モーニングコーヒーは微糖

@anohinowasuremono

モーニングコーヒーは微糖

   

 冬のピークを過ぎたとはいえ、まだ春と呼ぶには冷たい風が吹いていた。

 日下部昇は愛車のSR400で国道をひた走っていたが、頭の中の昂揚に反して身体は早くも冷え切っていた。

 前方の道路沿いに小さな商店の駐車場が見えた。店頭には飲料の自販機が並んでいる。彼は減速して、愛車を商店の軒先へと向けた。

 サイドスタンドを蹴り出し、エンジンを切った。店内に明かりはなかった。古びた小さな木の板に「本日定休日」とあったが、自販機は稼働している。

 年代物の躯体にはあちこちに錆が浮いていた。それでも収まっている飲料はごく一般的なラインナップだ。あいにく昇の好みのメーカーではなかったが、今は温かい飲み物が欲しかった。ジャケットのポケットに右手を突っ込み、小銭を掴み出した。百円玉を二枚スロットに押し込んで、ボトルタイプのブラックコーヒーのボタンを押した。

 取り出し口からコーヒー缶を取り、釣り銭を無造作にポケットに戻した。バイクのシートに凭れて、ボトルのキャップを捻った。まばらに通過する車を見るともなしに眺めながらコーヒーを飲んだ。予想通り、好みよりも薄味の液体が喉から胃袋へと降りていく。

(熱いだけでもいいか)

 程なく空になったボトルを、自販機脇の空き缶入れに投げ込んだ。さて出発しようとした時、対向車線から赤い小型車がウインカーを点滅させて同じスペースに滑り込んできた。小粋なイタリア車のアルファロメオ・ジュリエッタだった。この辺りでは滅多に見かけないおしゃれな車だ。

 エンジンを切って運転席から降りてきたのは、車に負けずおしゃれな女性だった。白い細身のパンツにレザーの赤いジャケット。これで大きめのサングラスでも掛けていれば二流の女優といったところだが、彼女はそんな野暮とは無縁だった。しかも、足元はヒールのないスリッポンだ。イタリアンスポーツをしっかり乗りこなしているのだろう。

 彼女は昇には目もくれず自販機に直行した。彼は無遠慮にその後ろ姿を目で追った。硬貨を投入する音が聞こえたが、飲料が落ちる音はしなかった。彼女は自販機を睨み、振り返った。

「あなた、両替できる?」

 顔の前で一万円札をひらひらと振って見せた。

「残念だけど。・・・小銭がないの?」

「丁度だと思って機械に入れたんだけど、百円足りなかったみたい。他に現金はこれしかなかったのよ。カードとスマホはあるんだけど」

「古い機械だから。硬貨と千円札しか使えないんだ」

「少し前に自販機を見かけたら、コーヒーが飲みたくなっちゃって・・・」

「そういう時ってありますよね・・・良かったら、これで」

 昇は百円硬貨を彼女に手渡した。

「ありがとう」

 優雅な仕草で硬貨を投入し、目的のボタンを押した。昇が選んだのと同じ銘柄の〈微糖〉だった。

「助かったわ」

 言いながらスクリューキャップを開けて、一口飲んだ。

 改めて彼女の顔をまじまじと眺めた。おそらく自分よりも一回りほど年上と踏んだが、服装からすると既婚者ではなさそうだ。すらりとした美人で、ベリーショートが似合っている。

「あなたのバイク?」

「ヤマハのSR400。旧車ってやつ」

「わたしも古いバイクは好き」

 思いがけない反応に、話を切り上げるタイミングを失った。

「そうなんですか。でも、そいつがお似合いだと思うけど。アルファのジュリエッタ」

「よく知ってるのね」

「旧車なら二輪も四輪も多少は」

「これから何処へ行くの?」

「東京」

 田舎者そのものだと思ったが、答えてしまったものは仕方がない。

「彼女に会いに?」

「ど、どうして知ってるんですか?」

 まさに、都内の大学へ進学した幼馴染みの女子に会いに行くところだった。

「あら、当たっちゃったの? いいわね、若いって」

 嫌味のない、自然な笑顔だった。

「そんな。俺より少し上なだけでしょ」

「いいのよ、そんな気を遣わなくても。こんな格好してるけど、もう32才。十分おばさんよ」

 彼女には不釣り合いな自虐的な物言いだった。

「そっちも、カレシに会いに行くとこだったんでしょ?」

「そうなの」

 あっさり認めたので拍子抜けした。

「カレシが待ってるんじゃ、早く行かないと・・・」

「そうね。あたしが行くのを待ってる・・・だけど、最後かもしれない」

 冗談には聞こえなかったが、その横顔は哀しげに見えた。

 気まずくなって会話が途切れたのを潮に、互いに目的地に向けて発つことにした。

「彼女さんに真っ直ぐ気持ちをぶつければいいわ。頑張って」

 そう言い残して山梨方面に走り去る赤い車を黙って見送りながら、昇は少しだけ後ろめたさを覚えた。自分の決意を見透かしていたような彼女に、どんな言葉を返せば良かったのだろう。


 そんなわだかまりのせいではなかったろうが、幼馴染みの真琴にはあっさり振られた。体よくあしらわれたと言うべきか。彼女に会う決心に至るまでの時間が一瞬にして消え去った。その惨めさと恥ずかしさを紛らわそうと、同じく今年上京した親友のアパートに押しかけた。 

 それが昨夜のことだ。一晩語り合い、何とか平静を装えるまでになったのは彼の言葉のおかげだった。

「無理もないよ。俺たち三人、小学校から一緒なんだから。焦ることないさ」

 帰り支度を済ませてSR400のエンジンをかけた。本人の胸の内には無頓着に、嫌味のように愛車のエンジン音は軽やかだ。

 下りの道路の流れは順調だが、彼女への未練のように都会の喧噪はなかなか薄れなかった。密集した住宅や華やかな店先は、都会で暮らす真琴を想起させた。反発からか、あれほど煩わしく思っていた地元の退屈な風景が、たった一日で愛おしい場所に思えてきた。

 俄の地元愛に水を差すように、雲行きが怪しくなってきた。勢いに任せてバイクに飛び乗って家を出たので、雨中走行の準備はしていない。できれば何とか降らずに持って欲しい。

 逸る気持ちが速度計に表れていた。自分に言い聞かせる。

(抑えろ。事故ったら元も子もない)

 しかし、願いも虚しくついに最初の雨滴がメーターの上に落ちてきた。さらに雨粒は仲間を増やし、メーターの数字を滲ませた。実のところ、それ以前にメーターは意味を成していなかった。ヘルメットのシールドに襲いかかる雨のせいで、すでに視界は水膜の向こうに滲んでいたからだ。

 雨の冷たさと素肌に張り付いた衣服の不快感に耐えながら30分ほど走り続けたが、その覚悟を砕くかのように雨脚は強くなる一方だった。停車していると僅かに弱まるが、走り出すと同時に走行風で体感温度は一気に下がっていく。

 このままでは危険だ。経験がアラートを発していた。

 皮肉にも、この時点では市街地から離れつつあった。当初はコンビニを目指して道路脇に目を凝らしていたが、こういう時に限って見当たらない。こうなれば、雨の凌げる場所ならどこでもいい。

 焦る気持ちを宥めながら走り続け、ようやく雨宿りできそうな場所を見つけた。休業中の中古車販売店のようだ。看板の電気は点いていないが、事務所に隣接した空き地に朽ちかけた古い車が何台か放置され、手前に錆びだらけのトタン張りの車庫、いやその残骸があった。私有地らしいがチェーンの類いもなく、雑草も生え放題なのを言い訳に、そのトタン屋根の下に緊急避難した。

 これで雨の直撃だけは避けられる。エンジンを切り、ヘルメットを脱いだ。見計らったように、屋根に打ち付ける雨の音がドラムの響きとなって降ってきた。雨の勢いは先ほどよりも増していたが幸い風はそれほど強くなかったので、錆びて穴だらけになった側壁でも十分心強い。

 とはいえ雨が止む気配はなく、足止めが長引くことは覚悟しなければならない。気温はそれほど低くはないが、ずぶ濡れの身体の震えは止まらない。せめて濡れた服を着替えたい。

 無駄と思いながらもツーリングバッグを漁った。スマホは無事だ。他にタオルと昨日着替えた下着、スウェットシャツが辛うじて濡れずに納まっていた。ひとまず濡れた衣類を着替えよう。汗臭くても濡れた服よりはましだ。

 ジャケット、ワークシャツとTシャツに続き、躊躇わずにジーンズとボクサーパンツも脱いだ。荒天のせいで交通量は少なく、激しい降雨のせいで視界が悪いのも幸いだ。タオルで素早く全身を拭き、下着を身に着けた。スウェットシャツに腕を通すと、上半身は何とか落ち着いた。

 雨に濡れてずっしりと重くなったジーンズを力任せに絞った。結構な量の水が滴り落ちた。部分的に何度か同じように絞ったが、もう両手の力ではどうにもならない。寒さも加わって握力も失いつつあった。仕方なく、エンジンを覆うようにジーンズを拡げた。気休めでも、エンジンの余熱で多少なりとも乾くかもしれない。

 見通しが悪いとはいっても、道沿いで車の往来はそれなりにある。冷静になって道路側からの光景を想像したら、急に恥ずかしさが襲ってきた。車庫の片隅で若い男がパンツ姿で蹲っている画というのは、あまりにも滑稽だ。シュールと言えるかもしれない。昇は慌ててバイクの後ろに身を隠した。

 しばらくバイク越しに道路を眺めていたが、雨は一向に衰える気配がなかった。寒さと惨めさと心細さで、体感温度はさらに低下していく。とは言えここでは暖を取る術もない。途方に暮れているうちに辺りがさらに暗くなってきた。日没の時間が迫っている。

 思考停止状態のまま車の往来を見ながらぼんやりしていると、右方向から赤い塊が迫ってきた。ぎょっとして目を見開くと、眼前に赤い車が停まっていた。

「やっぱり君だったのね。見たことのあるオートバイだと思って」

 サイドウインドーを下ろして顔を見せたのは、自販機の彼女だった。

「あっ? 昨日の・・・ああ、ごめんなさい、こんな恰好で―――」

 慌ててジーンズで下半身を隠した。

「雨宿りしてたの?」彼女は車外に出て、屋根の下に駆け込んだ。「あらあら、すっかり濡れ鼠ね」

 少しだけ面白がっているようだった。

「しばらくすれば小降りになるかなって思ったんだけど、止みそうになくって」

「明け方まで降るらしいわ。それより君、このままじゃ風邪引いちゃうわよ。・・・ねえ、頑張って5分くらいは走れる?」

「そのくらいなら。でも・・・」

「いいから、支度して。それからわたしに付いてきて」

 彼女は車に駆け込むとライトを点灯し、薄闇を照らした。素早く方向転換すると二度ばかりアクセルを吹かし、彼の合図を待った。

 昇は苦労して何とかジーンズを穿き、ジャケットに腕を通した。バイクのエンジンを始動し、短くホーンを鳴らした。ジュリエッタがゆっくり道路へ出て行く。昇はそれに倣って後を追った。方角としては山梨方面に向かっている。彼女にとっては逆戻りだ。疑問が湧いたが、再び雨滴がヘルメットを叩き始めたので、そちらとの戦いに切替えた。冷え切った身体にあと少しだと言い聞かせ、必死にテールランプを追った。

 そして正に5分後、彼女の車のウインカーが点滅した。車は派手なネオンのゲートを抜けて、薄暗い駐車スペースに滑り込んだ。昇は無感覚のまま後に続き、その横にバイクを停めた。

「さあ、貴重品だけ持って」

 彼女は返事も待たず先に歩いて行く。言われた通り、ツーリングバッグの中からサブバッグだけを持って彼女に続いた。

 妖しい雰囲気のホールの左手に小窓があり、横の壁面にはいくつか明かりの灯ったパネルがあった。

(ラブホテル・・・)

 彼女は笑顔で頷き、エレベーター前で手招きした。彼は俯き加減のまま小走りでエレベーターに乗り込んだ。

 二階で降り、204と書かれた部屋に入った。彼女がいくつかのスイッチを押すと、部屋が少しだけ明るくなった。その明かりの中にダブルベッドが浮かび上がった。

「まずは熱いシャワーを浴びてきたら。そのままじゃ風邪引くわ」

 一瞬躊躇ったものの、熱い湯の誘惑には勝てなかった。

 昇は衣類を脱ぎ捨ててバスルームに駆け込み、震えながらシャワーのレバーを捻った。程なく熱い湯が全身を叩いた。

(生き返った)

