②
「な、何もない……」
冷蔵庫を開けた篠森が、絶望のうめきを上げた。
「ごめん、なんか私も忘れてた。あ、でも見て篠森。バターがあるよ」
「揚げバターでも作りますか」
「なにそれ」
「バターを油で揚げた料理です」
「馬鹿の食べ物じゃん……」
ネットで検索したら本当に出てきた。油で油を揚げるのか……。この世界はまだまだ未知で溢れている。
「買い出し──あ、でもお金が……」
「いやいや、篠森に出させるわけないでしょ」
「え、でもわたしが言い出したので」
「元々、出前でも取ろうかって藤乃ちゃんと話してたんだ。そろそろ起きてくると思うから、相談してみよう」
「藤乃ちゃんって、先輩の叔母さんですよね。どんな感じの──」
そのとき、「ばたん」と扉が開く音がした。藤乃ちゃんの部屋のほうだ。
どうやら起きてきたらしい。
はたして、玄関に通じるほうのドアが空いて、寝ぼけ眼の藤乃ちゃんが姿を見せた。
「おはよ、藤乃ちゃん」
「……はよ」
篠森が、つぶらな瞳をまんまるに見開いた。驚いているが無理もない。一般的な「叔母」という単語が持つイメージよりも、藤乃ちゃんはずっと若い。
なにせまだ二十四歳だ。
「その子が篠森ちゃん?」
「うん」
「へえ。可愛いじゃん」
くあ、と藤乃ちゃんが欠伸をした。
寝起きの彼女はいつもこうだ。肩紐がずれ落ちたゆるいキャミに、柔らかそうな太もも全開のショートパンツ。つるりとくびれたお腹とおへそは丸出しで、インナーカラー入りのショートカットはあっちこっちに跳ねている。
「あられもない」という形容詞が相応しいのに、妙にそれが絵になっているから不思議だ。
手の甲で目を擦りながら、藤乃ちゃんが言った。
「なんかお腹空いたな。Uber頼もうよ」
「それなんだけど。篠森がお昼作ってくれるって。藤乃ちゃんも食べる? てか篠森、三人分でも平気?」
「あ、はい。それは全然」
「だって。西友に買い出しいくから、財布借りていい?」
「え、まじ。いいよいいよ。好きなもの買っておいでよ。あたしポテチ食べたい」
「お昼の買い出しだってば」
「筒のやつ。サワーオニオン味」
「それはポテチじゃなくない?」
諸説ありそうだけど。
ポールから買い物用のエコバッグを掴んで、篠森の手を引く。まだぽやぽやしている藤乃ちゃんに向かって、玄関から声を張った。
「じゃ、出掛けてくるから。Uberしたらダメだよ」
「うぃ、いってらっしゃい」
廊下の先で、藤乃ちゃんが片手を上げた。
篠森を連れてマンションを出る。エレベーターを待つ間に、篠森が「綺麗な人でしたね」と言った。
「夜勤のお仕事なんですか?」
「バーテンダー。いや、女性だからバーメイドだっけ」
二駅先にある、深夜営業のバーで働いているらしい。
「なんかごめん、変なとこ見せちゃって。一応、伝えてはおいたんだけど」
「いえ、別に気にしてませんから」
「ちゃんとしてれば格好いいんだけどね、藤乃ちゃん」
きっちりメイクして出勤するときは、見惚れてしまいそうに凛としている。普段は大体あんな感じだけど。
マンションのエントランスを出ると、灼熱の太陽が目を焼いた。
アスファルトの車道に陽炎が立ち昇る。
どこか遠くで鳴く蝉が、全力で夏を主張していた。
西友までは徒歩で十分とかからない。篠森持参の日傘に入って、夏を歩く。
「──さむっ」
スーパーの自動ドアを通り抜けると、効きすぎなくらいの冷房が肌を刺した。
入り口でカゴを掴んで腕に掛ける。
「さて、篠森シェフ。今日はどうしますか」
「そうですね……」
並んで店内を練り歩く。
篠森が足を止めたのは、精肉コーナーの前だった。
「豚肉とか、どうですか。ビタミンB群が豊富で、夏バテ予防にもなります」
「いいね。どうやって食べよっか」
「暑い日はさっぱりといきたいですよね。野菜も食べられる感じで──あっ、ご飯炊いてます?」
「ないと思う」
「じゃあ素麺にしましょう。めんつゆも買わないと」
嬉々としてスーパーを巡り歩く篠森は、水を得た魚みたいだ。本当に料理が好きなんだな、と思う。
楽しそうな篠森を見ていると、私も楽しい。
有名な本格派素麺を一袋買い、調味料のコーナーへ移動する。
めんつゆにも色々な種類があって、篠森は「どれがいいかな」という風にひとつずつ手に取って見比べていた。
なんだろう。こうして二人で買い物をしていると、なんというか。
「ちょっと不思議な気分だな。後輩と二人でスーパーにいるの」
服を買いに行ったり、ミスドでドーナツを食べたりは、椿ともしたことがある。
でも、友達とスーパーに来たのは初めてだ。
「そうですか?」
「うん。なんかアレだね。篠森と同棲してるみたいだ」
ぼてっと鈍い音がした。
見れば、「つゆの素ゴールド」のハーフボトルが床に落ちている。
「す、すみません」
篠森が、しゃがんでボトルを拾う。
身を屈めた拍子に、濡れ羽色をした髪が一房、するりと滑り落ちた。
垣間見えた耳が赤い。
それが見えてしまったせいで、私まで照れてしいそうになる。
どうにか平静を装って、私は言った。
「……それにしよっか。めんつゆ」
「……はい」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます