第二話その1「浪漫だからよ!」

 目の前にあるのは大きな姿見の鏡で、それに映っているのは一人の女の子。貞子の水死体みたいだった髪はばっさりと切って非常にさっぱりとした。髪はシャギーの入ったショートボブで、ただの頑固なくせっ毛がいい感じにおしゃれとなっている。行ったのはエイラお薦めの美容院で、店員さんがエイラと侃々諤々の議論の上でその職人技を魅せ、この仕上がりとなったのだ。

 わたしが鏡の中に笑いかけ、鏡の中のわたしが輝くような笑顔を返す。小さな顔、大きな瞳、桜色の小さな唇。全体としては猫っぽい系統の顔になるだろうか。これだけの美少女に笑顔を向けられて悪い気をする者がいるわけがなく、それは女であるわたしも例外ではなかった。


「……うーむ。今日も可愛いわね、わたし」


 身にしているのは白いワンピースで、ちょっと短めのスカートからはわずかに膝が覗いている。そのスカートの裾を摘まんでおしゃまなお辞儀をし、また勢いよく身体を回してスカートを翻したりした。


「……さらにこのおっぱい」


 わたしは自分の重いおっぱいを持ち上げ、たぷたぷと軽く揺らした。身長は平均よりもわずかに高いくらいだけどおっぱいやお尻は平均よりも一回り以上大きい。妊娠出産に備えて体力つけなきゃ!とこの一ヶ月間ウォーキングから始まってランニングや筋トレに勤しみ、結果お腹周りの余計な脂肪がなくなって随分とすっきりした。またトップとアンダーの差はさらに広がり、一六歳未満の女の子としては破格のプロポーションとなっている。


「この顔と言い、このスタイルと言い、アイドルにだってここまでの子はなかなかいないわよね」


 腕を組んで「うむうむ」と頷くわたし。もう一度鏡に目を向けるとわたしの後ろに呆れた顔のエイラが映っていた。振り返ると、


「お嬢様がわたしに気が付くまで三分一一秒かかりました」


「カップ麺なら食べ頃ね」


 エイラはどこかの校長先生みたいなことを言う。


「ねえ、わたしってとってもとっても可愛いと思わない?」


「はいはい、お嬢様はとっても可愛らしいですよ」


「気持ちがこもってない!」


「事実を述べるのに感情が必要ですか?」


 投げやりな物言いに対する不満はその一言で解消され、わたしが笑顔となる。一方エイラは「ちょろいなこいつ」という顔となっていて、


「ちょろいなこいつ」


 あ、声にも出した。まあそれはともかく。


「どうしてこんなに可愛いわたしが男を捕まえられないわけ? 早く子種を仕込みたいのに!」


「お嬢様は鏡よりも言動を顧みるべきかと思います」


 エイラはそう言って疲れたようにため息をついた。

 ――さて。皆さんこんにちは、わたしの名前は姫宮百佳。石川県大歳寺市在住の一五歳一一ヶ月、あと六日で一六歳の女の子だ。わたしには使命がある。他の全てに優先し、他の全てを犠牲にしてでも絶対に成し遂げなければならない責務が。それは――善那悠大を幸せにする! 可愛い女の子をヒロインとしてラブコメな青春を送らせる! わたしが前世の記憶を持って今、ここにこうしているのは全てそのためだと言っていい。

 でもヒロインとなる可愛い女の子なんてそう簡単に用意できるわけがなく、どうするべきか悩んでいたらエイラが素晴らしい提案をしてくれたのだ。曰く、「自分で産めばいい」。


「だからこうしてエイラのアイディアに基づいて行動しようとしているのに」


「わたしのせいにしないでください。そんな狂気の提案をわたしがしたなんて恐ろしい風評被害です。訴訟も辞しません」


「それはともかく」


「ともかかないでください」


 エイラが聞き慣れない日本語を使うがそれはともかく。


「同級生ヒロインを産むには三月中が限度で、そのために子種を仕込むのは五月上旬がタイムリミット。もう一月足らずじゃない、判ってるの?」


 今は二〇〇〇年四月二二日、わたしが前世の記憶に目覚めて一ヶ月である。


「非常に根本的な点を一つ確認したいのですが」


「何?」


「前世のお嬢様は男性で、その記憶を有している。その影響を非常に大きく受けている」


 そうね、と頷くわたし。正確を期するなら「前世の記憶がある」と言うよりは「前世の記憶しかない」。今のわたしになる前の「姫宮百佳」の記憶や人格は今のわたしの中にはどこにも感じられず、主観的には前世の「善那悠大」がそのまま今のわたしとなったようなものだった。


