長雨ポテトチップグラタン

 篠森とご飯を食べるようになってから、私の食生活はだいぶ変わった。

 朝はシリアル、昼は購買のサンドイッチなのは変わらないけれど、平日の夕食についてはかなり充実している。

 なにしろ数週間前までは、冷凍食品とスーパーのお弁当を行ったり来たりしていたのだ。

 冷食もお弁当も美味しいけれど、ラインナップに対する「飽き」だけはどうしようもない。


 こういう食生活を送るようになったのは、大体二年半くらい前からだ。

 その頃から私は、訳あって母の妹──叔母である藤乃ちゃんと二人で暮らしている。

 わりと年が近いせいか、私と藤乃ちゃんの仲は良好だ。

 ただ困ったことに、彼女も私もさっぱり料理ができない。しかも藤乃ちゃんは夜勤の仕事に就いているので、食事の時間もバラバラだ。

 ときどきリビングでベースブレッドを齧っている姿を見かけるけれど、あれは「食事」というより「補給」である。

 ある意味合理的だけど、ああいう食生活はちょっと、真似ができない。


 土曜日の午前。

 その日は朝から大粒の雨がばしゃばしゃ降り続けていて、まったく止む気配がなかった。

 スマホアプリの天気予報では午後から晴れるそうだけど、どこまで信頼していいものか。

 好きか嫌いかで言えば、雨は嫌いだ。湿気で髪が乱れるし、外を歩けば服も靴も汚れてしまう。

 こんな日は家にいるのが一番。

 私はリビングのソファに寝そべって、だらだらと海外ドラマの続きを見ていた。


「お昼かー……」


 悲しいことに、動いてなくてもお腹は空く。

 統計上。藤乃ちゃんは多分三時くらいまで起きてこないだろう。

 さて、今日の昼食をどうするか。朝は八枚切りの食パン(最後の一枚)にジャムを塗って食べただけなので、お腹は充分すぎるほどに空いている。

 動画の再生を止めて立ち上がり、私は冷凍室を開けた。

 残念。特にめぼしい物はない。

 そういえば、今日起きたら買い出しにいくと藤乃ちゃんが言っていたっけ。

 続いて冷蔵庫の中身を改める。


「わー……」


 なんもない。

 シリアルにかける用の牛乳と、パンに載せるシュレッドチーズ。冷奴用の豆腐。あとはジャムとマヨネーズ、醤油、めんつゆくらいだ。

 かろうじて冷奴なら作れなくもないが、あまりにも侘しい。


「カ、カップ麺……」


 一縷の望みを託して戸棚を開けてみるが、同じく空っぽだった。希望も救いもない。

 ついでに言うと、ご飯も炊いていなかった。あるのは藤乃ちゃんのお菓子くらいで、これで空腹を誤魔化すのは最後の手段にしたい。

 いっそ、宅配ピザかUber……駄目だ。藤乃ちゃんと食べたことはあるけど、自分で注文したことはない。ああいうのはきっと、アプリにクレジットカードを登録する必要があるんじゃないだろうか。

