食事の片付けを終えた後、私たちは連れ立って散歩へ出掛けた。

 切り立った岩が並ぶ磯に踏み込んで、小さなカニにきゃあきゃあ行ったり、突然現れたフナムシにわりとガチ目の悲鳴を上げたりした。

 砂浜じゃないから泳ぐのはちょっと難しいけれど、その気になれば水遊びくらいは全然できそうな感じで、水着を持ってこなかったことを椿と悔やんだりもした。

 ちなみに篠森は海で泳ぐことに興味がない、というかカナヅチらしい。初めて知った。

 適当に歩いて行った道の先で、普段はあまり見かけない名前のスーパーマーケットに入って、手持ち花火のジャンボセットとお弁当を買った。

 篠森は自分が作ると主張したけれど、それはさすがに後輩を頼りすぎなので、みんなで民泊に戻って幕の内弁当を食べた。案外、ちゃんと美味しかった。

 そうこうしているうちに十八時になって、「お風呂どうする?」みたいな話になる。

 八月だけあってまだ日は高い。花火を始めるには早過ぎるから、じゃあ先に入ろうということになった。

 そこで椿が思い出したように言った。


「そういえば、わりと近くに温泉宿があったと思う。泊まらなくても入れるやつ」


「へえ」


 温泉か。

 ちょっと年寄りくさいと思われるようで隠しているけれど、私はかなり温泉というものが好きだ。

 以前読んだ本のなかに、ストレス発散の四分類、という話があった。

 人にはそれぞれ合ったストレスの解消方法があり、カラオケで大声を出すことが適切な人もいれば、一人でのんびりすることで癒される人もいる、みたいな話だ。

 それでいえば、私は確実に「発散」より「癒し」を求めるタイプである。

 普段は生徒会副会長として背筋を伸ばしているが、一度休日となれば日がな一日ぼんやりしていることも多い。

 とりあえず、そういうわけで私は温泉が好きだ。


「じゃあ、」


「ちなみに、あたしはパスね」


 みんなで行こう、と言い掛けた私の機先を制して、椿がつれないことを言った。


「なんで。言い出しっぺなのに」


「海辺の温泉って、なんかダメなのよね。たいてい肌が酷いことになる」


 それなら仕方がない、けど。

 篠森と二人か。いやいいけど。全然いいんだけどね。こういうのは篠森の気持ちもあるから。いや何の話?

 横目でさりげなく様子を伺うと、篠森はうっすら頬を赤くして足元を見ていた。

 

「……篠森。温泉、行く?」


「……先輩が行くなら行きます」


「そ、そっかぁ」


「そ、そうです」


「ねえちょっとあたし何見せられてんの?」


 あーもう好きにしなさいよあたしお風呂入る、と不機嫌そうに言い捨てて、椿がお風呂場へ向かう。

 あ、ちょっと椿、と伸ばした私の手は虚しく空を切るだけだ。

 広いリビングダイニングには私と篠森だけが取り残されて、そのうち洗面所のほうから水音が聞こえてくる。

 窓の外で、遠くヒグラシが鳴いていた。


「……じゃあ、行く?」


 私の言葉に、篠森が小さく頷く。


  †


 夏は日が長い。まだ明るい、黄金色の光が照らす海沿いの道を二人で歩く。

 小さな宿で、タオルとかそういう貸し出しはしていないらしい。だから私も篠森も、ハンドタオルとシャンプーとかを詰めたバックを手に下げている。

 それだけじゃない。私のバックには、タオルに包まれた「割れ物」が入っている。椿のお祖母ちゃんから貰った食材のひとつだ。

 卵である。


「そういや、温泉卵が作れるらしいわよ」


 という椿のひと言を聞いた篠森が、強硬に主張したのだ。生卵を持っていこう、と。


「温泉卵が作れる温泉って、案外少ないんですよ」


「そうなんだ?」


「六十度以上のお湯が必要でないと、タンパク質の変性が起こらないんです」


「六十度って、ちょっと熱過ぎない?」


「多分、入浴用は水で薄めてるんじゃないでしょうか」


「ああ、なるほどね」


 それはそうか。

 少し考えればわかることに思い至らなかったのは、私の思考が明後日の方向に飛んでいるからかもしれない。

 別に緊張しているわけではないけど。する理由がないので。

 やがて、こじんまりとした温泉旅館につく。平屋建てで、旅館というよりは「民宿」とか「ペンション」って感じの建物だ。

 外周の部分に、石を切り出した小さな手水場みたいな場所があった。石の器にお湯が溜まっていて、近づくとむわっとした熱気を感じる。器には、竹の筒を通して、ちょろちょろとお湯が注がれていた。

 手前には「温泉卵作れます」という木製の看板と、紐のついた竹籠が置かれている。

 ここに生卵を入れて、溜まっているお湯につければいいわけか。

 大体、卵を入れて三十分くらいで出来上がるらしい。

 待つには長いけど、お風呂に入って戻ってくるには短い気もする。

 それを篠森に伝えると、


「わたし、長風呂しないので大丈夫です」


 と、請け負ってくれた。

 受付に入って、五百円の入浴料を支払う。卵を渡すと、快く引き受けてくれた。

 簡単に場所の案内を受けてから、赤字に「女湯」と染め抜かれた暖簾をくぐって、脱衣所へ移動する。

 都内とスパリゾートみたいなロッカー式にはなくて、棚に脱いだ服を入れる籠が数個並んでいるだけの空間だ。

 どの籠も空っぽだから、どうやら先客はいないらしい。

 簀に足を載せて、籠を引き出す。


「……。」


 なんだろう。脱衣所が狭くて、お互い、息遣いが聞こえる距離にいるからだろうか。

 ちょっと照れてしまう。

 そんな私の心情を知ってか知らずか、篠森は躊躇わずに服の裾に手をかけた。がばっとシャツを脱いで、キュロットを下ろす。

 うっすらと肋骨が浮いた腹部がモロに見えてしまって、私は火傷したみたいに視線を逸らす。


「先輩、なにしてるんですか?」


「や、別に……」


 なんでもないけど。

 努めて彼女の裸体を視界に入れないようにしながら、私も服を脱ぎ始めた。


 木の壁で囲われた洗い場も、岩で囲まれた湯船も、やっぱり大きくはない。

 シャワーは二つしかなくて、私の篠森は隣に座って身体を洗った。

 髪を洗って、ヘアゴムで留める。ほとんど同じタイミングで篠森が立ち上がったから、もろに彼女の身体を見てしまって、「あわわ」って感じになった。あわわ。

 逃げるように湯船に浸かる。

 お湯は黄金色をしていて、足先を入れた瞬間だけピリッとした刺激を感じたけど、一度肩まで浸かってしまえば、熱すぎず温すぎす、ほどよい熱が身体に染み込んでいく。


「ふああぁぁあぁ……」


 あまりに気持ちよくて、こんな間抜けな声も出てしまう。

 ちゃぷ、としずかに入ってきた篠森が、ぽつりと言った。


「先輩って……」


「なに?」


「学校で人前にいるときと、全然違いますよね。今とか、家庭科室にいるときとか」


 確かに篠森の言うとおりだ。

 篠森といる私は結構だらしないし、気が緩んでいる。学校だったら、間違いなく誰にも見せない姿と言える。せいぜい、椿ぐらいか。


「篠森といると、気が緩んじゃって」


「どういう意味ですか、それ」


「私、学校だとけっこう優等生でしょ」


 篠森が「自分で言うんだ、この人……」という顔をした。

 でも事実だし、私はそうであろうと振る舞っている。

 理由は大きく分けて二つある。

 ひとつは、生徒会役員としてみなに選んでもらうため。もっと言えば、かつて私を救ってくれた生徒会長、青葉先輩のようになるためだ。誰だって、憧れには近づきたいと願う。

 もうひとつは、いわば武装だ。

 戦略、あるいは保険と言い換えてもいい。

 父が事件を起こしたとき、私はひとつ学んだ。

 結局、日頃の行いだと。

 今思えば、中学生の私は、自分が他からどう見られているか、どうやって自分の立ち位置を確立するか、そういう意識が全く足りたいなかった。

 地味で目立たないくせに、父親のことを少し鼻に掛けた、ちょっと嫌なやつだったと思う。

 学校で他人の目を気にしないというのは、将棋で言えば、なんの囲いも組んでいないようなものだ。

 だから父親がSNSで燃えたとき、なんの防御もできずに火に焼かれてしまった。青葉先輩がいなければ、逃げ場を用意することさえままならなかった。

 当たり前だ。災害が起きてからシェルターを探したって、見つかるはずがない。そういうのは、あらかじめ用意しておくべきものだ。

 反省した私は、高校進学を機に自分を変えた。容姿を磨き、毎朝三十分ランニングして、勉強だって予習復習を欠かさないようにした(私が殊更に試験勉強をしないのは、単にいつも勉強してるからだ。中学時代の成績は、精々中の上だった)。

 そうやって武装して、精一杯強そうなフリをしていれば、周囲が認めてくれると思った。

 そして、それは間違いじゃなかった。

 クラスで一目置かれて、一年生ながら生徒会の副会長にも選出されて……。

 今、もし同じようなことが起きても、きっと私は孤立せずに済むだろう。

 そういう自分の、多分「強さ」と呼んで差し支えない部分が、私は好きだ。

 ──でも。

 やっぱり少しだけ、そういうのは、息苦しかった。

 ずっと、鎧を脱いで、仮面を外して、そういう自分でいられる場所が欲しかったのだと思う。

 誰もいない静かな家でも、優等生でいる教室でもない、私の、第三の居場所サードプレイスが。

 

「私らしく、なんて馬鹿らしい言葉だし、素の自分なんてもの、どこにもいないと思うけどさ。でも、篠森といて、一緒にご飯食べてるときの私は、なんていうか、一番自由なんだよ」


「自由、ですか」


「うん。年末に見たドラマでも言ってたよ。ものを食べるときだけ、人は自由になるって」


 ちょっとニュアンスは変わっているかもしれないけど、概ねそんなことを言っていたはずだ。


「篠森が作ってくれたご飯を食べるときだけ、普段着てる鎧とか、仮面みたいなものを全部脱げる気がするんだ」


 私は腕を伸ばして、空を見上げた。群青色をした黄昏は、泣きたくなるくらい綺麗だ。そこに白い鳥が二羽、遮るものもなく飛んでいる。

 今なら少しくらい恥ずかしい本音だって、口にしても許される気がした。


「だから、篠森に会えてよかったと思ってる。篠森とご飯食べるのも、こうやってただ一緒にいる時間も、私、好きだよ」


 とん、と肩に何かがぶつかった。素肌に濡れた髪が触れる。


「……先輩、ずるいです」


「篠森?」


「こっち見ないで」


 私は正面に向き直る。彼方に、瞬く一番星が見えた。

 肩の骨に当たる感触は丸くて硬くて、すぐに私は、それが篠森の額であることに気づいた。

 湿り気を帯びた声が耳朶を打つ。


「ずるい。そんなこと言われたら、嬉しくなっちゃうじゃないですか……」


「嬉しいなら、別にいいんじゃない?」


「先輩のあんぽんたん」


「あんぽんたん⁉︎」


 ってなに? また方言かな。

 ぐりぐりと額を擦り付けながら、篠森がささやくように言った。


「私も好きです」


「え……」


「だから、その──先輩と一緒に、ご飯を食べるのが」


「あ、うん……」


 そういう意味か。

 ……?

 今、一瞬、私はどういう意味を想像したんだろう。


「ほんとに、好き……」


 水面の下で、篠森の指先が私の手に触れる。

 私はその手を振り解かず、かといって握り返すだけの理由も見つけられないまま、ただ、藍色へ変化していく空を見上げていた。


 ちなみに。

 帰り際に取り上げた温泉卵は、すっかり茹で時間を超過していて。

 割ってみないとわからないけど、多分、ゆで卵に近いものになってしまっただろう。

 残念だけど仕方ない。

 たとえどんなものであれ、一度変質してしまったものは、けして、元の形には戻せないのだから。


  †


 そして、その夜。

 三人で手持ち花火で遊んでいた私が、神楽坂会長から届いたメッセージに気がついたのは、深夜、遊び疲れて眠る寸前のことだった。

 彼女にしては珍しく長文のメッセージには、こう記されていた。


『桜ちゃん、休み中にすまん。十月の海浜祭なんだが、急遽、近隣の美浜大附属高校と合同開催することになった』


『アタシは別口の仕切りで手が埋まってるから、桜ちゃんに先方の生徒会との渉外窓口を頼みたい。相手の代表は──』


『鶴ヶ谷青葉。三年生の、生徒会長だ』


【憧憬レモンサーモンパスタ

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