③
桜が充分に離れたことを確認してから、椿は自身の後輩に向き直った。
篠森楓。
自分のより背の低い、華奢な身体つき。シュシュで括られた黒髪が、浅葱のエプロンと白皙によく映えている。
澄んだ硝子のような美しさだ。こういう儚さは自分とは縁遠いので、少しだけ嫉妬を覚える。
「あの、なにか」
居心地悪そうに、楓が身じろぎをした。
「別に。篠森さん、美人だから」
「……そうですか」
ふいと顔を背ける。
どうにも壁を感じる仕草だ。家庭科室に入ってからずっと、彼女はこちらを警戒している。
おそらく、根底にあるのは怯えだ。縄張りに入ってきた相手への敵対心と言ってもいい。
自分のテリトリーが広くて、容易に侵入を許さないタイプなのだろう。
もしかしたら、桜はそういうところに惹かれたのかもしれない。この少女がまとう、どこか寂しげな空気に。
さて、どうするか。
迷う。今から言うことは、彼女へのアドバイスになるかもしれない。
敵に塩を送る、という慣用句が脳裏を過ぎる。
敵? 彼女は敵なのだろうか。
その可能性はある。だって篠森楓は、蘇芳桜の放課後を独占している。
椿は、それが少しだけ気に食わない。
だから今日、ここへやってきたのだ。親友の逢引相手を見定めるために。
ひととき迷って、椿は口を開いた。
「さっきの話だけど」
楓が顔を上げる。
「桜、親から生活費の仕送り受けてるから。遠慮しないでもらっておきなさいよ」
「わたしも、別に困ってないので」
「そうじゃなくて。負担が片方に寄ってると、どんな関係も長続きしないって話」
楓の肩がびくりと震えた。反応がわかりやすい。猫みたいだ。
「お金を要求したら、桜が来てくれなくなるかもって思ってるでしょ」
「…………はい」
見抜かれたら途端に素直になる。こういうところだなあ、と思う。
「あいつは、そこまで薄情じゃないわよ。なにより、食いしん坊だし」
「それは、はい。知ってます」
桜が教室でサンドイッチしか食べないのは、飽きているのもあるだろうけれど、何より見栄を張っているからだ。
彼女は少し、人目を気にしすぎるところがある。
もしかしたら、よくない意味で注目されたことがあるのかもしれない。出会って間もない頃は、椿に対してさえ、自分をよく見せようと意識していたフシがある。
でも、今は。
「あいつ、二人でサイゼ行くと、一人でハンバーグとドリア両方頼むのよ。信じられないことに」
「すごく想像できます」
「でしょ」
ほんのわずか、楓の唇が綻んだ。
困った。可愛い。
それも多分、桜が好きな種類の可愛さだ。
「やっぱり、余計なこと言ったかも」
「え?」
「なんでもない」
椿の顔をしげしげと見つめて、楓が呟くように言った。
「等々力先輩って、いいひとなんですね」
「でしょ」
「それに、先輩のこと──」
言いかけたまま、楓が口をつぐむ。
見れば、電話を終えた桜が戻ってくるところだった。
今度自分も、料理の勉強をしてみようか。そんなことを、ふと考える。
†
通話を終えて戻ってくると、少し篠森の表情が和らいでいた。
椿と何を話していたのだろう。
気にはなるが、篠森は調理を再開してしまう。
ガラス蓋を開けて、カレー粉と白い粉を鍋に投入する。
「え、今の白いの何?」
「塩です。ルウと違って、カレー粉には塩分が入ってないので」
そうなのか。
篠森が木ベラを回すと、お馴染みのスパイシーな香りが鼻をくすぐった。カレーの匂いだ。刺激的なのに、どこか懐かしい。
スプーンでルウをひと口味見して、篠森が宣言した。
「完成です」
深皿を三枚取り出して、ご飯をよそう。たっぷりルウをかけると、胸が期待で満ちていく。
「「「いただきます」」」
三人で手を合わせて、スプーンを掴む。
舌を刺すピリッとしたスパイスの刺激と、濃厚なトマトのコク。どんどんご飯が進んでしまう。
大きめにカットした野菜も嬉しい。人参は優しい甘さで、じゃが芋はほっくほくだ。変わった具材はないけれど、食べていてホッとする。
そして、ごろっと転がる鳥もも肉。奥歯で噛み締めるとホロリと崩れて、肉の旨味が口いっぱいに広がっていく。
「んんっ〜〜……!」
美味しい。
ただでさえ美味しいカレーなのに、友達と学校で作ったと思うとひとしおだ。
舌もお腹も、心までも満たされていく。
ひと口食べて、椿も目を輝かせた。
「うっま。篠森さん、本当に料理上手ね」
「……このくらい、普通です」
篠森の頬がうっすら赤くなる。
気のせいだろうか。なんかちょっと、仲良くなっているような。
いやいいんだけど。
大変、喜ばしいことなんだけど。
なんかちょっとこう、なんだろう。悔しいような、寂しいような気がする。
例によって、食べるときはあっという間だ。作るのはあんなに大変なのに。
「篠森さん。はい、これ」
片付けを終えた後、椿が五百円玉を一枚取り出して、篠森に差し出した。
煙草を嗅がされた猫みたいに、篠森が飛び退る。けれど椿は、じりりと距離を詰めて逃がさない。
「材料費とかよくわかんないから、少なかったら言って」
「う、受け取れません」
「ダメ。受け取って。これは正当な対価だから、貰ってくれないとあたしが落ち着かない」
「う……」
篠森は、おそるおそる五百円玉を摘みあげた。
手のひらの上の小さな銀色を見つめて、おずおずと握り込む。
私も、身を乗り出すように言った。
「篠森。私も明日、まとめて夕食代持ってくるからさ」
「先輩」
「嫌だって言っても、受け取ってもらうからね」
口をぱくぱく開閉してから、篠森は観念したように肩を落とし、「……わかりました」と呟いた。
ひとつ、胸のつかえが取れた気分だ。金額は、また相談して決めたらいい。
三人で後片付けをして、家庭科室を出る。
学年別の下足箱の前で、篠森が私の袖を引いた。
「なに?」
篠森は俯いたまま、顔を上げない。
目元を前髪で隠したまま、彼女は小さく呟いた。
「先輩。同好会、辞めないですよね」
「? もちろん」
変なことを聞く。
篠森のご飯がなかったら、私は何を食べればいいんだ。
私の返事に、篠森はほっと息を吐いた。
「じゃあ、また、わたしとミスドに行ってくれますか」
またしても、ピントがずれたことを言う。
視界の端で、椿が下足箱の影に消えた。何も聞いてませんよ、のアピールだ。
私の友人は、こういうとき気が回る。
今の問いかけから、篠森が材料費を受け取らなかった理由を考えてみる。
ぱっと花火みたいに浮かんだ想像は、自惚れと言われてしまいそうに甘かった。
私に、同好会を辞めて欲しくないから。
「お願い」を聞いてもらって、一緒にミスドやモールへ出かけたいから。
普通に誘ったら、断られるかもしれないと思ったから。
笑ってしまいそうだ。この推理が本当だとすれば、不器用にもほどがある。
いや、違うか。
不器用というか、臆病なのだ。野良猫みたいに怖がりで、だからずっと、私が断れない理由を必要としていた。
袖を握る指に力が籠る。
愛しさに似た感情を胸の中で転がしながら、もったいぶって答えた。
「行かないよ」
「……えっ」
篠森の表情が固まって、黒目がちな瞳から色が褪せる。
後輩の頭を軽く撫でて、私は付け足した。
「今日はお腹いっぱいだから、明日にしよう」
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