれていた彼が、目を見開いてガバッとこちらを見た。

 一瞬たじろいでしまう。

 そのまま少し眉毛がハの字になったかと思えば

「別れました……」

 そう小さく言い、またうなだれてしまった。

「そうなんだ……ごめんね」

 彼は勢い任せに残っていたジントニックを一気に飲み干した。

「あ、ちょっと」

「ある日何の気なしに相手のスマホを見てしまったんです……そしたら浮気されてるのがLINEで分かって……」

「…………」

「それで、何だこれはって問い詰めたら、勝手に人のスマホ見るなんて信じられないみたいに逆ギレされて……」

「あぁ……よくあるパターンだ」

「そりゃあ確かに勝手に見たこっちも悪いかもしれないっすよ。肖像権……の……侵害?」

「プライバシーね」

「ししゃもと焼きナスです」

 店員だ。省吾が、真っ赤な顔でわずかに目を潤ませた状態のまま黙って料理を受け取ると、私の方を見たままおもむろにししゃもを咥えてむしゃむしゃし始めた。

 テーブルを離れようとしていた店員に注文した。

「あ、すいません、獺祭ください」

「焼酎の次は日本酒っすか……やりますねぇ」

「やるも何も……」

「もうちょっとこう、かわいい感じのカクテルとか、飲まないんすか?ここに来てから今までに飲んだのって、ビール三杯と、その焼酎じゃないですか」

「だってこっちの方がごはんに合うし……」

「そうかもしれないっすけどぉ、センパイみたいな見た目だったら絶対カルーアミルクとかの方が似合いますって」

「別に見た目を気にしてお酒を選んでないからなぁ」

「ていうか、センパイの方はどうなんすか、そっち方面は。俺の話だけ聞くのはずるいっすよ」

「別に。特に面白い話なんてないよ」

「そうなんすか」

「そうだねぇ……付き合ってた人と就活の時期に別れちゃったって話は昔したよね?覚えてる?」

「将来のことを考えると不安になってきたとか言われたってやつでしょ?」

「そうそう。あれから今まで何にもないよ。学生時代でさえ大変だったのにさ、社会人になると人と出会って仲良くなる機会ってさらに限られてくるじゃん」

「ま、そうすね」

「せっかく何人か仲良くなっても、結構初期の段階であぁダメだって分かっちゃうんだよね」

「確かに俺もそうっす」

 彼は私が喋ってる間に真顔で次々とししゃもを口の中に放り込み続けていた。六匹のうち五匹はもう彼の口と腹の中だ。私が食べたくて頼んだのに。

「まぐろの黒胡椒ステーキと椎茸バター焼、おこげおにぎりです」

 店員が持ってきた料理を受け取ると、お返しだとばかりにまぐろをひょいと食べた。

「あ、まぐろ俺のっす」

「ししゃも食べてるんだから少しくらいいいでしょ。あ、ていうかいつの間にここに置いてたレモンサワー取ったのよ」

「だってジントニックなくなったし、ししゃも食うと喉渇くんで」

 そんなことを言いながら彼はレモンサワーに口をつける。酔っ払ってるくせに一応的確に返してくるのが、妙に腹が立つ。

「獺祭です」

 店員が持ってきた酒を受け取っていると

「じゃあまぐろの代わりにこれ貰います」

 とか言って飲みかけの焼酎をサッと取られた。

「あっ何やってんの、あんたがそんなの飲んだら」

 制止も聞かずに残りを一気に飲んでしまった。

 やっぱり酔っ払いだ。何が「代わりに」だ。今のまぐろでイーブンだったじゃないか、バカ。

 案の定、彼はこちらから見ても丸分かりなくらいくわんくわんしている。

 目も虚ろなまま背もたれに体を預けると、ズルズルと沈んでいってしまった。

「はぁ……」

 思わずため息をつく。


 これ以上彼に酒を飲ませてはいけないと思い、残っていたレモンサワーを取り上げて飲み干した。

 獺祭をちびちび飲みつつ、通りがかった店員にお冷を持ってきてもらった。

「ほら、お水。飲める?」

 彼の方にお冷を差し出すと、何やらむにゃむにゃ言っている。

「なに?」

 身を乗り出して顔を近づけた。

「今だから言いますけどぉ……俺、センパイと付き合えたら楽なのになぁって、何回も思ったことあるんですよ……」

 目を閉じて真っ赤な顔で、しかめっ面をしながらそう言っていた。

 ふ、と苦笑してしまう。

「そりゃあ私も同じだよ。好きになる相手が省吾くんだったらいいのにって何度も思ったことあるよ」

 彼も少し笑った。

「なかなか難しいっすねぇ……」


