②
食事の片付けを終えた後、私たちは連れ立って散歩へ出掛けた。
切り立った岩が並ぶ磯に踏み込んで、小さなカニにきゃあきゃあ行ったり、突然現れたフナムシにわりとガチ目の悲鳴を上げたりした。
砂浜じゃないから泳ぐのはちょっと難しいけれど、その気になれば水遊びくらいは全然できそうな感じで、水着を持ってこなかったことを椿と悔やんだりもした。
ちなみに篠森は海で泳ぐことに興味がない、というかカナヅチらしい。初めて知った。
適当に歩いて行った道の先で、普段はあまり見かけない名前のスーパーマーケットに入って、手持ち花火のジャンボセットとお弁当を買った。
篠森は自分が作ると主張したけれど、それはさすがに後輩を頼りすぎなので、みんなで民泊に戻って幕の内弁当を食べた。案外、ちゃんと美味しかった。
そうこうしているうちに十八時になって、「お風呂どうする?」みたいな話になる。
八月だけあってまだ日は高い。花火を始めるには早過ぎるから、じゃあ先に入ろうということになった。
そこで椿が思い出したように言った。
「そういえば、わりと近くに温泉宿があったと思う。泊まらなくても入れるやつ」
「へえ」
温泉か。
ちょっと年寄りくさいと思われるようで隠しているけれど、私はかなり温泉というものが好きだ。
以前読んだ本のなかに、ストレス発散の四分類、という話があった。
人にはそれぞれ合ったストレスの解消方法があり、カラオケで大声を出すことが適切な人もいれば、一人でのんびりすることで癒される人もいる、みたいな話だ。
それでいえば、私は確実に「発散」より「癒し」を求めるタイプである。
普段は生徒会副会長として背筋を伸ばしているが、一度休日となれば日がな一日ぼんやりしていることも多い。
とりあえず、そういうわけで私は温泉が好きだ。
「じゃあ、」
「ちなみに、あたしはパスね」
みんなで行こう、と言い掛けた私の機先を制して、椿がつれないことを言った。
「なんで。言い出しっぺなのに」
「海辺の温泉って、なんかダメなのよね。たいてい肌が酷いことになる」
それなら仕方がない、けど。
篠森と二人か。いやいいけど。全然いいんだけどね。こういうのは篠森の気持ちもあるから。いや何の話?
横目でさりげなく様子を伺うと、篠森はうっすら頬を赤くして足元を見ていた。
「……篠森。温泉、行く?」
「……先輩が行くなら行きます」
「そ、そっかぁ」
「そ、そうです」
「ねえちょっとあたし何見せられてんの?」
あーもう好きにしなさいよあたしお風呂入る、と不機嫌そうに言い捨てて、椿がお風呂場へ向かう。
あ、ちょっと椿、と伸ばした私の手は虚しく空を切るだけだ。
広いリビングダイニングには私と篠森だけが取り残されて、そのうち洗面所のほうから水音が聞こえてくる。
窓の外で、遠くヒグラシが鳴いていた。
「……じゃあ、行く?」
私の言葉に、篠森が小さく頷く。
†
夏は日が長い。まだ明るい、黄金色の光が照らす海沿いの道を二人で歩く。
小さな宿で、タオルとかそういう貸し出しはしていないらしい。だから私も篠森も、ハンドタオルとシャンプーとかを詰めたバックを手に下げている。
それだけじゃない。私のバックには、タオルに包まれた「割れ物」が入っている。椿のお祖母ちゃんから貰った食材のひとつだ。
卵である。
「そういや、温泉卵が作れるらしいわよ」
という椿のひと言を聞いた篠森が、強硬に主張したのだ。生卵を持っていこう、と。
「温泉卵が作れる温泉って、案外少ないんですよ」
「そうなんだ?」
「六十度以上のお湯が必要でないと、タンパク質の変性が起こらないんです」
「六十度って、ちょっと熱過ぎない?」
「多分、入浴用は水で薄めてるんじゃないでしょうか」
「ああ、なるほどね」
それはそうか。
少し考えればわかることに思い至らなかったのは、私の思考が明後日の方向に飛んでいるからかもしれない。
別に緊張しているわけではないけど。する理由がないので。