「子供を作るためには男性とセックスする必要があります。お嬢様は抵抗を覚えないのですか?」


「全然ない。むしろばっち来いって感じ」


 わたしは明確にそう断言した。

 エイラが言うには「二〇二四年の『善那悠大』の記憶が時間遡行して二〇〇〇年の『姫宮百佳』の脳に刻み付けられた」のが有力説らしいが、それが正しいなら今のわたしの大元は「姫宮百佳」から何も変わっていないのではないか? 「善那悠大」は完全無欠の異性愛者で、男性とのセックスなど想像だけで怖気が走る代物だった。でも今はそんな嫌悪感を全く感じない。夜のおかずに使っているのも男の方である。

 つまりは、今のわたしは「善那悠大」とは違う人間。「善那悠大」の記憶を前世扱いするのも、「まぎれもなく自分の過去であると同時に今の自分とは全くの別人」という距離感がちょうどいいからだ。もちろんその影響は途轍もなく大きいけれど「性的志向を歪めるほどではない」ってことを考えれば、そこまで大したことはないとも言えるのだった。


「もちろんおっさんとか不細工とかは嫌だけど若くてイケメンなら全然おっけー」


「……男性とセックスできずに姫宮家が断絶することを思えば今の方がマシかもしれませんが」


 エイラは自分を納得させるように言う。


「それでどうなわけ?」


「候補はここまで絞り込みました」


 とエイラが勉強机の上に積み上げたのはお見合いの釣書だった。そう言えば言い忘れていたけど今いるのはわたしの自室で、わたしは椅子を回転させながら一〇冊くらいある釣書にざっと、形だけ目を通す。わたしの渋い顔に、


「お気に召す殿方はおられませんでしたか?」


「そもそもお見合い結婚っていうのが気に食わない」


 ともかく早く子種を仕込まないと!と焦るわたしはエイラによって座敷牢に監禁され、危うくそのまま「座敷牢おばさん」と化してしまい前回と同じ顛末をたどるところだった。どうにかエイラを説得して座敷牢から脱出はしたものの、色々と交換条件を出されてそれを呑むしかなかったのだ。その最大最優先の条件が「お見合いをして結婚の上で子種を仕込んでもらう」だったわけである。でも、


「ろくに知りもしない男がこの家に入ってきて一緒に生活するのは正直言って嫌」


 今、この姫宮のお屋敷に住んでいるのはわたしとエイラの二人だけだ。わたしの血縁上の両親である姫宮一動・三代夫妻はこのお屋敷を出て、今はお屋敷のすぐお向かいさんに住んでいる(なおそのお隣さんは善那家だ)。

 前世の記憶に目覚めてから姫宮夫妻に対する不信感がますます募り、一緒に暮らすのも苦痛になる一方だった。それを見て取ったエイラが、


「近いうちにお嬢様は婿を取り、お二人が姫宮家当主となります。この家はお二人に譲って、別の家に住んでください」


 と適当な口実で追い出したのだ。疎まれていることは二人にも自覚はあったのか、それとも消えてしまった元の「姫宮百佳」への愛情が多少なりともあったのか、二人は特に抵抗することなくこの家を出ていった。ただ、大歳神社の維持管理はわたしにもエイラにも無理だから宮司は一動さんのままだし、三代さんには通いで来てもらって家事を手伝ってもらうこともあった。

 一定の距離さえ置いてもらえれば二人への嫌悪感も薄れていき、今では「たまたま近くに住んでいる遠縁の親戚」くらいの感覚となっている。このまま大歳神社の宮司として、ずっと年上の部下として、他人として、二人とは礼儀正しく接していくこととなるのだろう。