 筋肉がほぐれるにつれ、思考も少しずつ働き始めた。この状況をどう考えればいいのだろう・・・だが、今は熱いシャワーに感謝だ。

 脱衣場には厚手のタオルはもちろん、バスローブも備えてあった。悩んだが、選択肢がないと気付いてバスローブを纏った。火照った身体に柔らかな生地が心地良い。

「どう、身体温まった?」バスルームを出ると、彼女が母親のような口調で続けた。「お腹空いてるでしょ?」

 戸惑って、うんとしか言えなかった。

 彼女は自分のジャケットをクローゼットのハンガーに掛けると、ベッドサイドの受話器を取って食事の注文を告げた。

 現金なもので、雨の心配がなくなったら急に空腹を覚えた。同時に、今の状況をどう捉えるべきなのか迷いも生じた。それでも結局は自分に言い聞かせた。これはあくまでも成り行きで、彼女の親切心なのだと。

「ありがとう。そうだ、名前も言ってなかった。僕は日下部昇」

「ノボル君ね。わたしは・・・マナミ」

 僅かに言い淀んだ。だが気にしないことにした。大人の事情というやつなのだろう。それに、彼女の名前で状況が変化するわけでもないのだ。

 ラブホテルに入るのは初めてだが、想像していたものとは様子が違った。家族旅行で泊まったリゾートホテルとさほど変わらない。ダブルベッドが二つ、高級そうなソファーセットもある。サイドボードにはグラスやコーヒーカップも収まっている。

 部屋の造りはリゾートホテルと大差はないが、今の状況は惨めなものだ。視界の先には、濡れたジーンズや下着がエアコンの風に揺れている。

 しばらくして料理が届いた。

「飲み物は?」冷蔵庫を覗き込みながら訊いた。「でもお酒はダメよ」

「コーラでいい」

 彼女はグラスに注いだコーラとビールをテーブルに置き、二人は向かい合って座った。

「乾杯」

「いただきます」

 昇はいきなりフォークを突き立て、デミグラスソースのかかったハンバーグを頬張った。どうやら冷凍物のようだが、味は悪くない。空腹のせいだとしても十分合格点が付けられる。ナイフが添えられてはいたが、フォークだけで事足りた。マナーや見てくれを気にする余裕はなかった。

 その食べっぷりを、彼女は微笑ましそうに見ていた

(あの男がこんな無防備な表情を見せたことも、昔はあったわ・・・)

 昇が付け合わせのポテトを平らげたところで、唐突に切り出した。

「それで、どうだったの?」

 コップのビールを飲み干し、服が乾くまでたっぷり時間はあるわ、彼女はそう言った。

「それが・・・」

 とたんに気が重くなったが、女子の気持ちなどわからない昇はただ事実を話すしかなかった。親友に傷口を晒し、慰められた件(くだり)まで。

「―――つまり、あっさり振られちゃったのね。でも、想いは伝えたんだからそれだけでも前進よ」

 明るく軽い物言いに力が抜けた。どんな慰めの言葉を聞かされても今さらどうなるものでもないが、ふっと気持ちが軽くなった。どう繕ったところで事実は変わらない。ならば受け入れるしかないのだと。

「僕のことはもういいよ。それより、そっちこそ上手くいったんですか?」

「君と一緒。私も振られたの」軽い意趣返しのつもりだったが、彼女は表情も変えずさらりと答えた。「というか同じ方向も向いていなかったみたい。お互いに愛していると思っていたのに。馬鹿よね。彼には他にも女性がいたの、わたしよりもずっと若くて従順な女性が」

 その声は平静だった。悲嘆や喪失感、まして嫉妬といった湿った響きはなかった。

 冷蔵庫からビールを取るために彼女が席を立った。鼻先を淡い香水の匂いが掠めた。自分に下心などないが、急に鼓動が高まった。

 服が乾くまで。とうてい一、二時間で乾くはずもない。つまり二人で一晩過ごすことになる。年上の美人を前にして妄想を抱かない方がおかしい。彼女はそのつもりで誘ったのだろうか。まさか。

「わたしもシャワーを浴びてくるわ」

 食事を終えた彼女はバスルームに向かった。

 いよいよ妄想が膨らんでいく。鼓動はさらに早まった。

 ソファに座っているのは落ち着いているわけではなく、身の置き場がないからだ。ベッドに移動するのはあまりに露骨だし、元よりどう振る舞えばいいのかわからなかった。

 10分ほどしてバスルームのドアが開き、髪をタオルで拭きながら彼女が出てきた。昇と同様にバスローブ姿だ。冷蔵庫を開け、三本目のビールを手に取った。

「ねえ、彼女とキスはしたの?」

 そう言いながら、缶から直接ビールを飲んだ。

「そ、そんな・・・」

「あら、意外ね」

 本心だったのか、純情ぶりを滑稽に思ったのかはわからなかった。

「・・・そう。じゃあ、わたしとキスしてみる?」

 やはりからかわれていた。それとも、三本目のビールのせいだったか。いずれにしても、彼女のような女性が相手にするのはハイスペックの”大人の男”と相場が決まっている。気まぐれで、高校を卒業したばかりのガキをからかって楽しんでいるだけだ。

