桜が充分に離れたことを確認してから、椿は自身の後輩に向き直った。

 篠森楓。

 自分のより背の低い、華奢な身体つき。シュシュで括られた黒髪が、浅葱のエプロンと白皙によく映えている。

 澄んだ硝子のような美しさだ。こういう儚さは自分とは縁遠いので、少しだけ嫉妬を覚える。


「あの、なにか」


 居心地悪そうに、楓が身じろぎをした。


「別に。篠森さん、美人だから」


「……そうですか」


 ふいと顔を背ける。

 どうにも壁を感じる仕草だ。家庭科室に入ってからずっと、彼女はこちらを警戒している。

 おそらく、根底にあるのは怯えだ。縄張りに入ってきた相手への敵対心と言ってもいい。

 自分のテリトリーが広くて、容易に侵入を許さないタイプなのだろう。

 もしかしたら、桜はそういうところに惹かれたのかもしれない。この少女がまとう、どこか寂しげな空気に。

 さて、どうするか。

 迷う。今から言うことは、彼女へのアドバイスになるかもしれない。

 敵に塩を送る、という慣用句が脳裏を過ぎる。

 敵? 彼女は敵なのだろうか。

 その可能性はある。だって篠森楓は、蘇芳桜の放課後を独占している。

 椿は、それが少しだけ気に食わない。

 だから今日、ここへやってきたのだ。親友の逢引相手を見定めるために。

 ひととき迷って、椿は口を開いた。


「さっきの話だけど」


 楓が顔を上げる。


「桜、親から生活費の仕送り受けてるから。遠慮しないでもらっておきなさいよ」


「わたしも、別に困ってないので」


「そうじゃなくて。負担が片方に寄ってると、どんな関係も長続きしないって話」


 楓の肩がびくりと震えた。反応がわかりやすい。猫みたいだ。


「お金を要求したら、桜が来てくれなくなるかもって思ってるでしょ」


「…………はい」


 見抜かれたら途端に素直になる。こういうところだなあ、と思う。


「あいつは、そこまで薄情じゃないわよ。なにより、食いしん坊だし」


「それは、はい。知ってます」


 桜が教室でサンドイッチしか食べないのは、飽きているのもあるだろうけれど、何より見栄を張っているからだ。

 彼女は少し、人目を気にしすぎるところがある。

 もしかしたら、よくない意味で注目されたことがあるのかもしれない。出会って間もない頃は、椿に対してさえ、自分をよく見せようと意識していたフシがある。

 でも、今は。


「あいつ、二人でサイゼ行くと、一人でハンバーグとドリア両方頼むのよ。信じられないことに」


「すごく想像できます」


「でしょ」


 ほんのわずか、楓の唇が綻んだ。

 困った。可愛い。

 それも多分、桜が好きな種類の可愛さだ。


「やっぱり、余計なこと言ったかも」


「え?」


「なんでもない」


 椿の顔をしげしげと見つめて、楓が呟くように言った。


「等々力先輩って、いいひとなんですね」


「でしょ」


「それに、先輩のこと──」


 言いかけたまま、楓が口をつぐむ。

 見れば、電話を終えた桜が戻ってくるところだった。

 今度自分も、料理の勉強をしてみようか。そんなことを、ふと考える。


  †


 通話を終えて戻ってくると、少し篠森の表情が和らいでいた。

 椿と何を話していたのだろう。

 気にはなるが、篠森は調理を再開してしまう。

 ガラス蓋を開けて、カレー粉と白い粉を鍋に投入する。


「え、今の白いの何?」


「塩です。ルウと違って、カレー粉には塩分が入ってないので」


 そうなのか。

 篠森が木ベラを回すと、お馴染みのスパイシーな香りが鼻をくすぐった。カレーの匂いだ。刺激的なのに、どこか懐かしい。

 スプーンでルウをひと口味見して、篠森が宣言した。


「完成です」



 深皿を三枚取り出して、ご飯をよそう。たっぷりルウをかけると、胸が期待で満ちていく。