 ともかく、わたしはエイラと二人だけのこの生活を大いに気に入っているのだが、


「そこに下手な男が入ってきて好き勝手されたらたまったもんじゃないでしょ? エイラだって嫌じゃないの?」


「下手な男が入ってこないよう時間をかけて吟味を重ねています」


 姫宮家の一人娘が結婚相手を探している――県の政財界にその噂が広まった途端、エイラの下には釣書が殺到したという。時任グループは県下最大の財閥で、姫宮家はその筆頭株主。その財力だけでも充分魅力的だし、「地元への影響力」はそれ以上だった。県会議員は言うまでもなく国会議員も「姫宮詣で」を欠かさず、選挙での支持を得ようとするのである。

 時任グループとしてもわたしが良家や有力者と婚姻関係を結ぶのは大いにメリットのある話だが、その一方わたしの配偶者やその親族がグループの経営にくちばしを突っ込んでくる危険性もある。どの家と縁を結ぶかはグループとしても慎重に検討する必要があり、それでますます時間がかかるのだった。もっともわたしが心配しているのはもっと一般的な話であり、


「釣書や写真だけじゃ人間性まで判らないじゃない」


「素行調査もしています」


「素行が良くても相性が合うとは限らないでしょ!」


「そこは結婚を前提としたお付き合いで見極めるしか」


「あと一月もないんだって!」


 うがー!と吠えるわたしに対しエイラは無表情を装うが、なんか途方に暮れた感じが伝わってきた。


「そもそもわざわざ結婚する必要なんかないじゃない。子種だけ仕込んでもらえれば」


「それで相手が子供の親権を主張する等して、面倒なことになったらどうするんですか?」


「最悪、お金で黙らせたらいいんじゃない?」


「その発想が最悪です」


 えー、というわたしにエイラは疲れた顔となっていく。


「そもそも、『大歳の巫女』ともあろう方をシングルマザーにするわけにはいかないでしょう。生まれた子供は次の『大歳の巫女』になるかもしれないのですよ」


「水星ってお堅いのね」


 そう肩をすくめるわたしにエイラは「水星?」と首を傾げた。なお姫宮家は代々男子が非常に生まれにくい家系で、わたしが産む子供も高確率で女の子であることが期待された。でもそれも全部、子種があっての話である。

 エイラの目を盗んでお屋敷を抜け出して街に出て適当な男を引っかける、ということも考えたけど、わたしには何人もの監視が付いている。男を引っかける前に身柄を拘束されて、今度こそわたしは座敷牢に監禁されることだろう……というか、一回やって失敗して監視がきつくなってしまった。

 善那悠大を幸せにする、可愛い女の子をヒロインとしてラブコメな青春を送らせる――その壮大な野望は第一歩目からつまずき、わずかも前に進んではいない。このままあの未来がくり返されるのかと、わたしの焦りは募る一方だった。






 二〇〇〇年四月二二日は土曜日だけどわたしは高校に行っていない(註・学校の完全週休二日制が実施されたのは二〇〇二年から二〇一二年まで)。遅くとも五月上旬には子種を仕込んで年度内には出産するのだから学校なんか行っている暇はなく、入学前から自主退学した。

 なおエイラは今一八歳で、本当ならこの四月から京都の名門女子大に進学するはずだった。わたしの側仕えとなるのも大学卒業後の予定だったけど、わたしが自殺未遂なんかするからそれを大幅に前倒ししたのだ。彼女もまた入学前に自主退学した口で、わたしがその事実を知ったときにはとっくに退学届が出されていた。今からでも遅くないから進学したら、と何度か勧めたんだけど、


「お嬢様から目を放したら何をしでかすか判りませんから」


 とかたくなに言うばかりで彼女が首を縦に振ることはなかったのだ。

 せっかくいい大学に合格していたのにわたしの都合で高卒にしてしまったことは申し訳なく、ならその分いい給料で報いるしかないと考え、じゃあ今いくらもらっているのかなと思って訊いてみたら――