 私はまだ、自分のカードを持っていない。

 買い出し──憂鬱な雨音が耳を打つ。

 ぴろん。

 ポケットの中でスマホが身震いした。画面を確認すると、篠森からメッセージが届いていた。


『今、ちょっと電話できますか。数学の課題で、わからないところがあって』


 つい、唇がほころんでしまった。

 家に来たばかりの猫が、ようやく自分の手から餌を食べてくれたような感覚──といって伝わるだろうか。

 最近の篠森にはそういうところがある。こちらが明後日の方向を見ているとき、さりげなく身を寄せてくるような、そういう距離感だ。

 勉強程度、いくらでも教えてあげようという気になる。自分で言うのもなんだけど、蘇芳桜は優等生だ。少なくとも、定期考査で学年三位以下を取ったことがない程度には。

 部屋からイヤホンを持ってきて、オッケー、と看板を掲げた熊のスタンプを返す。

 すぐに着信音が鳴った。

 受信ボタンを押と、硬い硝子を指で弾くような声がする。


『すみません、お休みの日に』


「いいよ、暇だったし」


『それで、課題なんですけど──見せたほうが早いですね。動画に切り替えます』


 通話アプリに、篠森の顔が映る。

 おお、と思った。私服だ。当たり前だけど。

 シンプルな薄紫のパーカーに、マイク付きイヤホン。湿度で跳ねた髪。背景には、彼女の自室が写り込んでいる。

 制服が私服に変わっただけなのに、どうしてこんなに新鮮なんだろう。

 それは篠森も同じようで、やたらと目をぱちぱちさせている。


『へ、部屋着の先輩や……』


 そりゃそうだよ。


『──じゃなくて。先輩。こっちの映像、ちゃんと見えてますか?』


「うん、大丈夫」


『はい。それで、この問題なんですけど』


 アウトカメラに切り替えたのか、画面に数学の課題が映った。複数の円を組み合わせた図形問題だ。ざっと問題文に目を通して、過去の記憶を手繰りよせる。

 よかった。これなら覚えている。先輩として恥をかくことはなさそうだ。


「ええと、これはね──……」


『あ、そういうことか。つまり──……』


 かいつまんで問題のポイントを伝えると、篠森はすぐに理解を示した。打てば響く相手だと、教えるほうも楽しい。

 ほどなく篠森の課題は終わる。けれど私たちは、そのまま通話を続けた。

 多分、お互い、退屈だったんだと思う。


「篠森って、休みの日なにしてる?」


『図書館にいることが多いですね。雨の日は仕方ないので、部屋に』


「そういえばよく文庫読んでるよね。どんなジャンル読むの?」


『まあ、恋愛小説とか』


「うわ意外。オススメ教えてよ。今度、私も読むから」


『え。いや、それはちょっと』


 篠森が珍しく言い淀む。

 そういう態度を取られると、かえって気になってしまうのが人情だ。


「えー、なんで。いいじゃん」


『少し特殊というか、癖がある本が多くて』


「特殊? あ、わかった。ボーイズラブでしょ。私も読んだことあるよ」


 以前、本屋大賞を取った作品にハマって、著者の過去作を読み漁っていた時期がある。

 そのなかにBL小説があって、電子書籍で読んだ。刺激的な場面もありつつ、繊細な心理描写に思いがけなく引き込まれてしまった。


「私、そっちも全然いけるよ」


『……そうじゃないんですけど、でも、当たらずも遠からずというか……』


「え? じゃあ、おっさんずラブ系?」


『違います! もう、とにかく秘密です。先輩には絶対教えません』


 なんてつれない後輩だ。秘密主義は友達が増えないぞ。あ、だからぼっちなのか。

 押しても引いても答えてくれそうにないので、やむなく引き下がる。

 ふと壁の時計を見ると、いつの間にか十二時を過ぎていた。


「もうお昼だね」


『先輩、なに食べるんですか?』


「それが家に何もなくてさ。でも雨降ってるから、お菓子でも食べて我慢しようかなって」


『え、そんなの駄目ですよ。なにか食べてください。身体によくないです』


「だってホントに何もないんだよ」


 私は立ち上がって、冷蔵庫を開けた。スカスカの中身をインカメラで写す。


『うわぁ……』


「ね?」


『あるのは牛乳と……それ、溶けるチーズですか? あとは調味料と──奥のは絹豆腐ですよね』


「うん。あとは藤乃ちゃんが買ってきたお菓子かな」


『お菓子』


 絶句、という感じで篠森が押し黙る。

 最近家族と上手くいっていないようだが、彼女の家は定食屋だ。少なくとも、冷蔵庫の中身がら空っぽなんて経験はないのだろう。

 画面の向こうで、顎に曲げた人差し指を当てて黙り込んだ篠森が、ふと思い立ったように言った。


『先輩。お菓子の中に、ポテトチップスはありますか?』

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