「「「いただきます」」」


 三人で手を合わせて、スプーンを掴む。

 舌を刺すピリッとしたスパイスの刺激と、濃厚なトマトのコク。どんどんご飯が進んでしまう。

 大きめにカットした野菜も嬉しい。人参は優しい甘さで、じゃが芋はほっくほくだ。変わった具材はないけれど、食べていてホッとする。

 そして、ごろっと転がる鳥もも肉。奥歯で噛み締めるとホロリと崩れて、肉の旨味が口いっぱいに広がっていく。


「んんっ〜〜……!」


 美味しい。

 ただでさえ美味しいカレーなのに、友達と学校で作ったと思うとひとしおだ。

 舌もお腹も、心までも満たされていく。

 ひと口食べて、椿も目を輝かせた。


「うっま。篠森さん、本当に料理上手ね」


「……このくらい、普通です」


 篠森の頬がうっすら赤くなる。

 気のせいだろうか。なんかちょっと、仲良くなっているような。

 いやいいんだけど。

 大変、喜ばしいことなんだけど。

 なんかちょっとこう、なんだろう。悔しいような、寂しいような気がする。


 例によって、食べるときはあっという間だ。作るのはあんなに大変なのに。


「篠森さん。はい、これ」


 片付けを終えた後、椿が五百円玉を一枚取り出して、篠森に差し出した。

 煙草を嗅がされた猫みたいに、篠森が飛び退る。けれど椿は、じりりと距離を詰めて逃がさない。


「材料費とかよくわかんないから、少なかったら言って」


「う、受け取れません」


「ダメ。受け取って。これは正当な対価だから、貰ってくれないとあたしが落ち着かない」


「う……」


 篠森は、おそるおそる五百円玉を摘みあげた。

 手のひらの上の小さな銀色を見つめて、おずおずと握り込む。

 私も、身を乗り出すように言った。


「篠森。私も明日、まとめて夕食代持ってくるからさ」


「先輩」


「嫌だって言っても、受け取ってもらうからね」


 口をぱくぱく開閉してから、篠森は観念したように肩を落とし、「……わかりました」と呟いた。

 ひとつ、胸のつかえが取れた気分だ。金額は、また相談して決めたらいい。

 三人で後片付けをして、家庭科室を出る。

 学年別の下足箱の前で、篠森が私の袖を引いた。


「なに?」


 篠森は俯いたまま、顔を上げない。

 目元を前髪で隠したまま、彼女は小さく呟いた。


「先輩。同好会、辞めないですよね」


「? もちろん」


 変なことを聞く。

 篠森のご飯がなかったら、私は何を食べればいいんだ。

 私の返事に、篠森はほっと息を吐いた。


「じゃあ、また、わたしとミスドに行ってくれますか」


 またしても、ピントがずれたことを言う。

 視界の端で、椿が下足箱の影に消えた。何も聞いてませんよ、のアピールだ。

 私の友人は、こういうとき気が回る。

 今の問いかけから、篠森が材料費を受け取らなかった理由を考えてみる。

 ぱっと花火みたいに浮かんだ想像は、自惚れと言われてしまいそうに甘かった。

 私に、同好会を辞めて欲しくないから。

「お願い」を聞いてもらって、一緒にミスドやモールへ出かけたいから。

 普通に誘ったら、断られるかもしれないと思ったから。

 笑ってしまいそうだ。この推理が本当だとすれば、不器用にもほどがある。

 いや、違うか。

 不器用というか、臆病なのだ。野良猫みたいに怖がりで、だからずっと、私が断れない理由を必要としていた。

 袖を握る指に力が籠る。

 愛しさに似た感情を胸の中で転がしながら、もったいぶって答えた。


「行かないよ」


「……えっ」


 篠森の表情が固まって、黒目がちな瞳から色が褪せる。

 後輩の頭を軽く撫でて、私は付け足した。


「今日はお腹いっぱいだから、明日にしよう」

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