やがて、こじんまりとした温泉旅館につく。平屋建てで、旅館というよりは「民宿」とか「ペンション」って感じの建物だ。
外周の部分に、石を切り出した小さな手水場みたいな場所があった。石の器にお湯が溜まっていて、近づくとむわっとした熱気を感じる。器には、竹の筒を通して、ちょろちょろとお湯が注がれていた。
手前には「温泉卵作れます」という木製の看板と、紐のついた竹籠が置かれている。
ここに生卵を入れて、溜まっているお湯につければいいわけか。
大体、卵を入れて三十分くらいで出来上がるらしい。
待つには長いけど、お風呂に入って戻ってくるには短い気もする。
それを篠森に伝えると、
「わたし、長風呂しないので大丈夫です」
と、請け負ってくれた。
受付に入って、五百円の入浴料を支払う。卵を渡すと、快く引き受けてくれた。
簡単に場所の案内を受けてから、赤字に「女湯」と染め抜かれた暖簾をくぐって、脱衣所へ移動する。
都内とスパリゾートみたいなロッカー式にはなくて、棚に脱いだ服を入れる籠が数個並んでいるだけの空間だ。
どの籠も空っぽだから、どうやら先客はいないらしい。
簀に足を載せて、籠を引き出す。
「……。」
なんだろう。脱衣所が狭くて、お互い、息遣いが聞こえる距離にいるからだろうか。
ちょっと照れてしまう。
そんな私の心情を知ってか知らずか、篠森は躊躇わずに服の裾に手をかけた。がばっとシャツを脱いで、キュロットを下ろす。
うっすらと肋骨が浮いた腹部がモロに見えてしまって、私は火傷したみたいに視線を逸らす。
「先輩、なにしてるんですか?」
「や、別に……」
なんでもないけど。
努めて彼女の裸体を視界に入れないようにしながら、私も服を脱ぎ始めた。
木の壁で囲われた洗い場も、岩で囲まれた湯船も、やっぱり大きくはない。
シャワーは二つしかなくて、私の篠森は隣に座って身体を洗った。
髪を洗って、ヘアゴムで留める。ほとんど同じタイミングで篠森が立ち上がったから、もろに彼女の身体を見てしまって、「あわわ」って感じになった。あわわ。
逃げるように湯船に浸かる。
お湯は黄金色をしていて、足先を入れた瞬間だけピリッとした刺激を感じたけど、一度肩まで浸かってしまえば、熱すぎず温すぎす、ほどよい熱が身体に染み込んでいく。
「ふああぁぁあぁ……」
あまりに気持ちよくて、こんな間抜けな声も出てしまう。
ちゃぷ、としずかに入ってきた篠森が、ぽつりと言った。
「先輩って……」
「なに?」
「学校で人前にいるときと、全然違いますよね。今とか、家庭科室にいるときとか」
確かに篠森の言うとおりだ。
篠森といる私は結構だらしないし、気が緩んでいる。学校だったら、間違いなく誰にも見せない姿と言える。せいぜい、椿ぐらいか。
「篠森といると、気が緩んじゃって」
「どういう意味ですか、それ」
「私、学校だとけっこう優等生でしょ」
篠森が「自分で言うんだ、この人……」という顔をした。
でも事実だし、私はそうであろうと振る舞っている。
理由は大きく分けて二つある。
ひとつは、生徒会役員としてみなに選んでもらうため。もっと言えば、かつて私を救ってくれた生徒会長、青葉先輩のようになるためだ。誰だって、憧れには近づきたいと願う。
もうひとつは、いわば武装だ。
戦略、あるいは保険と言い換えてもいい。
父が事件を起こしたとき、私はひとつ学んだ。
結局、日頃の行いだと。
今思えば、中学生の私は、自分が他からどう見られているか、どうやって自分の立ち位置を確立するか、そういう意識が全く足りたいなかった。
地味で目立たないくせに、父親のことを少し鼻に掛けた、ちょっと嫌なやつだったと思う。
学校で他人の目を気にしないというのは、将棋で言えば、なんの囲いも組んでいないようなものだ。
だから父親がSNSで燃えたとき、なんの防御もできずに火に焼かれてしまった。青葉先輩がいなければ、逃げ場を用意することさえままならなかった。
