君がおくる歌

香倉なほ

君がおくる歌

「暑い。まだ六月なのになんでこんなに暑いのよ」


 りんは手に持っていたシャーペンを放り投げる。それは綺麗な放物線を描いて机の上に転がった。机の上には他に教科書とノートが広げられていた。

 鈴の前に座っていたまことはそれを見て窓辺に行った。


「そろそろ衣替えの期間にはいるからそれまでの我慢だな」


 窓がからからと開けられる。外から入ってくる風は涼しかった。そこで鈴はふと思い、ブレザーを脱ぐ。こんなに暑いのに着ている必要はないだろう。

 窓の外に並んでいる木々は春には桜の花をつけていたが、今の季節は緑の葉をつけている。

 誠は鈴の方を振り返って言った。


「ほら、さっさと続き。あと少しだから六時までに帰れそうだな」


 この学校は普通教室の棟──普通棟と、特別教室の棟──特別棟がある。特別棟は文化祭の前のこの時期には部活動や生徒会のために八時頃まで開放されているが、普通棟は六時には施錠される。鈴は今日は古典の予習のために普通棟の教室に残って勉強していた。


「誠、ここの訳分かんない」


 誠はもう一度鈴の前に座った。鈴の指差すところを見て答える。


「『あつしく』は病気で弱ってるって意味だろ?とすると『いとあつしくなりゆき』は?」


「とても……病弱になっていき?」


「ここは『とても』より、『ひどく』の方がいいかな」


「おお、しっくりくる」


 理系が得意な鈴とは反対に文系──特に古典が誠は得意だった。


「誠は本当に古典が好きだよね。特に好きなの、何だっけ……。この源氏物語げんじものがたりの作者のライバルの人のお話で……」


清少納言せいしょうなごん枕草子まくらのそうしの中の『香炉峰こうろほうの雪』。中宮定子ていしの期待に清少納言が見事に答えたって話」


 香炉峰の雪はどんなだろうねと尋ねた定子に清少納言はすだれを上げさせ、にっこり微笑んだ。これは漢詩の“香炉峰の雪は簾をかかげてる”と言う話に機転を利かせたのだ。この漢詩は他の女房たちも知ってはいたが、普通に漢詩の一節ですねと答えるのではなく清少納言は動作で答えたのである。

 鈴は椅子をゆりかごのように揺らす。


「すごいスラスラ言えるんだね。あたしなんて古典って言ったら小学校の頃に覚えさせられた百人一首くらい」


「あの時はよく頑張ってたよな。あの国語嫌いの鈴がさ」


「あたしは国語嫌いでもあるけど負けず嫌いでもあるんです。あの時はクラスマッチの優勝がかかってたんだから」


 鈴はそっぽを向く。ちなみにそのクラスマッチは鈴のクラスが優勝していた。

 誠はそんな鈴をなだめながら、一冊の本を取り出した。それは百人一首の本だった。


「この話の作者の紫式部むらさきしきぶや枕草子の作者の清少納言が詠んだ歌も百人一首に入ってるんだ」


 誠は鈴に本を見せた。


 57番 めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな

 久しぶりに会えたのにすぐに雲隠れしてしまう月のようなつれない方だと、友を嘆く歌。


 誠はさらにページをめくって見せる。


 62番 夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関は許さじ

 鳥のマネをしても──これも元は漢詩ネタ──私はあなたには逢いませんよと、相手を拒んだ歌。


 その百人一首の本には水色の付箋が1つ貼られていた。誠は図書委員で、本に付箋を貼ることはのりの粘着部分が付くから嫌いだと言っていなかっただろうか。鈴は誠に尋ねた。


「誠、その付箋は?」


 鈴の視線に気がついたようで、誠は慌てたように本を閉じた。


「な、何でもない。……あと、これは付箋だけどのりの部分は切り取って紙を挟んであるだけだから栞と変わらないよ。それより鈴、予習の方は」


 鈴が時計を見上げると、それは六時手前を指していた。


「終わってない。……けど時間だ」


「……帰るか。明日の授業はここまで進まないと思うから大丈夫だろ」


 誠は鞄を背負う。「先、自転車取りに行ってくるな」と教室のドアを誠が開けると、そこには一人の女の子が立っていた。


「あの……三浦くん。少し、いいかな」


 胸の下まであるロングヘアをハーフアップにした、いかにも清楚な女の子。

 「俺?」と誠は自分を指す。女の子の雰囲気からその子が何をしに誠の元へ来たのかを鈴は察してしまった。


「……誠、先帰ってるね」


 鈴は教室から飛び出した。胸のあたりが──それよりも深いところが、痛んだ。



 帰り道。鈴が足早に歩いていると、自転車に乗った誠が追いついた。そのまま誠は自転車から降りて、鈴の横を歩く。鈴の中にはさっきの女子のことがあり、二人の間には見えない緊張が走っていた。


「……今日はありがとう。予習手伝ってくれて」


「何てことないさ、このくらい。でも今度数学分かんないとこあったら教えてくれないか?……今日みたいに居残りでもいいし。悔しいけど数学は鈴の方が成績いいからさ」


 鈴は思いっきり頷いた。鈴は足を止める。


「いいよ、いつでも。……あのさ、さっきの女の子なんだけど……」


 そういった鈴を誠は振り返った。


「俺は断ったよ。好きな人がいるってな」


 断ったと聞いて嬉しいはずなのに、好きな人がいると聞いて鈴はショックだった。しかし、それが断るための言葉なのか本当にそうなのかが分からない。そこがまた鈴を不安にさせた。

 話を変えようと鈴は口を開いた。


「誠はさ、他の人にもこうやって勉強教えてるの?」


 誠は足を止めた。鈴は自分が何か変なことを言ってしまったのかと、誠の顔を覗き込む。その間に誠は何度か口を開いて閉じるのを繰り返した。

 そして、何かを決心したかのように口を開いた。


「鈴にだけだよ。今までも……これからも」


 そう言うと誠は自転車に乗って遠ざかっていく。

 鈴はその言葉を何度も反芻して、去り際の誠の夕日のせいではない、紅く染まった顔を思い出して、ようやく気が付いた。

 自分が誠を思っているように誠も自分を思っていてくれていることに。


    *  *  *


 家に帰った鈴が携帯を開くと、メールが届いていた。件名はなしで誠から。たった一言、こう書かれていた。


『浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき』


 鈴は高校の国語の資料集の百人一首のページを出し、その歌の意味を探す。そこには、愛しい人への抑えきれない恋心を詠んだ一首であると書かれていた。

 鈴はその資料集をめくり、自分も誠へ一首送り返した。


『君がため 惜しからざりし 命さえ 長くもがなと 思ひけるかな』



─了─

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