冬の揚羽蝶

犀川 よう

冬の揚羽蝶

 彼女は「今日ね、青い揚羽蝶になりたい」と言った。まだ蛹さなぎしかいないような、粉雪の冬の日だ。彼女の長い睫毛には一粒の雪が舞い降りてきて、瞬きをするたびに揚羽蝶が羽ばたいているように見える。僕はそんな姿を見ながら、垂れ下がった彼女のマフラーをなおしてあげると、彼女は「ありがとう」と言った。彼女の口元は、白い薄煙が立ちこめている。僕は「今日、なりたいの?」と返したら、「一緒に揚羽蝶になってくれると、約束したじゃない」と言った。僕は何故今日なのかを尋ねようとしたけれど、このまま寒い中にいるのもどうかと思い、彼女の背中に手を添えて、高校からの最寄り駅の待合室へと彼女を連れていくことにした。

「どこかに飛んでいきたいなら、鳥になればいいのに」

 僕が待合室の達磨ストーブに手をかざす彼女にそう言うと、彼女は首を振った。僕はそれ以上追及する気にはなれなくて、黙ってストーブの赤色を眺めていた。――どうせ揚羽蝶になるなら、青い揚羽蝶になりたい。僕はその話を思い出しながら、彼女の睫毛に上にある白いりん粉のような粉雪に触れた。外を見ると、まばらだった粉雪は吹雪に近い状態になっていて、十メートル先は白い壁のようになっている。高校最後の冬は、僕たちの進路を危ぶむかのように、見通しの立たない白い空の日が多かった。


 彼女の言葉を聞いて、僕は小学校の図書館を思い出す。当時、僕と彼女は競うように本を読んでいた。どれだけ読んだのか、図書カードに記録する数を争っていたのだ。僕は主に古い時代の小説が好きで、彼女はおとぎ話の類の本が好きだった。

 ある年の冬の底冷えする図書室で、僕はわかるはずもない魯迅の阿Q正伝を眠くなりながらペラペラとめくっていたら、彼女が一冊の図鑑を僕の前に持ってきた。

「図鑑は読んだうちにはいるのかなぁ」

「そんなのはどうでもいいから、これを見て」

 彼女は自分しか知らないものを発見したかのような笑顔で、揚羽蝶のページを見せてきた。僕は彼女が何を言いたいのか理解はできなかったが、少しだけ心を奪われた。少なくとも、阿Qの醜い心の中を読まされるよりは胸がおどるような気がした。

「きれいだね」

 僕はぼんやりとした感想を言うと、彼女は「将来は揚羽蝶になりたくない?」と言った。僕は理由もなく、それもいいかなと思い、「僕は青い揚羽蝶がいいな」と図鑑に指を差した。

 彼女は「わたしも、君と同じ青色がいいな」と笑った。僕は何故、彼女が揚羽蝶になりたいのかは聞かず、「一緒に青い揚羽蝶になれるといいね」と返して、彼女と青い揚羽蝶になる約束をした。

 理由を聞かなかった僕に、彼女は哀しそうな顔をしながら、ポツリポツリとわけを話してくれた。祖父の家で小説を書いていたら、祖父の書斎に連れていかれ、「もっと女の子らしいことをしなさい」とたしなめられたと言う。彼女は小説家になることが夢だった。小学校四年生の頃には、ノートにたくさんの小説を書いていて、僕にも何回か読ませてくれたことがある。彼女の将来は祖父の一言で、祖父の書斎に飾ってあった揚羽蝶の標本のように閉じ込められてしまった。彼女はそのガラスの箱に入れられた揚羽蝶に、自分を重ねてしまっていたのだ。

 僕はもう一度、「一緒に青い揚羽蝶になれるといいね」と言うと、彼女は何も言わずに図書室の窓の向こうを見て、自分が女の子であることを呪っていた。


 その年、僕たちはある本の感想を書いて市から大賞を獲得すると、その女性作家の前で感想文を読む機会を与えられた。これは、地域の小学生としてはかなり名誉な話で、会場である市民会館の会議室には、高校生しかいなかった。彼らは僕らを馬鹿にするかのように、難しい言葉を使って、女性作家に感想を述べていった。僕は自分たちが何も知らない、まるで阿Qのような存在として扱われていることにひどく悲しくなった。