当たり前だ。災害が起きてからシェルターを探したって、見つかるはずがない。そういうのは、あらかじめ用意しておくべきものだ。
反省した私は、高校進学を機に自分を変えた。容姿を磨き、毎朝三十分ランニングして、勉強だって予習復習を欠かさないようにした(私が殊更に試験勉強をしないのは、単にいつも勉強してるからだ。中学時代の成績は、精々中の上だった)。
そうやって武装して、精一杯強そうなフリをしていれば、周囲が認めてくれると思った。
そして、それは間違いじゃなかった。
クラスで一目置かれて、一年生ながら生徒会の副会長にも選出されて……。
今、もし同じようなことが起きても、きっと私は孤立せずに済むだろう。
そういう自分の、多分「強さ」と呼んで差し支えない部分が、私は好きだ。
──でも。
やっぱり少しだけ、そういうのは、息苦しかった。
ずっと、鎧を脱いで、仮面を外して、そういう自分でいられる場所が欲しかったのだと思う。
誰もいない静かな家でも、優等生でいる教室でもない、私の、
「私らしく、なんて馬鹿らしい言葉だし、素の自分なんてもの、どこにもいないと思うけどさ。でも、篠森といて、一緒にご飯食べてるときの私は、なんていうか、一番自由なんだよ」
「自由、ですか」
「うん。年末に見たドラマでも言ってたよ。ものを食べるときだけ、人は自由になるって」
ちょっとニュアンスは変わっているかもしれないけど、概ねそんなことを言っていたはずだ。
「篠森が作ってくれたご飯を食べるときだけ、普段着てる鎧とか、仮面みたいなものを全部脱げる気がするんだ」
私は腕を伸ばして、空を見上げた。群青色をした黄昏は、泣きたくなるくらい綺麗だ。そこに白い鳥が二羽、遮るものもなく飛んでいる。
今なら少しくらい恥ずかしい本音だって、口にしても許される気がした。
「だから、篠森に会えてよかったと思ってる。篠森とご飯食べるのも、こうやってただ一緒にいる時間も、私、好きだよ」
とん、と肩に何かがぶつかった。素肌に濡れた髪が触れる。
「……先輩、ずるいです」
「篠森?」
「こっち見ないで」
私は正面に向き直る。彼方に、瞬く一番星が見えた。
肩の骨に当たる感触は丸くて硬くて、すぐに私は、それが篠森の額であることに気づいた。
湿り気を帯びた声が耳朶を打つ。
「ずるい。そんなこと言われたら、嬉しくなっちゃうじゃないですか……」
「嬉しいなら、別にいいんじゃない?」
「先輩のあんぽんたん」
「あんぽんたん⁉︎」
ってなに? また方言かな。
ぐりぐりと額を擦り付けながら、篠森がささやくように言った。
「私も好きです」
「え……」
「だから、その──先輩と一緒に、ご飯を食べるのが」
「あ、うん……」
そういう意味か。
……?
今、一瞬、私はどういう意味を想像したんだろう。
「ほんとに、好き……」
水面の下で、篠森の指先が私の手に触れる。
私はその手を振り解かず、かといって握り返すだけの理由も見つけられないまま、ただ、藍色へ変化していく空を見上げていた。
ちなみに。
帰り際に取り上げた温泉卵は、すっかり茹で時間を超過していて。
割ってみないとわからないけど、多分、ゆで卵に近いものになってしまっただろう。
残念だけど仕方ない。
たとえどんなものであれ、一度変質してしまったものは、けして、元の形には戻せないのだから。
†
そして、その夜。
三人で手持ち花火で遊んでいた私が、神楽坂会長から届いたメッセージに気がついたのは、深夜、遊び疲れて眠る寸前のことだった。
彼女にしては珍しく長文のメッセージには、こう記されていた。
『桜ちゃん、休み中にすまん。十月の海浜祭なんだが、急遽、近隣の美浜大附属高校と合同開催することになった』
『アタシは別口の仕切りで手が埋まってるから、桜ちゃんに先方の生徒会との渉外窓口を頼みたい。相手の代表は──』
『鶴ヶ谷青葉。三年生の、生徒会長だ』
【憧憬レモンサーモンパスタ
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます