浮き船ガーランド

セオリンゴ

序 西暦の終わり

 西暦2140年早春、マリラ・ヴォーはミシシッピ河を遡上する船上で銀色のカメラを構えた。


「なんて美しい光景かしら。ねぇ、リュス、これは奇跡だわ。

 150年間、ここが異常繁殖した耐性粘菌に覆われてたって信じられる?

 北米大陸の全産業が崩壊したのよ。大陸は封鎖され、アメリカ合衆国もカナダもメキシコも解体して、数億人の難民は世界規模の恐慌と紛争の元になったのに」

 マリラはカメラマンの仕事に戻り、河岸の光景と対話するようにシャッターを切った。


 傍らで穏やかに笑っているリュス・アイランは30歳を幾分か過ぎたルポライターだ。

「甦りし不毛の大地から宇宙へ手を伸ばそうとはね。まさに奇跡だし、人類のしぶとさと言えるな」


「しぶとい? 逞しいじゃなくて?」


「どっちでも同じさ。君が生まれた25年前、ここは真っ白の粘菌層で3メートル埋まって手つかずの荒野だった。それをナノマシンとネットの融合システムで再生させたんだ執念は凄い。ほら、見えてきた。セントル・アメリ社の市街と農場、そして軌道エレベーター研究所だ」


 河の緩いカーブに沿って船首が角度を変えると、地平線まで広がる春の小麦畑、100以上の巨大で真新しいカマボコ型の建物群が優雅に姿を現わした。

 マリラはシャッターチャンスを逃した。

「ああ、私としたことが!ご先祖さまに叱られるわ」


 リュスは驚いた。

「君の口からご先祖さまだって?」

「ええ、私の16人の曽祖父母のうち9人はアメリカンで、3人がカナディアンよ。彼らは未曽有の大災害に遭ったわ」

「君と一緒に仕事して長いけど初耳だ。ロシア系フランス人だと言っていたくせに」

「私が生まれた時、両親は仕事でトルコにいたの。父の両親はアメリカの難民2世で、母の両親はフランス系カナダ難民2世とロシア人。私は5歳の時、第4次イスタンブール事件に遭ったの」

「2120年の難民排斥事件か」

「忘れられない……アヤ・ソフィア寺院の尖塔が折れて人々の上に落ちた。全ては難民のせいにされたわ。身分証を持ってない人が次々に殺されて、瓦礫になった尖塔の上に積まれていた。一歩も動けないでいるとムスリム帽の老人が私の手を引いて『儂の孫だ』と言ったの。彼は私を父の元に送り届けた。

 ちょっと、リュス。なぜ私を見詰めてるの」

「君が生き延びて、僕に懸命に語っているからさ」


 マリラはわずかに眉をひそめた。

「生き延びたのは運だけよ。死はいつも身近だったわ。

 父が偽の身分証明書を手に入れて、イスタンブール発の避難船に飛び乗った。その時も砲弾が飛んでいたわ。パニックの中でタラップを渡った時、片方の靴が海に落ちた。私の代わりに死んだと思った。母の地縁でロシアに逃げたけど、4年後にまた地元と移民集団の衝突が始まった。銃弾や地雷に当たるより隣人の密告の方が怖かった。親戚は両親を脅して貴重品を奪ったわ。


 父は私にアメリカ訛りが残る英語を禁じた。片言のウクライナ語とトルコ語で話した。東欧の街を転々とする間は死の恐怖より人間への絶望が辛かった……。

 ドイツはまだ混乱してたから、母のルーツがあるフランスへ逃げたわ」


「良い選択だ、国際連合が移転した場所で、高等難民弁務官事務所もある」

「父は私を母の親戚の養女にしてフランス国籍を持たせたとたんに亡くなったわ。それからもあの体験を整理しきれなった」


 船は次第に速度を落としつつあった。風がゆったりと吹き抜けた。

「マリラ、どうりで君の政治と歴史のレポートがユニークなわけだ」

「一体どこで私の文を読んだの」

「君と出会った頃、パリ大学のオンライン・ライブラリで」

「わざわざ読んでいただけたのは光栄だけど、スパイみたいな真似しないでよ」


リュスは黙っていたことを詫びた。

「君は人間に絶望感を抱いてるくせに、実は絶望したくない女だ。紛争の中で育ち、人間性が状況次第で簡単に失われるのを見てきた。それを認めているのは君の経験と記憶であって、心ではない」

「そうかしらね」

「君の心は人間に暴力に頼らない問題解決の可能性を求めている。君にとって理想の政治システム、希望としての理想だよ。子供っぽいと言わないよ、俺は心理学者じゃないんだから。君はシャッターを切ることで絶望と理想の折り合う地点を探している気がするね。俺にも絶望してるのかい」


 リュスはさりげない冗談が好きだ。彼はマリラの肩に両腕を回した。

「君は傷ついた子供だが、若々しいエネルギーに満ちていて素敵だ。恋人になってもいいかい」

「友人のままでいてくれると助かるわ」

 リュスの腕がマリラから離れて、がっくり垂れた。

「ま、ま、またふられた!」

「私、恋愛は不器用なの」

「仕事が終わったら愛についてじっくり語り合おうよ」

「無駄だと思うわ。ほら、船が着岸するわよ!」


 2人は工場専用バスに乗り込んだ。

 マリラは父から譲り受けた黒髪を頭の後ろで束ねた。窓に映る目の緑は母からもらった。


 リュスとの仕事は6度目だ。彼のインタビューを耳にしながら彼女はインスピレーションの翼を広げ、シャッターを切る。その作業は彼女に安心と充実を生んだ。

 彼が言うように、ファインダーを通して現実を受け入れているのかもしれない。マリラは束ねた髪を揺らした。


 バスは広大な工場のゲートを通過した。マリラとリュスは指紋認証のパスを受け、広報室長が軌道エレベーターのエンジン機関について説明した。

 不意にマリラの電子ノートが鳴った。構えていたカメラのネットアクセスランプが盛んに点滅した。

「変だわ。ノートの電源は切ってあるのに」

 リュスも電子ノートが勝手にネット通信を始めたので、急いで停止ボタンを押したが、制御できなかった。


 突然全てのネット端末から音声が響いた。巨大な工場に人が歌うかのように、それは広がって消えた。

 この耳慣れない音が響いてから10秒間に、何かが凄まじい速さで変化していた。人の目には把握できない何かが進行していた。工場の技術者たちは作業を中断し、事態を分析しようと集まった。5分後に爆発が起こった。正確には空気が突然破裂し、冷たい暴風と化したのだった。 



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