旅先鯵祭り(と、茹ですぎ温泉卵)
①
「じゃ、あたしとママはお祖母ちゃんに挨拶してくるから。桜たちは、先に行ってて」
シートベルトを外しながら、助手席の椿が後部座席を振り返る。
「篠森さん、大丈夫?」
「……大丈夫、です」
後部座席でぐったりしている篠森が、真っ青な顔で答えた。どう見ても大丈夫じゃない。椿も同意見だったようで、「全然大丈夫に見えないのよね」と眉を顰める。
口元に手を当てながら、ぼそぼそと篠森が呟いた。
「すみません、車酔い……薬、あんまり効かない体質で」
バックミラー越しに、椿のお母さん──希美さんが申し訳なさげに目を細める。
「ごめんねー、高速使ったから休憩もできなくて」
「体質は仕方ないわよ。帰りは電車にしましょ。荷物だけママに運んでもらうとして」
はいはい、と希美さんが軽快に笑った。
等々力家所有の車で走ることおよそ九十分。
私たちは、椿の祖母が営む民泊へとやってきていた。
民泊といっても、祖父母が住む家の一部を間借りするわけではなく、まったく別の家を丸々借りる形だ。どうやら元々は、椿の祖母とその甥夫婦が二世帯住宅として使っていた建物らしい。仕事の都合で甥夫婦が転居したため、改装し、民泊施設として貸し出している──と、去年、椿から教わった。
「篠森、降りよう。降りれる?」
「だ、だいじょうぶ、です」
どうにか降りたはいいものの、足元がフラついている。
仕方がないので、肩を貸すようにして身体をささえた。羽でも生えてるみたい軽い身体である。
「先輩、ごめんなさい……」
「いいからいいから。ちょっと庭歩こっか。お水飲む? ちょっと温くなっちゃったけど」
「いただきます……」
大きな庭石にへたり込んだ篠森に、飲みかけの「いろはす」を差し出す。ひと口ふた口と飲み干すと、少し顔色がマシになった気がした。
「車、駄目なんだね。行ってくれたらよかったのに」
「すみません、かえって迷惑かけちゃったみたいで」
「いいよ、って私が言うのもアレかもだけど。とにかく、帰りは電車にしよっか。そっちは平気だよね?」
「はい、車だけです。あの匂いが苦手で……もう大丈夫です」
ほう、と篠森が深く息を吐き出した。まだ少し青白い気はするが、今度の「大丈夫」は嘘ではないように見える。
「椿が戻ってくるまで、ちょっと散歩する?」
篠森は私の提案にこくりと頷いて、キャップのつばの角度を直した。
今日の彼女は、水色のサマーパーカーにキュロットを合わせ、野球帽みたいなつばの広いキャップを被っている。
長い黒髪はくるくると巻かれて、キャップの中におさまっているから、シルエットだけ見れば小柄な少年に見えなくもない。
だけど差し出した手のひらに重なる手はやっぱり小さくて、彼女が一歳年下の女の子だと強く感じる。
「立てる?」
「はい」
握り返す手を引いて、そのまま歩き出す。庭を出て、車道へ出た。茂った木々の梢の下、木漏れ日を辿るように歩いていく。
潮風が私の頬を撫でた。
「いつもこんな感じなの?」
「酔う方ですけど、ここまでじゃないです。今日はちょっと、寝不足で。なんか、緊張しちゃって……」
遠足で寝不足になっちゃう子供か。
民泊のある場所は小高い丘の上だから、道沿いの歩道から海を一望できた。
額のように視界を囲む濃緑の木々と、視界の果てまで広がる深い紺色を眺めていると、なんだか懐かしさを覚えてしまう。別に、海辺の育ちとかじゃ全くないのに。
「まあ、よかったよ」
と、私は言った。
「篠森が楽しみにしててくれて。もしかしたら、断りづらかっただけかなって、ちょっと思ってたから」
「そんなことないです!」
急な大声にびっくりしてしまう。
「先輩が誘ってくれて、嬉しかったです」
不意打ち気味に放たれた、まっすぐな言葉が胸を貫いた。
ぴんと背筋を伸ばして、自然な上目遣いで私を見つめる両目から、視線を外すことができない。
盛夏の日差しを浴びる篠森は、どこか彫像めいて、うっかり見惚れてしまいそうだ。
「戻りましょう、先輩。一緒に」
†
篠森を連れて元の家へ戻る。庭先から母屋の前を通り過ぎ、別宅へと向かう。
玄関脇の呼び鈴を鳴らすと、すぐに引き戸が内側から開いた。
「遅い!」
「ごめんごめん」
椿はオフショルダーのワンピースを脱ぎ捨てて、ゆるっとした無地のTシャツにジーンズを履いていた。
靴を抜いで家に上がる。去年も思ったけれど、都内の住宅と違って土地の使い方にゆとりがある。
別宅は平家建で、リビングダイニングは洋室、寝室は和室になっている。和室は襖で二つに分けることができるけど、おそらくその必要はないだろう。女三人なのだから、精々広く使えばいい。
あとはトイレとユニットバス、システムキッチンも完備されている。
「椿、お昼ご飯なんだけど」
「あ、その件であたしも話があるのよ」
冷蔵庫の前に立った椿が、篠森に向き直る。
「あの……篠森さんって、魚捌ける人?」
「? はい。だいたいは」
「よかった! 料理上手な子が来るって伝えたら、お祖母ちゃんがこれ持ってけって聞かなくて」
