あの埃っぽい階段で先輩に見出された私は、昼休みになると生徒会室へ入り浸るようになった。

 そこは当時の生徒会役員の溜まり場のようになっていて、彼ら彼女らは私のことを穏やかに迎えいれてくれた。

 最初は戸惑っていた私だが、そのうちこれが珍しいことではないことに気がついた。どうやら青葉先輩は、役員になった一年生の頃から似たようなことをやっていたらしい。

 当時副会長だった眼鏡をかけた七三分けの男の子が、教えてくれたことがある。


「あの人、猫を拾ってくるのが趣味なんだよ」


「……猫?」


 キョロキョロする私を見た彼が、「いや比喩。君のこと」と言って笑った。


「偶にいるんだ。教室で居場所がなくて、階段とかトイレで弁当食べてるやつ。鶴ヶ谷は、時々そういうのを拾ってくる。大体、一週間もすれば来なくなるけどね」


「そうなんですか?」


「うん。鶴ヶ谷が裏で手を回してるから」


 およそ青葉先輩に似合わない、不安な単語だと思った。


「それって、どういう……」


「色々だよ。いじめてるやつらを説教したり、証拠作って脅したり、ひと芝居打って和解させたり」


 知らなかった。

 確かに、青葉先輩が生徒会長になってから、学校全体の雰囲気が良くなったと聞いたことはあったけれど。

 

「ま、君の件は規模が大きいから手を打ちあぐねてるみたいだけどね。とにかくここは、そういう居場所がないやつの駆け込み寺みたいなもんだ」


「そう、だったんですね……」


 そのときの私は、先輩に対する「すごい」という気持ちと、「私だけじゃなかった」という事実を寂しく思う気持ちの二つを感じていた。

 だからというわけではないけれど、放課後、私は生徒会の仕事を手伝うようになった。

 正式な役員ではないので、当然内申点には反映されない。完全なボランティアだ。

 それでも、先輩のために何かしたかった。拾ってもらった猫なら、恩知らずではいたくない。

 でも本当は、そんな理屈は全部後付けで、結局は、ただ先輩の近くにいたいだけだった気もする。

 とにかく。

 そうして私が見習い役員になった、ある秋の日のことだった。

 その日は珍しく仕事が長引いて、他の役員たちは帰宅していて、残っていたのは私と青葉先輩の二人だけだった。

 茜色に染まった室内で、青葉先輩がぐっと両手を伸ばして言った。


「あー、お腹空いたーっ!」


「思ったより、時間かかっちゃいましたね」


「まったく、みんな薄情なんだから。桜さんの優しさを見習ってほしいわ」


「あはは……」


 もちろん、私が居残ったのは優しさ故ではなく、下心というか、単に青葉先輩と一緒にいたかっただけだ。

 でも、そんな本心はおくびにも出せない。恥ずかしすぎるし、それ以上に過剰な好意を見せて嫌われたくなかった。

 それくらい、当時の私は青葉先輩にのめり込んでいた。だから。


「桜さんも、お腹空いたよね」


「あ、はい」


「よければ、一緒にご飯食べにいかない?」


 その瞬間の高揚を、今でも鮮明に覚えている。

 あの頃、ちょっとした非日常が、どうしてあんなに眩く輝いて見えたんだろう?

 私は「はい!」と声を上げ、それからすぐに気づいた。登下校中の買い食いは校則違反だ。

 不安がる私の顔色を見て、青葉先輩は先回りするように、自らの唇に人差し指を立てた。


「先生には内緒ね。いい店、知ってるから」


 夢の中にいるみたいに、浮ついた時間だった。今だけは、青葉先輩の時間を私が独り占めしている。

 こっちだよ、と夕暮れの歩道を先導する先輩のセーラーカラーは、泣きたいくらい鮮烈な茜色をしていた。

 そうして連れて行ってもらった先は、隠れ家みたいな喫茶店だった。


「ここはね。歴代生徒会長御用達の、秘密の隠れ家なの」


「なんですか、それ」


 大人っぽい先輩の口から出た子供っぽさに、つい笑ってしまう。

 だけど先輩は怒るでもなく、こそっと私に耳打ちした。


「うちの中学の生徒会OBの方がマスターをされているの。制服を着て入っても怒られないし、学校にも秘密にしてくれる。ただ、人が来すぎるとお店が迷惑するから、このことは代々の生徒会長と、会長が招待した生徒しか知らない」


 重たげな木の扉を押し開けながら、悪戯っぽい目で青葉先輩が微笑む。


「私が連れてきたのは、桜さんが初めてよ」


 ──あのお店で先輩がご馳走してくれたのが、ナポリタンだったのだ。

 薄暗い照明と、革張りのソファ。うっすら流れる洋楽。

 そして、目の前には憧れの先輩。

 店内にはマスターの他に私たちしかいなくて、まさしく隠れ家のようだった。

 食後のコーヒーは苦かったけど、それを平然と飲む青葉先輩はやっぱり格好良くて、綺麗で、なにからなにまで夢みたいな時間だった。

 

 †


「今思うと」


 ナポリタンをフォークでくるくると巻きながら、青葉先輩は苦笑いを浮かべた。

 現実の彼女は、記憶の中の彼女より輪郭がシャープで、よく見ればうっすらと化粧もしている。


「我ながら、ちょっと芝居じみてるというか、格好つけすぎてて恥ずかしいわね。何なの隠れ家って、って感じ」


「でも、素敵でした。すっごく」


「素敵」がどこに掛かる言葉なのか曖昧なまま、私は反駁した。


「私にとっては、大事な思い出です」


「ありがとう」


 巻き取られたナポリタンが、薄紅色をした唇に吸い込まれていく。丁寧な食べ方は、あの頃と変わらない。


「それでね。ここからはちょっと、お仕事の話なんだけど」


「はい」


「合同学園祭でやる生徒会の出し物、喫茶店になりそうでしょう」


 私は頷いた。

 青葉先輩の言うとおり、両校生徒会による合同展示は、美浜大附属が提案した「喫茶店」に決まりそうだ。

 正式な決定は各校での調整後だが、良くも悪くもスタンダードな企画だし、反対はされないだろう。一応海浜側も案は用意していたのだけど、喫茶店というのは妥当かつ現実的なラインだったので、私は早々に腹案を引っ込た。

「任せる」と言っていただけあって、神楽坂会長も反対していない。


「あ、もしかして」


「そうなの。フードメニューとして、ナポリタンを出せないかと思ってて」


「いいと思います!」


 打ち合わせでも、ドリンクメニューだけでは寂しいかも、という話が出ていたところだ。ナポリタンなら(多分)難しい調理は必要ないし、原価も抑えられそうな気がする。レトロ喫茶店路線で個性も出せる。


「でも、今の美浜の生徒会って、料理できる子がいないのよ。コーヒーなら手順を覚えるだけだけど、料理となると、ね」


「それは……そうですね。どうせなら美味しいもの出したいですし」


「ね。だから相談なんだけど、海浜の生徒会で、そういうの詳しい人がいないかと思って」


「いや、うちも……神楽坂会長は何でもできますけど、確か料理だけは苦手って言ってたような」


「ちなみに桜さんは?」


「実は私もさっぱりで──あ」


 パッと脳内に、篠森の澄まし顔が浮かんだ。


「いえ、大丈夫です! 任せてください。こういう話にうってつけの後輩が一人、いますから」

 

 †


「はぁ、ナポリタンですか」


 というのが、翌日経緯を聞いた篠森のリアクションだった。

 例によって、放課後の家庭科室である。私と篠森は、各々の丼を挟んで向き合っていた。

 ちなみに中身は天津飯だ。


「先輩がそこまで言うなら、手伝ってあげてもいいですけど」

 

 篠森がそっと自身の二の腕を撫でた。

 海で赤く焼けた彼女の肌は、すでに元の白さを取り戻しつつある。


「あれ、なんか気乗りしてないね。もしかして、クラスの出し物で忙しい?」


「いえ、別に」


「1Bってなにやるの?」


「お化け屋敷です」


 そうか。ちょっと惜しい。もし飲食系の出し物なら、きっと活躍できただろうに。


「じゃあなんで不機嫌なの」


「わたしが料理してる隣で、先輩がその『青葉先輩』の話を延々三十分もするからです」


「……私、そんなにしてた?」


「してました」


 ごめん、と謝って私は天津飯にスプーンを差し込んだ。

 ふわとろの半熟卵ではなく、しっかり火を通した堅焼きタイプだ。卵に包まれている具材はカニカマ、豚こま、ネギ、椎茸。そして、三粒のグリンピースが上に載っている。

 焼き目のついた卵には、トロっとした甘酢あんが満遍なくかかっていて、つやつやと黄金色に光るさまが何とも美しい。


「先輩って──」


 篠森が、何か物言いたげに私を見た。

 いつもストレートな物言いをする彼女が、こんなふうに口籠もるのは珍しい。


「……その。天津飯の味付け、どうですか?」


「美味しいよ? あんかけの味もちょうどいいし、卵に色々具が入ってるのも楽しい」


「そうですか。よかったです」


 篠森のスプーンが、厚い堅焼き卵をぷつりと割り裂く。

 三粒のグリンピース。そのうちの一粒が、ころりと転がり落ちた。


「──それで、ええと。喫茶店の企画、手伝ってくれるってことで、いいんだよね」


「はい」


 甘酢あんで光る唇を小さな舌で舐めて、篠森が頷いた。


「まあ、学園祭の喫茶店でナポリタンっていうのは、いい目の付け所だと思います」


「美味しいよね」


「そういう意味じゃなくて……これは食べてもらったほうが早いんですが」


「そうなの? まあいいや。それで、さっそく篠森にお願いしたいことがあってさ」


「お願い?」


「一回、みんなにナポリタンを作りかたを教えてほしいんだ」


 私はそっと、篠森の反応を伺った。今のところ、あからさまな拒否は見て取れない。


「本番だって、篠森ひとりに作ってもらうわけにはいかないでしょ? だから何人かフード担当を決めようと思ってて、その人たち向けに」


 具材の購入や野菜の仕込みは全員で協力するとして、実際の調理は四、五人で分担するようにしたい。

 そうすれば、当日は交代で休憩を取りながら余裕を持って回せるはずだ。


「わたし一人で充分ですけど」


「だめ」


 ここは譲れない。外部協力者に任せきりは駄目だ。なにより。


「それだと休憩できないでしょ。せっかくの学園祭なんだからさ。色々見にいこうよ」


「見に、って…………先輩とですか?」


「あっ、もしかして誰かと回る約束してた?」


「してませんけど。そういう相手、いないので」


 なんだ。篠森、まだ友達がいないのか。大根の桂むきができるくらい器用な手先をしているくせに、不器用なやつめ。

 私はちょっとホッとした。

 ……ホッとした? なんで?

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