③
あの埃っぽい階段で先輩に見出された私は、昼休みになると生徒会室へ入り浸るようになった。
そこは当時の生徒会役員の溜まり場のようになっていて、彼ら彼女らは私のことを穏やかに迎えいれてくれた。
最初は戸惑っていた私だが、そのうちこれが珍しいことではないことに気がついた。どうやら青葉先輩は、役員になった一年生の頃から似たようなことをやっていたらしい。
当時副会長だった眼鏡をかけた七三分けの男の子が、教えてくれたことがある。
「あの人、猫を拾ってくるのが趣味なんだよ」
「……猫?」
キョロキョロする私を見た彼が、「いや比喩。君のこと」と言って笑った。
「偶にいるんだ。教室で居場所がなくて、階段とかトイレで弁当食べてるやつ。鶴ヶ谷は、時々そういうのを拾ってくる。大体、一週間もすれば来なくなるけどね」
「そうなんですか?」
「うん。鶴ヶ谷が裏で手を回してるから」
およそ青葉先輩に似合わない、不安な単語だと思った。
「それって、どういう……」
「色々だよ。いじめてるやつらを説教したり、証拠作って脅したり、ひと芝居打って和解させたり」
知らなかった。
確かに、青葉先輩が生徒会長になってから、学校全体の雰囲気が良くなったと聞いたことはあったけれど。
「ま、君の件は規模が大きいから手を打ちあぐねてるみたいだけどね。とにかくここは、そういう居場所がないやつの駆け込み寺みたいなもんだ」
「そう、だったんですね……」
そのときの私は、先輩に対する「すごい」という気持ちと、「私だけじゃなかった」という事実を寂しく思う気持ちの二つを感じていた。
だからというわけではないけれど、放課後、私は生徒会の仕事を手伝うようになった。
正式な役員ではないので、当然内申点には反映されない。完全なボランティアだ。
それでも、先輩のために何かしたかった。拾ってもらった猫なら、恩知らずではいたくない。
でも本当は、そんな理屈は全部後付けで、結局は、ただ先輩の近くにいたいだけだった気もする。
とにかく。
そうして私が見習い役員になった、ある秋の日のことだった。
その日は珍しく仕事が長引いて、他の役員たちは帰宅していて、残っていたのは私と青葉先輩の二人だけだった。
茜色に染まった室内で、青葉先輩がぐっと両手を伸ばして言った。
「あー、お腹空いたーっ!」
「思ったより、時間かかっちゃいましたね」
「まったく、みんな薄情なんだから。桜さんの優しさを見習ってほしいわ」
「あはは……」
もちろん、私が居残ったのは優しさ故ではなく、下心というか、単に青葉先輩と一緒にいたかっただけだ。
でも、そんな本心はおくびにも出せない。恥ずかしすぎるし、それ以上に過剰な好意を見せて嫌われたくなかった。
それくらい、当時の私は青葉先輩にのめり込んでいた。だから。
「桜さんも、お腹空いたよね」
「あ、はい」
「よければ、一緒にご飯食べにいかない?」
その瞬間の高揚を、今でも鮮明に覚えている。
あの頃、ちょっとした非日常が、どうしてあんなに眩く輝いて見えたんだろう?
私は「はい!」と声を上げ、それからすぐに気づいた。登下校中の買い食いは校則違反だ。
不安がる私の顔色を見て、青葉先輩は先回りするように、自らの唇に人差し指を立てた。
「先生には内緒ね。いい店、知ってるから」
夢の中にいるみたいに、浮ついた時間だった。今だけは、青葉先輩の時間を私が独り占めしている。
こっちだよ、と夕暮れの歩道を先導する先輩のセーラーカラーは、泣きたいくらい鮮烈な茜色をしていた。
そうして連れて行ってもらった先は、隠れ家みたいな喫茶店だった。
「ここはね。歴代生徒会長御用達の、秘密の隠れ家なの」
「なんですか、それ」
大人っぽい先輩の口から出た子供っぽさに、つい笑ってしまう。
だけど先輩は怒るでもなく、こそっと私に耳打ちした。
「うちの中学の生徒会OBの方がマスターをされているの。制服を着て入っても怒られないし、学校にも秘密にしてくれる。ただ、人が来すぎるとお店が迷惑するから、このことは代々の生徒会長と、会長が招待した生徒しか知らない」
重たげな木の扉を押し開けながら、悪戯っぽい目で青葉先輩が微笑む。
「私が連れてきたのは、桜さんが初めてよ」
──あのお店で先輩がご馳走してくれたのが、ナポリタンだったのだ。
薄暗い照明と、革張りのソファ。うっすら流れる洋楽。
そして、目の前には憧れの先輩。
店内にはマスターの他に私たちしかいなくて、まさしく隠れ家のようだった。
食後のコーヒーは苦かったけど、それを平然と飲む青葉先輩はやっぱり格好良くて、綺麗で、なにからなにまで夢みたいな時間だった。
†
「今思うと」
ナポリタンをフォークでくるくると巻きながら、青葉先輩は苦笑いを浮かべた。
現実の彼女は、記憶の中の彼女より輪郭がシャープで、よく見ればうっすらと化粧もしている。
「我ながら、ちょっと芝居じみてるというか、格好つけすぎてて恥ずかしいわね。何なの隠れ家って、って感じ」
「でも、素敵でした。すっごく」
「素敵」がどこに掛かる言葉なのか曖昧なまま、私は反駁した。
「私にとっては、大事な思い出です」
「ありがとう」
巻き取られたナポリタンが、薄紅色をした唇に吸い込まれていく。丁寧な食べ方は、あの頃と変わらない。
「それでね。ここからはちょっと、お仕事の話なんだけど」
「はい」
「合同学園祭でやる生徒会の出し物、喫茶店になりそうでしょう」
私は頷いた。
青葉先輩の言うとおり、両校生徒会による合同展示は、美浜大附属が提案した「喫茶店」に決まりそうだ。
正式な決定は各校での調整後だが、良くも悪くもスタンダードな企画だし、反対はされないだろう。一応海浜側も案は用意していたのだけど、喫茶店というのは妥当かつ現実的なラインだったので、私は早々に腹案を引っ込た。
「任せる」と言っていただけあって、神楽坂会長も反対していない。
「あ、もしかして」
「そうなの。フードメニューとして、ナポリタンを出せないかと思ってて」
「いいと思います!」
打ち合わせでも、ドリンクメニューだけでは寂しいかも、という話が出ていたところだ。ナポリタンなら(多分)難しい調理は必要ないし、原価も抑えられそうな気がする。レトロ喫茶店路線で個性も出せる。
「でも、今の美浜の生徒会って、料理できる子がいないのよ。コーヒーなら手順を覚えるだけだけど、料理となると、ね」
「それは……そうですね。どうせなら美味しいもの出したいですし」
「ね。だから相談なんだけど、海浜の生徒会で、そういうの詳しい人がいないかと思って」
「いや、うちも……神楽坂会長は何でもできますけど、確か料理だけは苦手って言ってたような」
「ちなみに桜さんは?」
「実は私もさっぱりで──あ」
パッと脳内に、篠森の澄まし顔が浮かんだ。
「いえ、大丈夫です! 任せてください。こういう話にうってつけの後輩が一人、いますから」
†
「はぁ、ナポリタンですか」
というのが、翌日経緯を聞いた篠森のリアクションだった。
例によって、放課後の家庭科室である。私と篠森は、各々の丼を挟んで向き合っていた。
ちなみに中身は天津飯だ。
「先輩がそこまで言うなら、手伝ってあげてもいいですけど」
篠森がそっと自身の二の腕を撫でた。
海で赤く焼けた彼女の肌は、すでに元の白さを取り戻しつつある。
「あれ、なんか気乗りしてないね。もしかして、クラスの出し物で忙しい?」
「いえ、別に」
「1Bってなにやるの?」
「お化け屋敷です」
そうか。ちょっと惜しい。もし飲食系の出し物なら、きっと活躍できただろうに。
「じゃあなんで不機嫌なの」
「わたしが料理してる隣で、先輩がその『青葉先輩』の話を延々三十分もするからです」
「……私、そんなにしてた?」
「してました」
ごめん、と謝って私は天津飯にスプーンを差し込んだ。
ふわとろの半熟卵ではなく、しっかり火を通した堅焼きタイプだ。卵に包まれている具材はカニカマ、豚こま、ネギ、椎茸。そして、三粒のグリンピースが上に載っている。
焼き目のついた卵には、トロっとした甘酢あんが満遍なくかかっていて、つやつやと黄金色に光るさまが何とも美しい。
「先輩って──」
篠森が、何か物言いたげに私を見た。
いつもストレートな物言いをする彼女が、こんなふうに口籠もるのは珍しい。
「……その。天津飯の味付け、どうですか?」
「美味しいよ? あんかけの味もちょうどいいし、卵に色々具が入ってるのも楽しい」
「そうですか。よかったです」
篠森のスプーンが、厚い堅焼き卵をぷつりと割り裂く。
三粒のグリンピース。そのうちの一粒が、ころりと転がり落ちた。
「──それで、ええと。喫茶店の企画、手伝ってくれるってことで、いいんだよね」
「はい」
甘酢あんで光る唇を小さな舌で舐めて、篠森が頷いた。
「まあ、学園祭の喫茶店でナポリタンっていうのは、いい目の付け所だと思います」
「美味しいよね」
「そういう意味じゃなくて……これは食べてもらったほうが早いんですが」
「そうなの? まあいいや。それで、さっそく篠森にお願いしたいことがあってさ」
「お願い?」
「一回、みんなにナポリタンを作りかたを教えてほしいんだ」
私はそっと、篠森の反応を伺った。今のところ、あからさまな拒否は見て取れない。
「本番だって、篠森ひとりに作ってもらうわけにはいかないでしょ? だから何人かフード担当を決めようと思ってて、その人たち向けに」
具材の購入や野菜の仕込みは全員で協力するとして、実際の調理は四、五人で分担するようにしたい。
そうすれば、当日は交代で休憩を取りながら余裕を持って回せるはずだ。
「わたし一人で充分ですけど」
「だめ」
ここは譲れない。外部協力者に任せきりは駄目だ。なにより。
「それだと休憩できないでしょ。せっかくの学園祭なんだからさ。色々見にいこうよ」
「見に、って…………先輩とですか?」
「あっ、もしかして誰かと回る約束してた?」
「してませんけど。そういう相手、いないので」
なんだ。篠森、まだ友達がいないのか。大根の桂むきができるくらい器用な手先をしているくせに、不器用なやつめ。
私はちょっとホッとした。
……ホッとした? なんで?
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