椿が冷蔵庫を開けると、そこには澄んだ目をした魚が五匹並んで寝そべっていた。サイズはそこまで大きくない。私の手のひらと同じくらいだろうか。
「──鰺!」
篠森が歓声を上げる。これが鰺か。言われてみれば、水族館で見た鰺はこのくらいの大きさだったかも。
「あと、ついでに野菜も幾つか貰ったんだけど……」
「見せてください!」
冷蔵庫の中身を吟味しながら、篠森はぶつぶつと呟いた。
「……葱に生姜に大根、味噌に醤油に、調味料も揃っとる。こげんあれば、色々作れっとうよ……」
「ええと……」
椿が助けを求めるように私を見る。大丈夫。平常運転だから。
そういうわけで、お昼ご飯は自炊することになった。
「鰺の語源は『味良し』と言われています。その名の通り、刺身に塩焼き、南蛮漬けにフライに唐揚げ、どう調理しても美味しい。しかも夏の魚ですから、今が旬です」
そう語りながら、篠森はものすごい速さで鰺を三枚に卸していく。鱗を取り、首を落とし、内臓を抜いて……。
何事もそうだけど、手際のいい人の仕草を見ていると自分もできる気がしてくる。
「ちょっと私もやってみていい?」
まな板の前に立ち、受け取った三徳包丁を構える。持ち手が木製のしっかりしたやつだ。使っている金属が違うのか、家庭科室のそれより重たく感じる。
「鰺のおろし方は、腹→背→背→腹の順番で包丁を入れます。まずは腹を親指で開いて、腹側から中骨まで」
「え、わかんないわかんない。これで合ってる?」
「これ説明難しいな……ちょっとすみません」
「わっ」
包丁を握る手に篠森の手が重なる。魚を捌いていたせいか、ひんやりとした冷たい手だ。
私のほうが背が高いので、背伸びをして肩に顎を載せている。
「こんな感じです。真ん中くらいまで刃を入れたら、ひっくり返して今度は背中から刃を入れていくんです」
「う、うん……」
耳朶の裏に吐息が当たる。あと、背中が全体的に柔らかい。なんだこれ、妙に照れる……。
それを見た椿が、「いやなに刃物持っていちゃついてんのよ」と突っ込んだりするから、余計に照れることになる。
そんな一幕を挟みながら、篠森シェフの指揮下、料理は順調に進んでいった。
とはいえ結局、ほとんど篠森が作ったのだけど。
完成した料理は、まさに鰺祭りの様相である。
まずはお刺身。薄い桜色をした身に、薄い銀色の皮がきらりと光る。ぱっと見、白身魚っぽい色なんだけど、実は鰺は赤身魚に分類されるそうだ。初めて知った。
そのお刺身を包丁の背で叩いて、葱、生姜、茗荷、味噌を混ぜたなめろう。見た目はちょっとネギトロっぽいけど、もっと粗挽きな感じだ。
それから鰺のフライ。千切りのキャベツが添えてあって、黄金色に輝く姿が神々しい。
そして最後に、アラが入ったお味噌汁。これは私と椿が作った。お頭の部分も丸ごと入れたから、うっかりすると真っ白な目玉と目が合ってしまう。見た目はちょっと不気味だけど、味は間違いなく美味しいはずだ。
広々したダイニングテーブルに料理を並べて、三人で卓を囲む。
「「「いただきます」」」
自然と手を合わせてしまうのは、苦労したことと、丸のままの鰺を見たからだろうか。
つぶらな瞳をしていた。
それはそれとして。
もう食欲が限界だ。ご飯茶碗を片手に箸を伸ばす。まずは──やっぱり、お刺身だ!
「んんんっ〜〜っ!」
ぷりっとした舌触りと、口の中でとろける脂の甘さ。味が濃くてぎゅっと詰まっている感じがたまらない。
続けてなめろう。とろっとしたタタキを口に含むと、葱・生姜・茗荷の香りが複雑に絡み合う。
これだけ薬味が入っていると、どうしても魚の味が負けてしまう気もしたけど──そんなことは全然ない。
鰺の旨味と薬味の香りが負けじぶつかり合って、互いに張り合っている感じだ。
これはあれだ。藤乃ちゃんが、絶対にお酒を持ち出すやつ。
そして、扇形のアジフライ。
まず、大きい。しかも分厚い。どどん、って感じの存在感だ。
まずここに、トトト……と慎重に中濃ソースを垂らしていく。掛けすぎてはダメだ。つづら折りに、過不足なく、しかし満遍に塗していく。
そこにちょんとレモンを絞れば──完璧だ!
「椿。はい、ソース」
「いらないけど」
「なんで?」
「あたし、醤油派」
「えっ何それ意味わかんない。ソースを掛けよう?」
「醤油派だっつってんでしょうが」
「いやだって……アジフライだよ? フライ、だよ? ほら、ソースじゃん」
「なんなのその雑理論」
話のわからんやつめ。
私はソースの矛先を変えた。
「篠森はソースだよね?」
「いえ、わたしは梅おろしに出し汁で頂きます」
「えっなにそれ美味しそう」
なんで篠森自分だけそんな美味しそうなの用意してるの。
揚げ物はご飯が進む。その合間に啜る荒汁がまた、たまらなく美味しい。
「美味しい……幸せ……」
「ねえ篠森さん。前から薄々思ってたけど、桜って食事中だけ、ちょっと子供っぽくなるわね?」
「ですね……」
なんか馬鹿にされた気がするけど、ご飯が美味しいから別にいいや。
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