「……は? 何それ?」


 この時代の、北陸の片田舎の、高卒女子の初任給とすれば平均程度なのかもしれないが、逆に言えばその程度しかもらっていなかったのだ。わたしの怒りは電話口の、エイラの父親(グループの役員の一人、最高幹部の一人だ)に向けられた。


「わたしの無二の腹心の給料がそのたったそれだけってどういうこと? あんた等にしてみればわたしも含めてその程度ってわけ?」


『いえその、決してそういうわけでは! ただ役員の地位を利用して娘の給料だけお手盛りにするわけにも』


「いいからさっさと上げなさい。あんた等全員この先ずっと便所掃除当番にするわよ」


 電話はそこでぶち切って、言いたい放題やりたい放題やったので怒りが収まって頭が冷えて、


「……一五の小娘がこんな無茶してわがまま言って、きっとみんな呆れて、怒ってるだろーな。どーしよー」


 と自己嫌悪で落ち込む羽目となってしまった。どうも身体となってしまってから感情の起伏が激しく、自制が効きにくくなっているらしい。

 翌日、エイラの顔色をうかがったけど怒りや失望の様子は特に感じられず、その後の振る舞いも以前と何ら変わることはなく、わたしはひとまず安堵した。ただ、あの子の方もわたしのことをじっと観察していたように感じられたけど、まあそれはいつもと言えばいつものことである。

 あと、エイラの給料は無事に上がったようで、給料日の晩ご飯はいつもよりちょっとだけ豪華でした。

 ……ええっと、話を戻そう。ともかくわたしは学校に行っておらず、いくらでも時間がある。男探しはエイラに禁じられ、できることがなく、要するに暇である。トレーニングは継続しているけど一日一時間くらい。大検を取るために勉強もしているけど、これもせいぜい半日だけだ(註・大学入学資格検定が廃止されて高等学校卒業程度認定試験に移行したのは二〇〇五年)。前世なら漫画や小説はアマゾンでポチるだけだったけど今はそうもいかず(註・アマゾンの日本でのサービス開始は二〇〇〇年一一月)町中の書店まで行く必要があった。アニメもアマプラや他のサービスで見放題とはいかず――なんと、レンタルビデオを利用しているのだ!

 そもそもこの時代、インターネット自体がまだまだ遅れている。姫宮のお屋敷にはネット回線がなく、それを知ったわたしは即座にエイラに回線を引くことを要求したのだが、


「NTTのテレホーダイというサービスを利用すれば、深夜なら定額でいくらでも利用できるみたいです。それに深夜なら電話がかかってくることもないでしょうし」


「……ごめん、意味が判らない」


 よくよく話を聞いてみたら、この時代のネット回線は電話回線を利用するもので、ネットをしていたら電話ができず、またその分の通話料がかかるのだ! 「テレホーダイ」は深夜ならネットが使い放題の、画期的なサービスだという。


「光回線は?」


「個人の家に光ケーブルなんて引けるわけないでしょう」


 業を煮やしたわたしはNTTに直接電話して「一番早い回線を頼む」とやって、その結果設置されたのがISDN……何それ? ICBMの親戚か何か? ともかくそうして常時接続のネット回線をようやく手に入れたのだが……でも正直、この時代のネットを見ても面白いコンテンツが見当たらない。ネットの向こう側で非常に盛り上がっているコンテンツを見ても楽しいとあまり感じないのだ。それでもこの時代のネットで話題になっていて、前世でも名前は知っていたから、


「エイラ、この『ONE~輝く季節へ』と『KANON』ってゲーム買ってきて」


 その結果、あやうくネット回線を解約されるところになってしまった。……いや、確かにその二つは一八歳未満禁止のエロゲーだけど、電気屋さんに電話で問い合わせたエイラに大恥かかせちゃったみたいなんだけど、この時代のオタク文化じゃエロゲーは重要な位置を占めていたんだよ? エイラには最後まで理解してもらえなかったけど。

 ……ええっと、今度こそ話を戻そう。ともかくわたしは今、暇である。やることがない。散歩に出たのもただの暇潰しだった。お屋敷を出て、庭を抜けて、石畳の階段を下りて車道に出て、海の方へと歩いていく。

 季節は春だけど非常に陽気が良く、まるで夏のような天気だ。空はどこまでも深い、吸い込まれそうなくらいの真っ青で、雲は輝くように白い。わたしは白いワンピースを着、日差し除けに大きな麦わら帽子をかぶっている――絵に描いたような「夏の女の子」だ。何と言うべきか、今のわたしは多分強い。

 浮かれたわたしがスキップを踏むように、軽やかな足取りで歩いていく。何分かを経て、わたしは海に到着した。そこには駐車場はあるけど海水浴場として整備されているわけでなく、真夏でも売店や海の家は設置されない。どこかのサーファーがサーフィンをするか、近所の子供が泳ぐかだ。わたしも(「善那悠大」としての)小学生の頃は、夏は毎日のようにここで泳いでいた。

 駐車場の先にコンクリートの防波堤が設置されていて、その向こうが砂浜だった。わたしは防波堤の上に登り、そこに座り、ぼけっと海を眺めた。暑いくらいの日差しと涼しい潮風が程よく混ざって非常に心地よかったが、わたしの気持ちは爽やかとはいかなかった。


「……どうすれば男を捕まえて子種を仕込めるんだろ? お見合い相手と当たるまでやりまくって、的中したならポイ捨てするのが一番現実的? でもそれでエイラの面子を潰しちゃうのはまずいし……学校に行っていればよかったかな? 今周りにいる男なんてボディーガードのおじさんしか」


 ――その、ボディーガードのおじさん達が視界の端に入った。エイラも一緒にいて、どうやら不審者を捕まえているようだ。防波堤から飛び降りたわたしはエイラ達の下へと駆け寄った。


「どうしたの?」


「それ以上近付かないでください。何をされるか判りません」


「何もしません! 写真を撮っていただけです! ごめんなさい謝りますから!」


 エイラはカメラを手にしていて、おじさんが二人がかかりでその男を拘束し、無理矢理ひざまずかせている。彼は大学生くらいの若い男性で、身にしているのはライダースーツ。見ると、バイクが近くに停めてあった。


「あまり乱暴なことはしないようにね」


 わたしの取りなしにボディーガードのおじさん達がその男性を解放、彼は安堵しながら立ち上がった。ただおじさん達は背広に手を突っ込み、特殊警棒を即座に取り出せる状態だ。エイラもまたわたしの盾となるべく彼との間に割り込む位置に立った。でもそんなに警戒する必要はないと思うんだけど。彼はぽかんとした、間の抜けた顔をわたしとエイラに向けている。


「……あの、なんでメイド服?」


「それは今訊く必要があることですか?」


 ――そう言えば言い忘れていたけど、今エイラが着ているのはメイド服。風俗まがいのミニスカメイドじゃなくロングスカートでフリル控えめな、クラシックな印象のそれである。


「ふっ、そんなことも判らないの?」


 偉そうにうそぶくわたしに彼の視線が向けられる。わたしは雷鳴を(気分的に)背負いながら、


「それはね――浪漫だからよ!」


「何の説明にもなっていませんが」


「そ……そうか! そんな大事なことも僕は忘れてしまって!」


「あなたもそれで納得するんですか」


 雷に撃たれたように膝を屈する彼に、わたしは慈母のように微笑みかけた。


「なくしてしまったわけじゃく、ただ忘れていただけ。そして今思い出し、取り戻した。そうでしょう?」


「ありがとう、僕はもう迷わない」


 立ち上がった彼が澄んだ笑みを見せ、わたしもまた屈託なく笑う。今、わたし達の間に言葉は不要だった。


「……いつまで続くんですかこの小芝居」


 エイラが横で、何やら文句を言っていたけれど。

 ……さて。それはともかく。

 わたしの前には一人の男性が立っている。身長はエイラより多少高いくらいでかなりの痩身。身にしているライダースーツは大きく前を開けていて、その下にのぞくのはなんかよれよれのTシャツだ。そう言えばしばらく床屋に行き忘れていました、と言わんばかりに中途半端に髪が長く、特に長い後ろをゴムでくくって尻尾にしている。無精ひげも若干伸びていて、多分今朝は剃り忘れたのだろう。眼鏡をかけた、気弱そうな青年で、第一印象は「身なりに無頓着なオタク」である。それでも顔立ちそのものは平均以上に整っていて、服装さえちゃんとすればイケメンっぽい雰囲気を出せるものと思われた。


「それで、この人がどうかしたの?」


「お嬢様にカメラを向けて無断で撮影していたのでひとまず拘束しました」


 エイラの告発に彼は「すみませんすみません」とひたすら頭を下げている。確かに見ず知らずの人間に勝手に撮影されるのはあまり気分がよいものではない。


「……その、息が止まるくらいに可愛い女の子が物憂げに海を見つめているのがあまりに絵になる構図で、絶対に残したい、資料にしたいと思ってしまって」


「写真くらいは許してあげてもいいんじゃないの?」


 わたしの取りなしにエイラは渋い顔をし、彼を詰問した。


「資料にするとはどういう意味ですか?」


「……その、僕は漫画を描いていまして。今日ここに来たのも資料にする写真撮影のためだったんです」


「漫画家?」


 まさか、と思いながらわたしが問うと彼は目を泳がせながら、


「その……『伊青蓮華』という名前なんですが」


「伊青蓮華!!」


 わたしの雄叫びに彼――伊青蓮華が一歩飛び退きわたしはそれ以上前に出て彼に触れんばかりとなった。


「伊青蓮華?! 本当に? 本物の?」


「は、はい。一応」


 彼はそう言いながら免許証を取り出して提示する。そこに記載された名前は確かに「伊青蓮華」――ペンネームじゃなく本名だったんだ、初めて知った。


「うわ、本当に本物の伊青蓮華! わたしあなたの大ファンなんです! グルヴェイグ……ああいや」


 この時代では未発表の漫画の名前をうっかり出してしまい彼が怪訝な顔となる。わたしはそれをごまかすために、


「『夕陽のマーメイド』、好きです! 『海と夕陽のシンデレラ』もよかったです! 『渚の向こうのアリス』も! 『サンセット・ビーチガールズ』連載終わっちゃって悲しかったです! まだまだ読みたかったのに!」


 この時代で出版されている彼の漫画を全部並べ立てた。なお、この一月の間に改めて全部買い揃えて何度も読んだ上での感想であり、そこに嘘偽りは何一つない。彼は随分長い時間呆然としていたけど、


「……ああ、うん。ありがとう。すごく嬉しい」


 それだけを言って穏やかに笑った。よし、ごまかせた、とわたしも笑う。


「とりあえず握手お願いします!」


「えっと、僕でよければ」


 差し出された彼の手を両手でしっかりと握り、わたしはそれをぶんぶんと上下に振った。せっかくだし名残惜しいので手を握ったままで、


「『サンセット・ビーチガールズ』なんで終わっちゃったんですか? 面白かったのに」


「いやそのー、単行本があまり売れなくて」


「そうなんですか……でもわたしは好きです!」


 わたしは蓮華さんと話を始めた。しばらくは立ち話をしていたけどちょっと疲れてきたので彼の手を引き、防波堤の上に移動。そこに腰かけて海を眺めながらおしゃべりをする。浮かれたわたしが膝から先を何度も振り、蓮華さんはまぶしい日差しに目を細めた。

 ――さて。伊青蓮華である。以前ウィキで読んだその経歴を思い出すと、まず彼は高校生のときに短編漫画で商業誌デビュー。短編漫画を何作か発表し、大学に入ってから月刊誌で連載開始。この三月に大学を卒業し、それと同時に連載も終了。この四月の現時点で短編集三冊、連載単行本七冊を刊行している。ここまでは前世のときとこの時間軸で差異はない。

 伊青蓮華が描くのは毎回「海の近い田舎町を舞台とした、ボーイミーツガールなラブコメ」だ。女の子がひたすら可愛らしく、ちょっとしたすれ違いはあっても深刻な内容になることはない。苺のショートケーキみたいに甘々でイチャイチャラブラブな、安心して読める漫画である――でも、あまり売れなかった。