 やがて彼女の発表の番になると、彼女は用意してきた作文を読むことはせずに女性作家に問いかけた。

「先生は揚羽蝶になりたいと思いますか?」

 女性作家の書いたものは、いじめについての道徳的な物語だった。そこには揚羽蝶が登場する余地などまったくなかったのに、彼女は女性作家に向かって目を輝かせながら聞いたのだ。きっと、そんなことを真剣に聞いてくれる大人であり女性である人は、この女性作家くらいだと思ったのだろう。その淀みのない声に、彼女の好奇心と、練習をした成果が浮かんでいた。

「――そうですね。もし、わたしがこの本の中にいる、いじめられっ子だとしたら、そう思ったかもしれませんね」

 言葉を選ぶ女性作家の柔和な笑顔が、彼女の気持をいたく傷つけた。僕は、彼女の魂がガラスが砕けたかように粉々になっていく音を聞いた。きっとこの会議室にいる連中には、わからない音だ。僕はがっくりとして席に座る彼女の手を握った。――僕ならきっと、「自分も揚羽蝶になりたい」と、まっすくに答えたのにと思いながら。

 小学校への帰り道は、雪が降っていて、水分を含んだ重い雪道になっていた。僕らは白い空の下で、灰色になった泥雪の中を這うように帰る。この日を境に、彼女は図書室に来ることも小説を書くこともなくなって、それは中学、高校と変わることはなかった。中学二年から付き合いはじめても、図書室に行くのは僕だけになる。僕は毎年冬になると、図鑑を開いて揚羽蝶を見た。――もし僕たちが揚羽蝶になれたら、彼女の魂は救えるのではないか。僕はそう思いながらも、数年間何もできずに、彼女のそばにいるだけなのであった。


 家の最寄駅に着くと僕は何も言わずに、かつて通っていた小学校に彼女を連れていく。当時の担任教師が校長先生になっていて、校長先生は僕らを覚えていてくれ、突然の来訪を歓迎してくれた。僕は辛い思い出を引きずっている彼女の手を握りしめて、あの図書室の前まで来た。扉の前で彼女は入ることをためらったが、僕は彼女の手を握ったまま扉を開けた。そこには、二人でいた頃と変わらない景色と同じ匂いがした。窓の外を見ると、雪はおさまっていて、晴れた空が見えていた。

 僕はかつて一緒にいた場所に彼女を座らせてから、あの図鑑をさがす。記憶と案内板を頼りに追っていくと、すぐに見つけられた。僕は彼女の前で、揚羽蝶のページを開く。八匹並んで掲載されていた揚羽蝶のうち、青い揚羽蝶だけがいなかった。青い揚羽蝶など、最初からそこにいなかったかのような、ただの余白があった。

「あの時のこと、まだ気にしているの?」

 何の質問であるかわかっている彼女は、黙って頷いてから立ち上がり、窓を開ける。すると、彼女はまぶしい青い光に包まれて、自身も青く光り輝いた。驚いた僕は立ち上がると、視界が青くなっていくのを感じた。


 やがて僕たちは、かつて図鑑に載っていたあの青い揚羽蝶になって、窓から飛び出した。晴れてはいても冬の厳しい寒さの中、羽を懸命に動かして、空高くひらひらと飛んでいるのだ。僕は彼女の舞う姿を眺めながら、彼女の行きたい方についていく。何もかもから解放された彼女の、たくましい羽ばたきを見て、僕は、ああ、図書館で過ごしたあの時間は、けっして無駄ではなかったのだと、嬉しくなった。彼女との約束を果たすことができて、誇らしい気持ちにもなれた。僕も彼女も、懸命に羽ばたく。見えない将来に向かって、自由という寒空を舞うのであった。

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