納涼シュエファービン
①
「じゃあ次。今回の期末試験、赤点取りたくない奴はちゃんと聞いとけよ──……」
三限目の古文の授業。
カリカリと、ノートに鉛筆を走らせる音がする。
期末試験は来週だ。それが終われば、夏休みがやってくる。
私はぼんやり窓の外を見ながら、この夏の過ごし方について考えていた。
まずはなんといっても食生活だ。篠森のご飯を食べれない日が続く以上、いよいよ自分でなんとかしなくては。
正直、自炊には不安しかない。かといって、今さら以前のようなオンリー冷凍食品生活に戻るというのも……。
そして、何より──あのイベントについて。
「蘇芳!」
名前を呼ばれて、意識が現実世界へ戻ってくる。
「次のページから、現代語に訳してみろ」
「……はい」
立ち上がり、該当する箇所を確かめた。
枕草子の「あてなるもの」か。
さっと目を通して、訳しながら読んでいく。
「上品なものといえば、薄紫と白の着物の重ね着。鳥の卵。かき氷に甘い蔓のシロップを入れて、新しい金属の器に入れたもの。水晶の数珠。藤の花。雪が降りかかった梅の花。とても可愛い子供が、苺を食べている様子」
「……よろしい。優等生とはいえ、あまりよそ見するなよ」
若干あてが外れたような顔をした佐藤先生が、私に着席を促した。
座りながら、たった今読み上げた文章に思いを馳せる。
削り
千年以上昔の平安時代から、かき氷の文化はあったらしい。
いいな。こういう暑い日には最高だ。「あまづら」は、どんな味か想像できないけれど(メイプルシロップと同じ、樹液を煮詰めたものだそうだ。本当に甘いのかな?)。
水晶の数珠。藤の花。梅の花。
そして、可愛い子供が苺を食べる姿。
可愛い子供。
なんとなく、篠森が苺を食べている姿を想像する。
……上品、か? まあ上品か。
とりあえず、可愛いだろうとは思う。
再び窓の外を見上げる。抜けるような夏空に、白い飛行機雲が一本走っている。
†
「ねえ桜。アンタの副会長権限で、あと二度だけ空調下げられない?」
下敷きで顔を仰ぎながら、椿が渋い顔をした。
数年前から、海浜高校はすべての教室に空調設備を導入している。
とはいえ節約のため、夏場でも弱冷房までと定められているから、うっすら滲む汗はどうにもならない。
「無理。ていうか椿、冷房苦手って言ってなかった?」
「そうだけど、暑いのも駄目なの。溶ける」
そう言いながら、椿は桜色のサマーガーデンを脱ごうとしない。
曰く、日焼け対策と下着の透け防止を兼ねているそうだ。
「うぁあっつううー……」
もはや何を言ってるのかわからない。
そういえば、去年も彼女はこんな感じだった。
「夏休みまでの辛抱だよ」
「それはそれで、弓道部の合宿があんのよ。秋大会があるから」
そういえばそうだった。
運動系部活動の東京都秋季大会。いわゆる「冬の選抜」に向けた予選大会は、十月の上旬に開催される。
椿が所属する弓道部は、悲願の予選突破を目標に掲げているらしい。
チャコールグレイの毛先を指先で弄りながら、椿が言った。
「もし大会でレギュラー取れたら、応援来なさいよ」
「行くよ、当然」
確か、秋大会の弓道団体戦メンバーは、三名までだったか。
念入りな日焼け対策の成果か、そもそも室内競技であるからか、彼女はほとんど日に焼けていない。
それでも私は、椿が誰より真剣に弓道へ取り組んでいることを知っている。
だから、いい結果が出ることを願う。
「あとお祖母ちゃん家ね」
椿の祖母は海辺の街で民泊を営んでおり、そこに泊めてもらうのが、夏の一大イベントになっていた。
「ただ、やっぱり菫はバイトで来れないみたい。今年は桜と二人になりそうね」
「……それなんだけど」
伺うように椿の目を見て、言う。
「今年は、篠森も誘いたいんだ。駄目かな?」
私の友達が、大きく二度、瞬きをした。
†
以前、篠森はこう言っていた。
『父が再婚し、養母と折り合いが悪い』『そのせいで、家に居場所がない』
七月に入り、あれから二ヶ月ほど経った。
けれど今のところ、篠森から家族の話を聞いたことはない。
おそらく、状況は何も変わっていないのだろう。
もうすぐ夏休みがやってくる。多くの生徒が待ち望んでいる、長期休暇だ。
けれどもしかしたら、篠森にとっては……。
よその家庭の事情に深く干渉できるほど、私は大人じゃない。
もちろん、これがもっとあからさまな内容であれば、しかるべき相手に相談したと思う。
けれど篠森が抱えている問題は、もっと緩やかで、穏やかで、けれどその分、対処が難しいものだ。
気づまりな空気や、傍目には些細な無理解。大人に相談すれば、「それくらい我慢しなさい」と言われてしまいかねない程度の不調和。
大きな不幸ではないけれど、劇的な解決も望めないもの。
私にできることがあるとすれば、精々、避難所を作ってあげることくらいだ。
例えば、放課後の家庭科室とか。
──あるいは、友達と行く海辺のような。
「ふーん……?」
私の提案を聞いた椿が、すっと目を細める。
「ま、別にいいけど。来るかしら、あの子」
「それは、うぅん……五分五分?」
「一分もないと思うわよ、あたしは」
椿が、探るような上目遣いで私を見た。
「本気で気に入ってるじゃない。篠森さんのこと」
「なんとなく、見てると放っておけなくて」
「……懐いてくる後輩が可愛いのはわかるけど」
頬杖をついた椿が、つんと拗ねた子供みたいに唇を尖らせる。
もう一方の指先で、額を軽く弾かれた。
「あんまりあたしのこと放っておいたら、拗ねるからね?」
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