第4話 遭遇

 駅のホームに降り立ち、あえて立ち止まったまま前後を見渡してみる。蛍光灯の光で煌々と照らし出されたホームの上には、彼以外の姿はない。

 たった一人の乗客が大きなため息をつくのと、電車のドアが閉じるのは同時だった。ホームから淡々と線路の上を進んでいく電車を眺めながら、ようやく彼――スーツ姿の永友も歩き出した。


 深夜近くになった駅の改札は無人になっており、駅員室の窓には無機質なシャッターが下りている。監視カメラすら取り付けられていないが、それでも永友は改札に置かれた受け皿の上に、購入した切符を乱雑に放り棄てた。


 セキュリティもなにもあったもんじゃあない――久々に痛感した生まれ故郷の“田舎”っぷりにまた一つ、どんよりとしたため息が漏れてしまう。

 穏月村おんげつむら唯一の駅を出ると、無人のロータリーが彼を出迎えてくれた。とはいえ、やはりタクシー一つ停車していない、がらりとした空間が広がっているのみだ。


 鞄を片手にとぼとぼと歩き出すと、すぐにポケットのスマートフォンが震えた。画面に映った母親の名前を確認し、どこか不機嫌な眼差しのまま応答する。


「なんだい、ママ。うん……今さっき、駅に着いたところだよ。大丈夫だよ、まっすぐ帰るからさ。もう、子供じゃあないんだから、そんなこと気にしないでくれよ」


 どれだけたしなめようとしても、電話の向こうにいる母親はどこか心配そうに声を震わし問いかけてくる。この時間まで帰りを待って起きてくれていたらしいが、その優しさが永友にとってはどこか煩わしく思えてならない。

 一言、二言と返すたびに、どうしても眉間のしわが深くなる。心なしか歩幅が大きくなり、革靴の音が乱雑に夜道に響いていた。

 先程まで小雨が降っていた影響か深夜近くの道路はじっとりと濡れており、一歩を踏み出すごとにみずみずしい音が革靴の裏に張り付く。


「いいよ、車なんて。大体、歩いてたかが10分そこらの距離じゃあないか。このまま帰るから、そんなに心配しないでくれ。時間も遅いんだから、先に寝ておいてくれていいから」


 母に応対しているだけだというのに、どうしようもない苛立ちが沸き上がるのを抑えきれない。「迎えに行こうか」と弱々しい声で問いかけてくる母を、歩きながらなんとか納得させ、電話を切った。


 一旦立ち止まり、わざと大きなため息をつく。肉体の内側に蓄えた激情のせいか、なぜか酷く全身が火照っていた。家まで続く大通りを眺めてみたが、こんな深夜に道を歩いている住人などどこにもいない。

 とぼとぼと歩き出しながら、自然と鞄を握る手に力がこもっていく。


 つくづく、この居場所が嫌になる――あの“同窓会”に参加して以来、永友の中には行き場のない焦りが渦巻き、日々を酷く憂鬱なものへと変化させていた。


 同窓会の最中、自身の境遇を声高に語りはしたものの、一方で口にすればするほどに永友の中にどうしようもない虚しさが沸き上がり、友人らからの賞賛を素直に受け止めきれない自分がいた。

 最先端のロボット工学を身に着け、一般的なサラリーマンよりも高収入を得ているという自負こそあるが、その事実の裏に潜む真実にも自分自身が気付いてしまっているのだ。


 生まれ育った片田舎で過保護な両親に縛られたまま、こうして情けなく人気のない夜道を歩かなくてはいけない。

 朝早くに電車に揺られ、残業をこなし、夜遅くに寝静まった村の中を歩く。まるで輝かしさなどとは程遠い、満たされることなき毎日をもうどれだけ過ごしてきたというのか。

 

 同級生達に披露した“虚栄心”は、日が経てば経つほどに空虚な感覚に変わり、自分の小ささを実感させる痛点にしかなってはくれない。そしてその上で、あの日出会った“彼”の存在が、永友にとってはただただ心苦しくてならなかった。


 かつての友人・檜山優司ひやまゆうじの顔が、永友の脳裏に浮かぶ。幼少期からとりわけ、目立って秀でた存在ではなかったように思う。だが一方で、彼はどんな人間とも分け隔てなく接し、あっという間に友好関係を築き上げてしまう、言語化できない“才”のようなものがあった。


 都会から舞い戻ってきた彼は、やはり幼い頃同様に秀才や天才といったたぐいの大人には育ってはいなかった。だがそれでいて、同窓会の場でもあっという間に他者との距離を詰め、多くの友人とにこやかに会話をしていた姿を、この目でしっかりと見ている。


 そんな彼を前にするだけで、永友が胸中に抱いた“虚しさ”はどうしようもなく肥大化してしまう。自身が張り続けてきた虚勢の数々が、優司の自然体の前ではあまりにも脆く、矮小なものに思えてならない。


 自分自身への苛立ちが、自然と歩みを加速させる。無理矢理、思考を切り替えようと努めたが、今度はまた別の仄暗い記憶が――数日前に死亡したガキ大将・石田の件が頭をよぎってしまった。


 同級生達にも告げたように、つくづく「馬鹿馬鹿しい」と思ってしまう。かつて、子供達が忌避していた一人の老人がその恨みを募らせ、石田に凶刃を突き立てた。そんな荒唐無稽な憶測に縛られるのは、理論的に物事を考えられない連中の愚かな考えだ。


 そう、強く心の中で否定しつつも、一方で永友の鼓動はどうしようもなく加速していってしまう。なぜか呼吸がリズムを崩し、気が付いた時には癖から眼鏡を直してしまった。


 そんなはずがない――どれだけ否定したところで、本心を偽ることができない。永友の中に蘇ったある一つの“記憶”が、事あるごとに“あの日”の情景を浮かび上がらせる。


 焼けつくような茜色。

 ざわざわと揺れる野山の木々。

 遠くからなり無数に鳴り響くカラス達の声。

 そして、視界の端で不規則に響く“雫”と、手にした“それ”の金属質な感触。


 あの日、“あいつ”は確かに、目の前で――噛みしめた奥歯が、きりりと微かに音を立てた。


 邪推を振り払いながら、とにかく永友は家に向けて急ぐ。相も変わらず、人っ子一人いない真夜中の大通りを、まっすぐに進んでいった。

 高台にぽつぽつと、灯りの付いている家屋が見える。その内の一つに自宅のそれを確認し、ほんのわずかに緊張が和らいだ。緩やかな坂道を登れば、いつも通りの我が家が待っている。


 肩の力を抜いたまま、視線を前へと戻した。だがそこで、緩みかけていた緊張の糸が再び強く、痛いほどに張りつめられてしまう。


 坂道のすぐ下――横断歩道前の街灯の下に、人影があった。

 背丈はちょうど永友と同じ程の、大人の影である。それが薄明りの向こう側から、ゆっくりと歩み出てきた。


 最初でこそ、気にすることなく歩みを進めていた永友だったが、数歩足を出したところで革靴の音が止まる。灯りの輪の端に踏みこみ、離れた位置からまじまじと目の前に立つ“それ”を観察した。


 一歩、また一歩と“それ”が近付いてくる。汚れた長靴がアスファルトを踏むたび、夜闇に覆い隠されていたその姿が少しずつ、外灯によってあらわになっていった。


 その異様さに、すぐさま永友は気付く。

 村人達が寝静まっている深夜だというのに、目の前に立つ“それ”は農作業着に身を包んでいる。首に巻いたくたびれたタオル、端がほつれている麦わら帽子と、どこからどう見ても畑作業に向かう人間にしか見えない。


 また一つ、長靴が前に出る。距離が一歩近づいたことで、目の前の“それ”の口元から漏れる、奇妙な音色をようやく確認できた。


「くらぁいおうちは、こわかろう。あかりのつくとこ、ゆぅらゆぅら――」


 奇妙な“歌”と共に、長靴がずしゃりと荒々しく大地を踏みしめる。ゆらり、ゆらりと“それ”は前に出ながら、なおも歌い続ける。


「やぁまがなくなら、あきらめよ。“にえ”ひきずって、おむかえだ――」


 夜という黒を背景に、外灯の白が綺麗なコントラストを生む。光は麦わら帽の下――口元に蓄えたぼさぼさの白い“髭”を照らし、克明に浮かび上がらせる。


 永友は呼吸を止めてしまっていた。こちらに近付いてくる“それ”――一人の“老人”から伝わる、まるで異質な圧に身動きが取れない。蛇に睨まれた蛙のように、指先一つ動かさずに対峙する存在を見つめた。


 考えるのではなく、無数の“思い”が同時に体内で炸裂する。体内を乱反射する感情の束が、鼓動をいたずらに加速させ、肉体の奥に嫌な熱を滾らせた。


 ありえない――永友という男の中で、“今”と“過去”が繋がってしまう。忘れようと記憶の奥底に押し込んでいた“あの日”が、眼前にまじまじと蘇っていた。


 ずちゃり、と長靴がまた一つ、大地を踏みしめる。老人の周囲の大気がぐにゃりと歪み、粘着質な液体のようにぐらぐらとうごめいているように錯覚した。


 何から何まで、見覚えがある。また一つ聞こえてきた“歌”と共に、老人は視線を持ち上げた。影の奥でらんらんと輝く二つの眼が、しっかりと永友を見つめる。


「わぁるいこはみな、でておいで。よこにならんでくらべぇな。“しおき”のかわりに、おやまいこ――」


 くぐもった、重々しい波長だった。それが体をどれだけ叩いても、永友は一歩たりと動くことができない。

 鞄を握りしめる手が、痛いほどに軋む。スーツの下をおびただしい汗が伝い、開けっ放しの口の中がからからに乾いた。

 熱さ、吐き気、痛み――それらがどれだけ訴えても、まるで思考が追い付かない。


 ありえない。

 こんなのはただの、勘違いだ。


 だってあの日、彼は――。


 永友まで1メートル程まで近づいた老人が、右手に携えた“それ”を持ち上げた。ゆるりと持ち上がっていく分厚い刃の表面を、外灯がするりと滑り落ちる。

 目の当たりにした“それ”の姿に――草刈り鎌という明らかな“凶器”を前に、やっと永友は我に返った。そんな彼に、目を見開いたままの老人が歌う。


 瞬きすらせず、それでも確かな笑みを浮かべて。


「わるいこはみな、それおとそ――“おに”がついたら、くびおとそ」


 永友は悲鳴を上げることはできなかった。乾ききった喉元からは「ごひゅう」という、かすれた音色しか湧き上がらない。だがそれでも、彼は一気に後ろを向いた。

 突然のことで肉体の至る箇所をひねり、痛める。だがその不快な痛みを抱いたまま、永友はアスファルトを蹴って走り出した。


 目の前に立つ老人――かつて子供達が“タケ爺”と呼んだ、それから逃げるために。


 革靴がほのかに湿ったアスファルトを踏み抜く。その音に、どこからともなく響いた“風切り音”が重なった。永友はかまうことなく、ただ力一杯に地面を蹴り、街灯の下に立つ老人から距離を取ろうとした。


 だが、踏み抜いた足から力が抜ける。ふくらはぎを襲った激痛に、下半身の制御が効かない。一蹴りが空回りした結果、受け身すら取れずに前へと倒れてしまう。

 胸や腕を打った固い感触よりも、脚部全体を貫く焼けるような“痛み”に声を上げそうになった。リズムの狂ったあえぐような呼吸を繰り返しながら、首だけを動かして自身の下半身を確認する。


 永友の左ふくらはぎ――紺色のスーツの上から、一本の長細い“棒”が突き立っているのが見えた。その先端が布地を貫き、皮を、その奥の肉を深々と抉る。

 自身の足を射抜いたそれがなんなのか、永友にはすぐに分かってしまった。


 今もなお、街灯の下に立つ老人。その右手には相変わらず農作業の鎌が握られ、鈍い光を放っている。だが一方で、彼が左手に携えた“それ”に目が釘付けになってしまった。

 一見すればそれは“銃”のような物体に見える。しかし、それはもっと原始的で、それでいて凄まじい速度で“矢”を射出し、対象を攻撃することができる代物なのだ。


 ボウガン――その明らかな“凶器”にまた一つ、永友の鼓動が跳ねる。

 現代社会ではまずお目にかかることのない一品に、永友の中に眠っていた――否、忘れようと押し殺していた数多の“記憶”が呼び覚まされていた。


 鞄を手放し、匍匐前進のような姿でアスファルトの上を這う。腕をどれだけ動かそうとも、思うように体は前に進んでくれない。腕が痛いほどに地面を擦り、スーツの袖が汚れ、破れようとも、まるで壊れたからくり人形のように永友は灯りから退こうとする。


 蠢くたびに、突き刺さった矢の根元から鮮血が溢れ出た。筋肉の脈動に合わせ真っ赤な雫が幾度も飛び散り、音を立てて地面を濡らしていく。

 痛くてたまらない。だがそれでも歯を食いしばり、涙すら浮かべて必死に肉体を動かし続けた。奥歯がぎしぎしと軋み、口の端から「フー」という獣じみた吐息が漏れる。


 痛みがどれだけ襲い掛かろうが、肉体がどれだけ苦しかろうが、それでも止まるということだけはできない。必死にその場から逃げようとあがきながら、永友はなおも己が対峙している“それ”を否定し続けた。


 ありえるわけがない。

 この場にいるはずがない。


 あいつは、もう――前進しようと永友は、大きく手を伸ばす。


 だがそんな彼の背後で、ゆらりと大気が蠢く。長靴が数歩、大きく大地を踏み、瞬く間に二人の距離はゼロになった。


 また一つ、ひゅっと風が鳴る。そして次の瞬間、「ズガッ」という鈍い衝撃音が、永友の全身を貫いた。

 老人の握りしめた鎌が、うつぶせになった永友の頭部に突き立てられる。分厚い鋼の刃は頭蓋を砕き、そのまま眼球へと貫通した。

 

 永友のかけていた眼鏡が弾かれ、砕け散る。左目から突き出した鎌の先端を追うように、真っ赤な血しぶきと、わずかばかりの脳漿がばらまかれた。


 伸ばしたはずの手が、びくびくと宙で痙攣する。不思議と痛みは感じず、最後の瞬間まで永友は夜の闇の中に救いを求めようと口を開いていた。

 だが、声が出てこない。形にならぬ「助けて」を繰り返す永友にかまうことなく、背後に立つ彼――タケ爺が動く。


 躊躇することなく、鎌を引き戻した。永友の頭部がえぐれ、飛び散った血液が老人の農作業着にまで到達し、べっとりと濡らす。


 その一撃を最後に、スーツ姿の男が事切れる。力なくアスファルトに倒れ込んだ彼を、老人はしばし、血濡れの鎌とボウガンを握りしめたまま、じいっと見下ろしていた。


 ぎょろり、ぎょろりと眼球が動く。絶命した男を見下ろすその眼に、一切の感情の色は見えない。

 やがて彼はくるりと振り返り、元来た道を帰っていく。狼狽するでもなく、戸惑うこともなく、ただ変わらぬ大きな歩調でゆらゆらと。


 真っ赤な血に濡れながらもなお、その口元からはあの“歌”が変わらぬ音色で漏れていた。


 “おに”がついたら、くびおとそ――一つの死体を薄明りの元に残し、老人は夜のとばりの中へと姿を消した。

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