 一瞬のことだった。何かしらの言葉を返そうと、答えに窮したその口を彼女の唇に塞がれた。彼女の手が器用にバスローブを剥ぎ取った。彼は無抵抗だった。というよりも、頭が真っ白になってどうしていいかわからなかった。

 悪友たちと散々女子の話題を吹聴していたけれど、実態は何も知らなかった。クラスの男子の3分の1は〞経験済み〟だと聞いていたが、たいていは見栄に違いなかった。せいぜい数人がいいところだろう。

 昇はその他大勢の仲間だった。バイクを乗り回して悪ぶったり、受験の失敗を気にもしない風を装っていても、実体は挫折感に打ちのめされている小心者だ。しかも、ファーストキスの相手は真琴と決めていたほど純情なのだ。にもかかわらず、一足飛びに”その場面”に直面したのだ。 

 手足が震え、心臓は飛び出しそうに激しく脈打っていた。その胸に、彼女はゆっくりと素肌を押し当てた。温かく柔らかな感触が、肌を通り抜けて身体の深部に染み込んでくる。それに反応するように自然に両手が動いた。相手の背中に回した両腕に力を込めた。抱きしめたのは真琴でも誰でもない、”女性”だった。その先は何も考えなかった。成るがままに思考と肉体を解放した。ただただ次第に熱く高まっていくのに任せた。

 やがて、身体の奥底と同時に脳の中で閃光が弾けた。

 

 テーブルの向こうにパジャマ姿の女性が座っていた。二人の前のコーヒーカップから立ち上る湯気が、朝の光の中で揺らめいている。昇はこれまで味わったことのない充足感を覚えながら、カップを口元へ運んだ。すると、新たな湯気の向こうで人物の姿が陽炎のように溶けはじめた。慌てて虚空を掻き抱くように両手を振り回したが、触れるものはなかった。虚しくさらに手を伸ばしたところで目が覚めた。  

 無意識に傍らを見やると、数時間前の温もりと共にその実体も消え失せていた。

(マナミさん)

 シーツを剥いで起き上がった。全裸だった。とっさに浮かんだのは羞恥心と猜疑心だった。窓側の椅子の背にジーンズとTシャツ、そして下着が掛かっていた。夢ではなかった。今度は安堵感と優越感らしきものが込み上げてきた。

 エアコンのおかげで不快ではないくらいには乾いていた衣類を身に着けると、妙に落ち着いた。深呼吸してベッドに仰向けに倒れ込んだ。天井の無機質な模様が、白い綿雲のように見える。その模様を視線で追っていくと、ナイトテーブルに行き着いた。そこにはクリーム色の便箋が一枚置いてあった。重しのように百円硬貨が載せてあり、意志の強さが感じられる角張った文字が並んでいた。

 

  少年へ

おはよう。すっきり目覚めたかな。

きみは優しいわ。きっと意中の彼女さんも可愛くて素敵な人だと思う。

彼女の言葉はきみへのエールじゃないかな。

何がしたいのか、何をすべきなのか、先ずは自分を見つめて欲しいと。

自信を持って自分で決めた道を進めば、思いはいつか必ず相手に伝わるはず。

いくらでもチャンスはあるのよ。明日は、未来は必ず開けるわ。

若さはそれだけで貴重なの。だから無駄にしないで挑戦して、経験することだわ。

夕べのことはそのひとつ。でも、思い出にしてはダメよ。ただの経験なのだから。

 お説教臭いことを書いてしまってごめんなさい。

 借りたお金は返しておくわね。

 あの時のコーヒー、本当に美味しかった。

   ありがとう。

                        通りすがりの年上の女より

      

 一読してポッと胸の辺りが温かくなった。何かが溶けて動き始めたように思った。散らかり放題だったパズルの最初のピースが、あるべき位置に納まったときの感覚だ。ひとつが定まれば、次のピースは自ずと見つかるだろう。

(まずはやってみる・・・か)

