「な、何もない……」


 冷蔵庫を開けた篠森が、絶望のうめきを上げた。


「ごめん、なんか私も忘れてた。あ、でも見て篠森。バターがあるよ」


「揚げバターでも作りますか」


「なにそれ」


「バターを油で揚げた料理です」


「馬鹿の食べ物じゃん……」


 ネットで検索したら本当に出てきた。油で油を揚げるのか……。この世界はまだまだ未知で溢れている。


「買い出し──あ、でもお金が……」


「いやいや、篠森に出させるわけないでしょ」


「え、でもわたしが言い出したので」


「元々、出前でも取ろうかって藤乃ちゃんと話してたんだ。そろそろ起きてくると思うから、相談してみよう」


「藤乃ちゃんって、先輩の叔母さんですよね。どんな感じの──」


 そのとき、「ばたん」と扉が開く音がした。藤乃ちゃんの部屋のほうだ。

 どうやら起きてきたらしい。

 はたして、玄関に通じるほうのドアが空いて、寝ぼけ眼の藤乃ちゃんが姿を見せた。


「おはよ、藤乃ちゃん」


「……はよ」


 篠森が、つぶらな瞳をまんまるに見開いた。驚いているが無理もない。一般的な「叔母」という単語が持つイメージよりも、藤乃ちゃんはずっと若い。

 なにせまだ二十四歳だ。


「その子が篠森ちゃん?」


「うん」


「へえ。可愛いじゃん」


 くあ、と藤乃ちゃんが欠伸をした。

 寝起きの彼女はいつもこうだ。肩紐がずれ落ちたゆるいキャミに、柔らかそうな太もも全開のショートパンツ。つるりとくびれたお腹とおへそは丸出しで、インナーカラー入りのショートカットはあっちこっちに跳ねている。

「あられもない」という形容詞が相応しいのに、妙にそれが絵になっているから不思議だ。

 手の甲で目を擦りながら、藤乃ちゃんが言った。


「なんかお腹空いたな。Uber頼もうよ」


「それなんだけど。篠森がお昼作ってくれるって。藤乃ちゃんも食べる? てか篠森、三人分でも平気?」


「あ、はい。それは全然」


「だって。西友に買い出しいくから、財布借りていい?」


「え、まじ。いいよいいよ。好きなもの買っておいでよ。あたしポテチ食べたい」


「お昼の買い出しだってば」


「筒のやつ。サワーオニオン味」


「それはポテチじゃなくない?」


 諸説ありそうだけど。

 ポールから買い物用のエコバッグを掴んで、篠森の手を引く。まだぽやぽやしている藤乃ちゃんに向かって、玄関から声を張った。


「じゃ、出掛けてくるから。Uberしたらダメだよ」


「うぃ、いってらっしゃい」


 廊下の先で、藤乃ちゃんが片手を上げた。

 篠森を連れてマンションを出る。エレベーターを待つ間に、篠森が「綺麗な人でしたね」と言った。


「夜勤のお仕事なんですか?」


「バーテンダー。いや、女性だからバーメイドだっけ」


 二駅先にある、深夜営業のバーで働いているらしい。


「なんかごめん、変なとこ見せちゃって。一応、伝えてはおいたんだけど」


「いえ、別に気にしてませんから」


「ちゃんとしてれば格好いいんだけどね、藤乃ちゃん」


 きっちりメイクして出勤するときは、見惚れてしまいそうに凛としている。普段は大体あんな感じだけど。

 マンションのエントランスを出ると、灼熱の太陽が目を焼いた。

 アスファルトの車道に陽炎が立ち昇る。

 どこか遠くで鳴く蝉が、全力で夏を主張していた。

 西友までは徒歩で十分とかからない。篠森持参の日傘に入って、夏を歩く。


「──さむっ」


 スーパーの自動ドアを通り抜けると、効きすぎなくらいの冷房が肌を刺した。

 入り口でカゴを掴んで腕に掛ける。


「さて、篠森シェフ。今日はどうしますか」


「そうですね……」


 並んで店内を練り歩く。

 篠森が足を止めたのは、精肉コーナーの前だった。


「豚肉とか、どうですか。ビタミンB群が豊富で、夏バテ予防にもなります」


「いいね。どうやって食べよっか」


「暑い日はさっぱりといきたいですよね。野菜も食べられる感じで──あっ、ご飯炊いてます?」


「ないと思う」


「じゃあ素麺にしましょう。めんつゆも買わないと」


 嬉々としてスーパーを巡り歩く篠森は、水を得た魚みたいだ。本当に料理が好きなんだな、と思う。

 楽しそうな篠森を見ていると、私も楽しい。

 有名な本格派素麺を一袋買い、調味料のコーナーへ移動する。

 めんつゆにも色々な種類があって、篠森は「どれがいいかな」という風にひとつずつ手に取って見比べていた。

 なんだろう。こうして二人で買い物をしていると、なんというか。


「ちょっと不思議な気分だな。後輩と二人でスーパーにいるの」


 服を買いに行ったり、ミスドでドーナツを食べたりは、椿ともしたことがある。

 でも、友達とスーパーに来たのは初めてだ。


「そうですか?」


「うん。なんかアレだね。篠森と同棲してるみたいだ」


 ぼてっと鈍い音がした。

 見れば、「つゆの素ゴールド」のハーフボトルが床に落ちている。


「す、すみません」


 篠森が、しゃがんでボトルを拾う。

 身を屈めた拍子に、濡れ羽色をした髪が一房、するりと滑り落ちた。

 垣間見えた耳が赤い。

 それが見えてしまったせいで、私まで照れてしいそうになる。

 どうにか平静を装って、私は言った。


「……それにしよっか。めんつゆ」


「……はい」

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