「センパイ、俺から誘ったのに奢ってもらってすいません……」

 師走の都会の夜風に吹かれながら、二人で歩いている。

 歩いているとは言っても、彼が今にも転びそうな千鳥足でフラフラ進み、それを私が必死に支えているというかなり無理のある状態だが。

 店員にお会計をお願いしてレジに向かおうという時「こっちから誘ったんでここは俺が」などと言って勢いよく立ち上がった彼はそのままフラリとして床にビタンと転んでしまった。なんとか彼を抱え起こし、カードで支払いを済ませ、店から引きずり出したという顛末だった。

「いいよ別に、普段お金使う機会もそんなにないから切羽詰まってるワケでもないし、久しぶりに省吾くんと話せて楽しかったし」

「はは……ありがとうございます。次は俺が奢りますからね」

「えぇ?明日の朝起きたら記憶なくなってたとかはナシだからね」

「だいじょうぶですよ。こう見えても俺は飲んで記憶をなくしたことは、いちどもありませんから」

「……じゃあ、一応楽しみにしておこうかな」

「任せてくださいです」

 微妙に語尾がおかしい。夜風にあたって少しスッキリしたのかもしれないが、やっぱり酔っていることに変わりはないようだ。

「ところでどこのホテルに泊まるの?」

「ええと、どこでしたっけ」

「ちょっと、頼むよ。私そんなに体力ないんだから」

「あ、あれです。次の信号のすぐ先の右手の」

 近くて良かった。このままずっと彼を支えながら歩くのは物理的に限界なので、距離によってはタクシーに放り込むことも考えていたところだ。


 夜が更けて風の冷たさが一層増してきたが、ふらふらの彼がくっついてきてそれを支えながら歩いているので体は火照っていた。

 明日、筋肉痛になっていなければいいが。


 無事にホテルの前に着いた。

「色々とすいませんでした……ありがとうございました」

 彼は一応自分一人で立っていたが、まだ怪しくふらふら揺れている。

「気にしないで。なんか最近、毎日変わり映えしなくて退屈してたところだったから、今日は本当に楽しかったよ」

「良かったです。俺も楽しかったです」

「明日の朝には出発するんだっけ?」

「そうっす。飛行機で帰ります。あ、そうだ。LINEの連絡先、交換してもらえますか?」

「いいよ。えーと……じゃあこのQRコード読んで」

 老眼のおじいちゃんばりに目を細めて、しかめっ面でスマホをいじっている。やがてカメラの起動に成功したようだが、ふらふらしているせいかなかなか読み込みに成功しない。彼の手を取り、スマホがぶれないよう固定してあげた。

「……いけました!ありがとうございます!またこっちに来るときは絶対連絡しますよ」

「分かった。その時はまたご飯行こうね。今度はお酒の出ないお店にしようか」

「えー!何でですか!また飲みに行きましょうよ!」

 しばらくそんな会話が続いてから、お開きとなった。


 帰りの電車に揺られていた。

 ラッシュの時間は外れており席に座ることができた。

 彼との関係は学生時代と何も変わってなかった。ほんのひととき、昔に戻れたようで楽しかったなぁと飲み屋の一幕を思い返していたところ、スマホがブブッと振動した。

 見ると彼からのLINEだった。


『まさか会えるとは思ってませんでした!センパイは昔と変わってなくて、素敵な人だなと改めて思いました!センパイならきっとまたいい彼女ができると思います!』


 クスッと笑ってしまった。

 べろべろに酔っていた癖に、こういうところだけは変に律儀だ。

 すぐに返事を打った。


『ありがとう。次に会う時はいい報告ができるように頑張ってみるよ。そっちも、いい彼氏ができるといいね』


 時勢とはいえ、みんながみんな簡単にカミングアウトできるわけではない。

 私達の場合は互いが互いに何か通じ合うものを感じ、昔飲みの場でこっそり打ち明けて以来それっきり、他の誰にも話してない。これは、二人だけの共通の悩みであり秘密だ。

 私と彼は恋人にはならない。先輩と後輩であり、よき理解者であり、友達だ。


 さてと。

 次に会った時は彼に奢ってもらう約束だ。

 最寄り駅に着くまでの間、とりあえずこのあたりでうんと高そうな店を探してみることにしよう。

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