 モーテルのベッド上での決意表明―――決して不謹慎なんかじゃない。時間には限りがある。とにかくスタートするしかないんだ。

 荷物を持って階下に降りた。恐る恐る小さな窓越しに部屋のキーを返すと、支払いは済んでいると告げられた。這い出すようにガラスの自動ドアを出る。一番奥のスペースに停めたSR400のシートとタンク、ハンドル周りの水滴をタオルで一通り拭い、建物の周囲に巡らせた塀の外までエンジンを掛けずに押し出した。

 ホテルの入口は少し引っ込んでいるが、5メートルほど先は国道だ。雨は朝方早くに止んだらしく、道路には灰色に乾き始めた二本の筋が延びている。まるで自分の進むべき道標のようだ。

 キーを捻り、キックペダルを踏み抜いた。息を吹き返したエンジンは僅かな時間戸惑ったようにリズムを乱していたが、すぐにいつもの力強さを取り戻した。

 ゆっくりと道路に出て、より鮮明になった左側のラインを辿る。朝の光はまだ控えめで、薄い雲が断片的に空に散っている。外気温はまだ上がらず、日射しが弱いとライディングにも気合いが入らない。

 法定速度を維持し、且つ路面状況に目を配りながらも朝方見た夢を思い返していた。ベッドから起きたばかりの男と女が、パジャマ姿のままモーニングコーヒーを飲むという決まりのワンシーン。しかし目を覚ました時、それは夢というよりも妄想だったのだと思い知った。しかも中途半端な。

 ようやくエンジンも暖まり、筋肉もほぐれて手足の感覚が戻ってきた。合わせて肉体と現実が同期し、マシンとの一体感を確認することができた。

 フェイスシールドに光が射した。濡れ残った路面が朝日を反射し、川面の白波のように煌めいた。流れ去る木々の葉は互いに溶け合って緑のタペストリーを織り上げていく。見上げるといつのまにか薄雲は消え、吸い込まれそうな青空が拡がっていた。

 視線を灰色のアスファルトに戻すと、重力を思い出したかのように尻にシートの感触が蘇った。纏った空気も現実的なものとなった。体表に当たる風や街の匂い、生活感溢れる雑多な音。どれもが生きている証だった。

 反対車線沿いに、昇のお気に入り飲料メーカーのロゴが見えた。反射的に速度を落とし、ミラーで後続車を伺った。少し離れてトラックが映っていた。ちょうど対向車が切れたので道路を横断し、自販機が並んだスペースにバイクを停めた。

 まさに吸い寄せられた感覚だ。例の場面が頭に焼き付き、もはやコーヒーを口にすることしか考えられず、抗うことができなかった。ひとりだろうと構うものか。妄想なら完結させよう。自販機の前に立ち、ジャケットのポケットに右手を突っ込んだ。ありったけを取り出すと百円と十円硬貨が四枚。丁度だ。

 一連の流れで硬貨を入れる。ところが機械は反応せず、百円硬貨が返却口に戻っていた。再度投入したが、変形してしまっているのか何度入れ直しても返却口に戻ってくる。諦めて反対のポケットを漁ったが、手に触れたのはマネークリップに挟んだ五千円札一枚だけだった。尻ポケットも探ったが、やはり小銭はない。今日に限って、何てついてないんだ。心の中で罵ってみたところで事態は変わらない。金はあるのに・・・こんなに悔しいことはない。あの時の彼女も同じ気持ちだったのだろう。

 はっと思い出した。急いで振り分けのツーリングバッグを覗いた。サブバッグに二つ折りにした彼女のメモと、その底には銀色の硬貨が光っていた。せめて昨夜の記念にしようと思っていたが、彼女の言葉に従おう。

〈思い出にしてはダメよ〉

 昇は気を取り直して自販機に向き合った。まるで対決するかのように。祈りを込め、改めて硬貨をスロットに落とし込んだ。ランプが一斉に灯った。小さくガッツポーズをして、例によって〈ブラック〉のボタンを押しかけたが、思い留まった。

「モーニングコーヒーはちょっぴり甘いんだろうな、たぶん」

 独り言のように呟いて、隣の〈微糖〉のボタンを押した。

 『ガコンッ』

 辺りを憚るような盛大な音を立てて、缶が取り出し口に落ちてきた。

 彼は取り出した熱々の缶コーヒーのタブを引くと、朝日に目を細めながら、晴れ渡った青空に向けて高々と掲げた。

                                 (了)

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