 内容が毎回同じだとかストーリーがないだとか山なしオチなし意味なしだとか、ネット上の心ない悪口を目にするたびに胸を痛めてはいたのだが、それ等の批評も根拠がないわけではなかった。前世の「善那悠大」は、そして今のわたしは大好きだけど、万人受けする漫画ではないということだろう。

 前世の知識では――伊青蓮華はこの後に「乙姫さまとひらめ君」という漫画を連載。例によってラブコメ漫画ではあるんだけど、前作の打ち切りを受けた試行錯誤でスラップスティックな要素の非常に強い内容となっていた。でもこれがまーいっそ感心するくらいに見事に滑って、同作は速攻で打ち切り。「次も打ち切りだったらもう連載枠は与えられない」と最後通告を受け、起死回生のつもりで心機一転し、ラブコメを封印してドシリアスな異能バトル漫画を連載。それこそが「殲滅戦線グルヴェイグ」であり、これがもう笑いが止まらないくらいの大ヒット。TVアニメとなり、劇場アニメとなり、二・五次元となり、連載は二〇年近く続き、惜しまれつつ大団円で終了した。

 で、その次回作に封印を解いてまたラブコメ漫画を描くのだがこれがもう笑っちゃうくらいに売れなった……というオチとなるのだが、それは置いておこう。伊青蓮華は未来の大ヒット漫画家なのだが、二〇〇〇年の現時点ではいまいち売れないラブコメ漫画家でしかないのだ。


「でもわたしは好きです!」


 世間様が何と言おうとわたしは好きだ。伊青蓮華のラブコメ漫画が大好きだ。好きだと言ったら好き……ああもう、自分の貧弱な語彙が恨めしい。何をどう、どれだけ好きか、的確に表現することができない。


「わたしの家のお向かいさん、一〇月ぐらいに子供が生まれるんです。わたしが女の子を産んだらその家の男の子と幼なじみにして、蓮華さんの漫画みたいなラブコメをさせてやろうって思ってるんですけど」


「あはは、それはいいアイディアだね」


 蓮華さんは冗談だと受け止めて笑っている。


「そのときは取材をさせてもらいたいな」


「うん、絶対! きっと理想のラブコメが描けると思うから!」


 ……そうやって、時が経つのを忘れて楽しく話し込んでいたのだけど、あいにくと時の方は忘れてはくれなかったらしい。


「お嬢様、そろそろ帰るお時間です」


 エイラの通告に「なんでよ」と言いたくなったけど、実際もう日が暮れる寸前だった。夕陽は水平線の向こうにあとわずかの残照を見せるだけ。空はすっかり暗い紫となっている。


「まだまだ話し足りないのに」


 とわたしは悔しさを噛み締め、蓮華さんもまた残念そうな顔だった。エイラは少しだけわたしと蓮華さんを見比べる。


「ところで伊青様、今日撮影した写真ですが」


「あ、はい。フィルムを渡せばいいですか?」


「構わないわよ、そのまま資料に使ってもらって」


 わたしは軽くそう言うがエイラは「いえ、そうはいきません」と首を横に振った(今さらだけどデジカメじゃなくフィルムカメラなのだ、これが)。


「中身を確認する必要があります。ですので、現像してまた持ってきていただけませんか」


 何を言われたのか理解が及び、わたしと蓮華さんは目を真ん丸にした。


「……はい、できるだけ早く持ってきます」


「うん、待ってるね! 何なら明日にでも」


「明日……うん、何とかなる。何とかする」


 少し考えて蓮華さんはそう強く頷いた。

 ……そうして蓮華さんはバイクに乗って去っていく。わたしは手を大きく振って、遠ざかる赤いテールランプを見送った。やがてそれが道路の向こうへと消えていき、


「エイラ、大好き」


 わたしの緩んだ笑みにエイラは素知らぬ顔をし、くるりと背を向ける。


「もうこんな時間です」


 と帰路に就く彼女をわたしも後を追い、すぐに彼女に並ぶ。わたしとエイラは涼しい夜道を、のんびりとお屋敷に向かって歩いていった。

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